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2004/03/31(水) ウィキペディア

西洋

古代
演劇の正確な起源は分かっていない。一般に、古代の宗教的祭祀が発展したものではないかと考えられている。
古代ギリシャでは、紀元前5世紀頃にギリシア悲劇が成立し、巨大劇場で演じられるまでに発達していった。紀元前330年頃、アリストテレスは「詩学」のなかで、ギリシャ悲劇について論じると共に、文献に残る最古のドラマ理論を記した。「詩学」に書かれた理論は、現在もなお西洋演劇に影響を与えている。

古代ローマでは、土着の宗教とギリシャ演劇が融合し、娯楽性の高い劇が栄えていった。悲劇の分野では、前1世紀頃のセネカが、韻文による優れた作品を残している。


古代エジプト演劇
古代ギリシャ演劇
古代ローマ演劇
ギリシャ神話を題材とした文学作品一覧


中世
キリスト教が欧州に広まって以降、演劇の内包する批判性・娯楽性が、教会による弾圧の対象となった。演劇は悪と見なされ、ギリシャ・ローマ時代のように、劇場で上演されることがなくなった。この時代は500年以上続く。その間演劇は、旅芸人や大衆芸能の一つとして語り継がれていった。

10世紀頃になると、ローマ・カトリック教会が布教のため、演劇的様式を取り入れ始めた。聖書の内容を解説するための演劇が、教会によって行われた。これらは聖書の視覚化であり、布教のためにも有益だった。宗教劇は民衆に受け入れられ、民衆自身の手で聖史サイクル劇や神秘劇へと発展していった。その過程で娯楽化が進み、再び教会にとって好ましくないものとなっていった。

宗教劇は、ヨーロッパ各地で執り行われる祭りの一部に、今も痕跡を残している。

15世紀頃には、面々と受け継がれていた大衆芸能の流れを受け、寓話的な喜劇である道徳劇がイギリスを中心に成立し、ルネサンス期以降、欧州に広まっていった。


宗教劇(オラトリオ)
典礼劇 - 復活祭劇 - 降誕祭劇
受難劇(聖史劇)

聖史サイクル劇
神秘劇
道徳劇
パジェント


ルネサンス期
宗教改革以降、人間の世俗的な姿を描く演劇が現れ始めた。また、ラテン語で書かれていたアリストテレスの「詩学」が翻訳され、劇、戯曲の理論化が進んでいった。

ルネサンス期には建築技術も発展し、現代的な意味での「劇場」や「舞台美術」の原型が形作られ始めた。


イタリア
15世紀のイタリアでは、「詩学」を理論の基礎においた新古典主義演劇が生まれた。現代にまで続く様々な演劇の理論や様式が、この時代に形作られた。16世紀にはオペラが誕生し、独自の発展を遂げていった。
イタリアで発生した新古典主義以外の演劇の潮流としては、仮面即興劇のコメディア・デラルテがある。コメディア・デラルテは幅広い層に支持され、ヨーロッパ各国の演劇人に多大な影響を及ぼした。


イギリス
16世紀後半、エリザベス1世の統治時代、ロンドンでは独自の劇場文化が花開いた。新古典主義演劇の観客は貴族が中心だったが、ロンドンの劇場では一般の民衆も貴族も同時に一つの劇場で観劇することが多かった。劇作家は工夫を凝らし、あらゆる階層の人に受け入れられるような戯曲を書く必要があった。
この時代のイギリスでは、クリストファー・マーロー、ベン・ジョンソン、ウィリアム・シェイクスピアなどの劇作家が活躍した。1640年に起こったピューリタン革命では、劇場は閉鎖・破壊され、ヨーロッパの注目を集めたロンドンの演劇文化はいったん幕を閉じることとなった。この時期のイギリス演劇は「エリザベス朝演劇」と呼ばれている。

1660年に共和制が崩壊し、王政復古の時代に突入すると、演劇の上演も再開されるようになった。


フランス
17世紀のフランスでは、コルネイユ、ラシーヌ、モリエールなどの劇作家による喜劇が人気を集めた。モリエールの死後、モリエールの劇団を中心にコメディ・フランセーズが結成された。同劇団は現在も国立の劇団として活動を続けている(継続して活動している劇団としては世界最古)。

