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2006/04/20(木)
メモ
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行動が普遍的であること、意識がその部分であること、これは人が生きている世界の普遍性とその言語的理解の部分性ということと等同一である。言語が客観的な意識であるとすれば、言語化された世界こそが人にとっての客観的な世界である。実在する世界は行動の世界であるから、客観的な世界は行動の世界の一部である。行動の世界は現実的な相互作用の世界であるが、人にはその総体を理解することは原理的にできない。現実の行動と、その言語化された理解とは常に全体と部分の関係にあって、人はその行動によってしか、その部分性と限定性を変更できない。他方、言語は潜在的な行動であるから、人は前もって言語的に行動をシミュレーションすることはできるが、行動は現実的に普遍的であるから、常に人の意図を超える相互作用を引き起こす。
この世界の相互作用は常に人の意図を超えているから、だれも意図の延長線上にその未来を予見することはできない。
言語を超える相互作用の世界は非言語的には知覚可能であるが、それが何であるかを同定するには言語化するよりほかにない。つまり言語を超える相互作用の世界は、直接には個人的、「主観的」、「非言語的」な世界としてしか存在しない。相互作用の世界は、それゆえ常に個人の言語的世界を圧倒的に凌駕するものであるが、実際には言語的世界の隙間として現れるのだ。この隙間を言語化する営為は、あらゆる人によって行われているのである。
まだうまくまとまらないし、落ちているところが多いが、この方向で少し整理できそうな感じがしてきたw
↓拾い物(キャワ)
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