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2005/08/04(木)
ぐるぐる回って
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まだ答えは出そうにもないけれども、それでも少しずつ問題の所在ははっきりしてきていると思える。一番明快なのは、アフォーダンスが人と環境の相互作用のあり方を見ているということで、運動一元論的に見ると、これは運動のあり方についての考察以外ではない。知覚を運動から見ているのは正しいと思うし、身体と環境のダイナミックな相関の中でのみ知覚は正しく理解されるというのも、そのとおりだと思う。ダイナミックな変化の中に不変な何かを常に知覚しているという意味で、動的不変項こそが不変項の普遍的なあり方だと思うし、その不変項が複合的であるというのも、おもしろいと思う。
僕たちが、クオリアを含めて何を知覚しているのかという根本的な問題に対する答えは、この思考の先にあると思う。これは哲学的な問題なのか、それとも、何か別の学問の兆しなのだろうか。ギブソンは後者を何か予感しているし、僕も長い間そのような「新しい」学問の「地平」を夢見てきたように思う。方向性は合っていると思う。ただ、まだ何か足りない気がする。それはもちろんギブソンに足りないのではなくて、僕に足りないのだけど。
ヘーゲルとマルクスは違うし、ヘーゲルが哲学でやったことをマルクスは経済学でやったというのも違う。多分マルクスはだれもやったことのないことをやろうとして、半ば実行したのだ。それが「資本論」だと思う。この半ばというところが味噌で、そこから先は学問的に人跡未踏の地だということを意味している。アフォーダンスの理論がおもしろいのは、そこから先を指し示しているように思えるからだ。
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