新古典主義演劇
オペラ
コメディア・デラルテ
ファルス
フランスの古典コメディ
コメディ・フランセーズ
エリザベス朝演劇


18世紀
18世紀は俳優の時代とも言われる。演劇は主に俳優を中心に考えて作られ上演された。時には古典劇の戯曲が、演じやすいように、あるいは俳優の好みに合うように書き換えられることもあった。演劇史に名を残す劇作家は、この時代は非常に少ない。しかし、演劇自体は盛んに行われていた。また、演劇のメインストリームが、王侯貴族によって保護された芸術としての演劇から、中産階級を主な観客とする日常の娯楽としての演劇へと、徐々にシフトし始めた時代でもあった。
ドイツでは、劇作家・啓蒙家のレッシングが戯曲「サラ・サンプソン嬢」を書き、中産階級の生活を描く市民劇の先駆けとなった。また、レッシングは「ハンブルク演劇論」(1767年-1769年)を記し、劇作技術についての新しい演劇論を展開した。

フランスでは劇作家ピエール・ド・マリボーが、フランスの中産階級の生活風景を題材に多くの喜劇を発表した。

イタリアではカルロ・ゴルドーニやカルロ・ゴッツィが、イタリアのコメディア・デラルテを革新しようと試み、フランス喜劇の生活感を描く手法を用いて多くの喜劇を書いた。



19世紀

19世紀イギリス演劇

ロマン主義演劇
メロドラマ
ウェルメイド・プレイ
自然主義演劇
リアリズム演劇
ロシア演劇
クローゼット・ドラマ

客間喜劇

20世紀以降
20世紀イギリス演劇

表現主義演劇
シュールレアリズム演劇
ベルトルト・ブレヒトの叙事演劇
不条理演劇
実験演劇
即興劇
ミュージカル
ワークショップ
リーディング

2004/03/30(火) インタールード?♪ 
http://plaza.rakuten.co.jp/tanamorri

インタールードは?

15世紀になると道徳劇とは別個に、
イタリアの「新しい学問」の影響で、あらたに一層宗教的寓意性をうすめ、より一層写実性と娯楽性を増した「インタールード」
題材を自由に選び、主に政治・社会変化・法律・教育に関する討論の対話劇で、夜の宴会の催し物の間に小人数で演じられた短い芝居である。
主として初期チューダー王朝の教育ある知的な紳士階級の邸で、行われたもので、とくにトーマス・モアにまつわる人たちの間で盛んであった。

2004/03/29(月) エリザベス1世?
エリザベス1世はどんな境遇?

1.プロローグ
エリザベス1世 Elizabeth I 1533〜1603 イングランド王国女王。在位1558〜1603年。ヘンリー8世と2番目の妃アン・ブーリンとの間に生まれ、チューダー朝最後の君主となった。父ヘンリーが3番目の妃ジェーン・シーモアと結婚するため、議会にアンとの結婚の無効を宣言させたため、エリザベスは非嫡出子とされた。しかし父王も議会も、エリザベスを、3番目の妃の子エドワード(のちのエドワード6世)、最初の妃の子メアリー(のちのメアリー1世)につぐ王位継承権者に指名した。

2.少女時代の即位
幼少のころは宮廷の外でそだてられ、アスカムなど一流の学者について古典をまなんだ。父の6番目の妃キャサリン・パーのとりなしで宮廷にもどり、父の死後もキャサリンの庇護をうけた。弟エドワード6世治世下におきた王位簒奪の陰謀に加担せず、姉メアリー1世治世下もエリザベス擁立をくわだてたワイアットの反乱にくわわらなかった。しかし、熱心なカトリック教徒だったメアリーは、エリザベスがプロテスタントであり、しかも自分の王座をおびやかしかねない存在であることから、反乱に連座したとしてエリザベスを投獄した。エリザベスは表向きカトリックに改宗して釈放され、難をのがれた。

1558年、メアリーの死によって即位。
当時のイングランドは、宗教紛争がたえず、経済的にも不安定で、フランスとの泥沼の戦争がつづいていた。エリザベスは、ウォルシンガム、セシルなど有能な側近の援助をえて、これらの難問にとりくんだ。59年初めに議会を召集し、礼拝統一法を制定してイングランドをメアリー治世下のカトリックからプロテスタントへとあらためた。議会は63年までに英国国教会の教義の基盤となる一連の法律を制定し、こうして国教会の立場が確立された。エリザベスの治世を通じてカトリックとピューリタンは抑圧されることになった。

