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2005/07/11(月)
哲学的懐疑への「懐疑」
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僕はもともと哲学に対して強い執着はないし、むしろ素朴な相対主義と虚無主義とでも言えばいいようなかなり淡白な世界観がベースにあります。最初から「絶対的真理」への希求みたいなものはなかったし、「独我論」的な問い詰め方もしないのです。そのレベルでは、多分どれも一面的な思い込みに過ぎないだろうという見方をしてきました。
では、僕の考えていることは何かというと、「見える」ということへの問いです。なぜ人には世界はかく見えるのかという問いです。あるいは、同じことですが、世界はなぜこのように多様に見えるのかという問いです。多様性の統一とでも言えばいいのか、僕が目指しているものは、この多様な「見え」を有する世界とは何かという、その存立の仕方についての興味なのです。ある「見え」は世界が個体に強制するもので、その「見え」の共有という形で僕たちは世界に参入するのだという考え方が一方にあります。
他方で、では僕たちはその「見え」から「自由」であり得るのかというのが、もう一つの問いです。この「自由」とは一定の「見え」からの「自由」であると同時に、他の「見え」への自由であると言ってもいいと思います。「見え」の多様性は、根源的には共同体由来の排他的な同一性を根底に持っていると思えます。しかし、また共同体内部においても「見え」の多様性はあったのだと思えます。
多様性とは「差異」ですから、「見え」からの「自由」は「見え」への「自由」であると同時に、「見え」の差異への開けと考えることもできます。(中断)
風呂入ってくる。
もうちょっと明確に言うと、「見え」は必然だから、それ自身現実的ではあるのだと思う。「見え」が恣意的だということはないと思うし、それゆえに恣意的に肯定されたり否定されたりするべきものでもないと思うのでつ。然るべき位置にあるのだという以外に言いようがない、そのようなものとして「見え」はあって、それがあらゆる世界観のベースなのだと。
よく見ると、タイトルと中身が関係なくなってしまってる。orz
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