3.国民的女王として
エリザベスが国民の人気をあつめたのは、この時期にイングランドの愛国意識が高揚したためでもあった。君主に対する国民の信頼が回復し、イングランドはあらゆる分野で繁栄を謳歌した。宗教問題がいちおう解決され、フランスとの戦争もおわったため、産業や経済の発展に本腰をいれる余裕が生まれた。そして、ドレークらによる私掠(しりゃく)船の活動もあって、イングランドは海洋大国へと発展していった。1560年には過去3代の治世で価値が大きく低下していた銀貨にかえて新貨幣が導入され、その結果、物価は正常にもどり、イングランド通貨は信用を回復した。政府は貿易を奨励し、66年にはロンドン王立取引所が開設され、1600年には東インド会社の設立が認可された。

治世の初めから、エリザベスの結婚問題は大きな政治的問題となった。イングランド人の王位継承権者がいなかったため、議会はたびたび結婚をすすめたが、女王は生涯独身をとおし、各国王家からの求婚をすべてことわった。しかし、レスター伯、エセックス伯、ローリーなど数人を寵臣とした。

エリザベスをもっともなやませたのは、カトリック教徒である従姉妹(いとこ)のスコットランド女王兼フランス王太子妃メアリー・スチュアート問題だった。メアリーが1567年に退位させられ、68年にイングランドに亡命してくると、エリザベスはただちに彼女を幽閉した。ヨーロッパのカトリック諸国や国内のカトリック教徒は、エリザベスは非嫡出子でありヘンリー7世の血をひくメアリーこそイングランドの正当な君主であると主張していたため、メアリーは反乱の火種になる恐れがあった。メアリーの幽閉は19年におよび、その間、70年には教皇ピウス5世がエリザベスを破門、カトリック教徒によるメアリー擁立の陰謀が何度もくわだてられた。エリザベスは86年に暗殺計画が発覚するにおよんで、ついにその翌年、メアリーを処刑した。

メアリー・スチュアートの処刑は重大な結果をもたらした。カトリックの大国スペインのフェリペ2世は、長年にわたりイングランドの私掠船になやまされていたため、これを機に1585年からつづいていたイングランドとの戦争に本腰をいれる決意をかため、88年、無敵艦隊を派遣した。しかし、無敵艦隊は大敗北を喫し、やがて植民地帝国、海洋大国としてのスペインの地位はイングランドにうばわれていく。また、プロテスタントのイングランドがカトリック国スペインの攻撃をしりぞけたことで、プロテスタント勢力が確実に国際政治の一角を占めるようになった。

4.晩年
多額の出費と王権の過大な行使によりエリザベスと議会はしばしば衝突し、治世の終わりごろには彼女の人気もおとろえていた。女王晩年の大臣たちは、有効な政策をうちだせなかった。そのうえ、1601年には寵臣エセックス伯が女王に対する謀叛をくわだてて処刑される事件もおきた。栄光の時代をともにきずいてきた家臣に次々と先立たれ、女王の晩年は孤独だった。エリザベスの死によって、チューダー朝はとだえ、スコットランド王ジェームズ6世(メアリー・スチュアートの息子)がジェームズ1世としてイングランド王位をつぎ、スチュアート朝を開始した。

エリザベスの治世期は文学の面でも黄金時代で、スペンサー、マーロー、シェークスピアなど多くの作家が活躍した。

2004/03/28(日) テキストからの研究課題 B
7. インタールードとエリザベス朝演劇との関連

イギリスでのルネサンス演劇は16世紀後半、エリザベス1世の統治下で開花した。新古典主義の悲劇や喜劇は大学で上演されていたが、エリザベス朝の劇詩人の多くは新古典主義の美学を眼中にいれなかった。観客として貴族だけを念頭におくヨーロッパ大陸の戯曲とはことなり、イギリスの戯曲は民衆を観客とし、大衆演劇や中世の生き生きとした演劇の影響を強くうけていた。当時イギリスは経済的にも政治的にも発展の途上にあり、英語という言語自体も新しい発展をとげていて、トマス・キッドやクリストファー・マーローといった劇作家たちが叙事的でダイナミックな戯曲を書いていた。しかし、なんといっても演劇史を代表する存在は、シェークスピアである。

エリザベス朝の戯曲は古典的な幕と場面からなり、散文が部分的につかわれることもあったがおもに韻文で書かれ、セネカやプラウトゥスやコメディア・デラルテの影響を強くうけ、悲劇と喜劇の要素を自由に混合したものだった。また、時間と空間は限りなく広がり、高貴な人物と庶民が同じようにあつかわれ、音楽やダンスのほか、見世物的要素もとりいれられて、暴力と戦争、なかでも流血の場面がしばしば登場した。悲劇の題材は神話ではなく歴史で、その歴史も同時代になにかのメッセージをつたえるためにつかわれた。喜劇は田園詩風で、妖精や魔法が登場した。シェークスピア以降は、ベン・ジョンソンのように新古典主義の規則に厳密にしたがって戯曲を書く作家が多く生まれた。

劇は円形の野外劇場で天候のよい季節をえらんで上演された。舞台は下層階級の観客が立ち見でみるオーケストラ席へはりだす形になっており、上流階級の観客が舞台をとりかこむ三方のボックス席にすわった。気温が下がる季節には、劇は私設の屋内劇場で上流階級の人々のためだけに上演された

エリザベス朝の戯曲は古典的な幕と場面からなり、散文が部分的につかわれることもあったがおもに韻文で書かれ、セネカやプラウトゥスやコメディア・デラルテの影響を強くうけ、悲劇と喜劇の要素を自由に混合したものだった。また、時間と空間は限りなく広がり、高貴な人物と庶民が同じようにあつかわれ、音楽やダンスのほか、見世物的要素もとりいれられて、暴力と戦争、なかでも流血の場面がしばしば登場した。悲劇の題材は神話ではなく歴史で、その歴史も同時代になにかのメッセージをつたえるためにつかわれた。喜劇は田園詩風で、妖精や魔法が登場した。シェークスピア以降は、ベン・ジョンソンのように新古典主義の規則に厳密にしたがって戯曲を書く作家が多く生まれた。

劇は円形の野外劇場で天候のよい季節をえらんで上演された。舞台は下層階級の観客が立ち見でみるオーケストラ席へはりだす形になっており、上流階級の観客が舞台をとりかこむ三方のボックス席にすわった。気温が下がる季節には、劇は私設の屋内劇場で上流階級の人々のためだけに上演された。エリザベス朝初期の演技スタイルも、戯曲同様、大げさで芝居がかったものだったが、シェークスピアの時代になると抑制された自然な演技が主流になった。舞台装置はほとんどなく、いくつかの小道具がつかわれる程度で、戯曲の中の詩的な言葉によって観客は想像力をかきたてられ、生き生きとした情景を思いえがくようになった。

エリザベス女王の死により政治・社会状況がかわり、それにつれ演劇の内容も変化した。なかでも喜劇は、ジョンソンの作品にみられるように、しんらつな風刺を特徴とするようになった。同時に宮廷で仮面劇が発展するが、そこではイタリアのインテルメッツォやフランスのバレエのように、ダンスや音楽をともなった寓話的な物語(たいていは宮廷の人々にこびるような物語)が展開した。仮面劇の書き手としてジョンソンが活躍したが、舞台の設計では建築家のイニゴー・ジョーンズがイタリア風の華麗で幻想的な装置を駆使して活躍した。

1640年、ピューリタン革命がおこり、60年まで劇場が閉鎖された。その間、劇場の建物の多くが破壊され、演劇は衰退していった。

人文主義者の演劇

2004/03/27(土) テキストからの課題の一部 続き
6. イギリス・ルネサンスにおける演劇活動

北ヨーロッパの宗教改革によって、16世紀半ばには宗教劇の系譜に終止符がうたれ、かわって新しいダイナミックな世俗劇が各地に登場した。サイクル劇や道徳劇の単純さとシェークスピアやモリエールの劇との間には途方もない距離があるように思われるが、中世後期には人間の葛藤・不幸や同時代の世俗的問題への関心、喜劇的なものとグロテスクなものがふたたび姿をあらわし、新しい演劇が生まれる素地ができていた。さらに、素人俳優から職業俳優への移行もみのがせない変化である。

15世紀末になると道徳劇とは別個に、イタリアの「新しい学問」の影響で、あらたに一層宗教的寓意性をうすめ、より一層写実性と娯楽性を増した「インタールード」が現れる。

14世紀中葉にイタリアに興ったルネサンスの波が,島国イギリスに伝わったのはやっと16世紀になってからであった。イギリスにおいても,ギリシア・ローマの古典文芸の再発見,科学の発達,宗教精神の覚醒,古い制度・束縛からの人間性の解放等をその特色とする。人文主義者トーマス=モア(1478〜1535)の『ユートピア』は,理想的共産社会を描いてイギリスの社会制度を諷刺したものであるが,理想国家へのあこがれを表現したいという意味において,ルネサンス精神を反映したものである。

● インタールード 題材を自由に選び、主に政治・社会変化・法律・教育に関する討論の対話劇で、夜の宴会の催し物の間に小人数で演じられた短い芝居である。
●世俗的芝居の最初期のもの 司祭ヘンリー・メドウォール(Henry Medwall)の傑作『フルゲンスとルークレース』
 

2004/03/26(金) テキストからの課題の一部 
5. 道徳劇の中心的課題(テキスト)
道徳劇は奇跡劇よりも遅れて14世紀末に現れた、全く新しいジャンの詩劇である。
道徳劇のテーマや登場人物はキリスト教からとられたが、サイクル劇のように聖書の物語を演じるのではなく、それ自身で自立していた。たとえば「エブリマン」のような道徳劇は、1人の人間の一生をえがいており、吟遊詩人や吟遊歌人のような職業俳優によって演じられた。寓意的な登場人物はそれぞれ死・大食・善行などの美徳、悪徳をあらわしていた。道徳劇の戯曲は、韻文の韻はくりかえしが多く単調で、シェークスピア劇の2〜3倍の長さがあることもめずらしくなく、そのうえ説教くさく現代の読者にとっては退屈である。しかし、演技者は即興で音楽や場面を挿入し、悪徳をあらわす登場人物の喜劇性を追求して、娯楽性の強いものにつくりかえた。

2004/03/25(木) 王政回復時代および古典主義時代 
【王政回復時代および古典主義時代の文学】チャールズ2世が議会に迎えられ王政が回復すると,ピューリタン時代への反動から,国中に一時乱脈・放縦な気風がもどりかけたが,やがて名誉革命をへて,理性と抑制の時代へと移っていった。この時代に英語の散文が確立し,諷刺文学が生まれた。共和政時代に禁じられていた演劇は復活したが,エリザベス朝以来の劇の伝統は断たれ,フランスの劇作法の影響を受けた風習喜劇が隆盛となった。劇作家としては,ウィリアム=コングリーヴ(1670〜1729)やジョン=ドライデン(1631〜1700)の名前をあげることができる。とくに後者は,政治的諷刺詩『アプサロムとアキトフェル』や『劇詩論』を書いて詩や評論のほうでも活躍し,この時代を代表する詩人劇作家であった。

 18世紀に入ると,アレキサンダー=ポープ(1688〜1744)を頂点とする古典主義的傾向の強い時代となる。いわゆる〈散文と理性の時代〉となり,秩序・均衡・常識を重視する風潮が文学においても主流となる。作詩は美的洗練が目標となり,詩人たちは因習的な詩語を盛んに用いて技巧をこらした。ポープの『批評論』や『人間論』まで,散文でなく,英雄詩格を用いて韻文で書かれなければならなかった時代思潮のなかでは,叙情詩があまりふるわなかったのも当然であろう。一方,平明達意の近代の散文が完成し,ジョナサン=スウィフト(1667〜1745)は散文で当時の政治・社会・思想等を諷刺する『ガリヴァー旅行記』を書いた。散文の発達とともにジャーナリストの活躍が始まり,社会・風俗・政治・宗教・文学等を論ずるエッセイが盛んに書かれるようになった。18世紀後半は,サミュエル=ジョンソン(1709〜84)と彼をめぐる文人たちの時代であった。ジョンソンは詩や小説も書いたが,その本領は最初の英語辞典の編さんと『イギリス詩人伝』の執筆に発揮された。従来の責族階級に代わって新しい中産階級が興り,個人の自覚と社会的意識がしだいに強くなっていった。また,かつての荒唐無稽なロマンスに代わって,現実の生活を題材とし,英雄でなく平凡な市民を主人公とする物語を人々が求めるようになった。写実的描写力をそなえた散文の発達と相まって,小説というジャンルが育つ条件が整ったわけである。この時代に活躍した4人の小説家たち,すなわち,サミュエル=リチャードソン<(1689〜1761)ヘンリー=フィールディング(1707〜54)・トバイアス=スモレット(1721〜71)・ローレンス=スターン(1731〜68)等は近代小説の祖というべきであろう。【ロマン主義復興期の文学】18世紀末から19世紀初頭にかけては,国外ではアメリカの独立宜言やフランス革命がおこり,国内では産業革命が社会機構や国民生活を変革し,文学においても新しい時代の到来が待たれる時代であった。そしてこの新しい時代の到来を告げる記念すべき事件が,ワーズワースとコールリッジによる『抒情民謡集』(1798)の出版である。彼らはこの小説集の序文において,理性ではなく想像力や情緒を重んじるロマン主義の時代の到来を宣言した。ロマン主義復興は,文芸復興にも比べられる新しい汎ヨーロッパ的文芸思潮である。それは,自然への愛,中世趣味,異国情緒,自我の主張と社会への反抗,理想主義,美への情熱等をその特質とする。〈詩は強烈な感情の自然なる流出である〉とするウィリアム=ワーズワース(1770〜1850)の主張に,古典主義時代への訣別を読みとることができる。自然詩人と称せられたワーズワースの詩は,自然と人間との感応から生まれ,自然のなかに人間の道徳的根拠を求めるものであった。詩人の魂の成長を歌った自伝詩『序曲』は代表的傑作である。彼の友人サミュェル=テイラー=コールリッジ(1772〜1834)とその義弟ロバート=サウジー(1774〜1843)もこの時代を代表する詩人たちである。以上の3詩人が確立した新しい詩の方向をさらに押しすすめた詩人たちは,情熱と自由の詩人ジョージ=ゴードン=バイロン(1778〜1824)と,愛と革命の詩人パアシイ=ビッシ=シェリー(1792〜1822)と,美至上主義の詩人ジョン=キーツ(1795〜1821)であった。彼らはいずれも若くして外国で客死した。ウォルター=スコット(1771〜1832)は,ロマン主義の特質である中世趣味と写実主義の技法をもって歴史小説を生み出した。奔放な空想と巧みな物語からなる彼の小説は,大がかりな事件と壮大な背景とが完全に調和した雄大なロマンスであった。一方,同時代の女流作家ジェイン=オースティン(1775〜1817)は,スコットと対照的である。中産階級の平凡な日常茶飯事や人物の心理まで女性らしい繊細な筆致で描いた彼女の小説は,ロマン主義より自然主義に近い作風を示し,今日からみればスコットよりも新しい。種々の評論雑誌が創刊され,エッセイが盛んに書かれるようになった。18世紀のジャーナリズムの発達とともに表現力を増していった散文は,この時代の優れたエッセイストたちによって一層磨きをかけられて,深い感情や豊かな想像力にたえるものとなった。

2004/03/24(水) ルネサンス時代 ピューリタン革命時代
【ルネサンス時代の文学】14世紀中葉にイタリアに興ったルネサンスの波が,島国イギリスに伝わったのはやっと16世紀になってからであった。イギリスにおいても,ギリシア・ローマの古典文芸の再発見,科学の発達,宗教精神の覚醒,古い制度・束縛からの人間性の解放等をその特色とする。人文主義者トーマス=モア(1478〜1535)の『ユートピア』は,理想的共産社会を描いてイギリスの社会制度を諷刺したものであるが,理想国家へのあこがれを表現したいという意味において,ルネサンス精神を反映したものである。

 ワイヤットやサリー伯爵は,イタリアからソネット(14行詩)という叙情詩の形式を導入した。この詩型は,スペンサー・シドニー・シェイクスピア等によって試みられ,彼らはソネットの連作を書いた。また,エドモンド=スペンサー(1552〜99)の『妖精女王』は,アーサー王伝説から題材を得た長大寓意詩である。

 中世の宗教劇から始まった演劇はエリザベス女王の時代に花開き,一つの完成をみた。トーマス=キッドやクリストファー=マーロー等,いわゆる大学出の才人といわれる優れた劇作家たちが輩出したが,〈万人の心をもった〉とされるウィリアム=シェイクスピア(1564〜1616)が最も才能豊かな天才劇作家であった。彼の残した詩7篇と劇36篇の評価は今日にいたるまでゆるぎない。

 特異な比喩による主知的な詩を書き,形而上学派と呼ばれた詩人たちがいたが,そのなかでも最も優れていたジョン=ダン(1572〜1631)は,シェイクスピアと同時代人でありながら今日にも通じる新しい詩風をもっていた。

【ピューリタン革命時代の文学】ヘンリー8世の宗教改革によって,イギリス国教会が成立したが,これはカトリックとカルヴィニズムとの妥協折衷物であった。そこでこれにあき足りない非国教徒たちはオリヴァ=クロムウェルのもとに参集し,ピューリタン革命を成就して,一時期にせよ共和政体が誕生した。劇場が閉鎖され,宗教的に禁欲的な風潮が尊ばれた時代に,人間的な文学は期待しにくい。クロムウェルの秘書官を務めた詩人ジョン=ミルトン(1608〜74)は,聖書を題材に叙事詩『失楽園』『復楽園」『闘士サムソン』を書き,この時代を代表する詩人となった。また,ジョン=バニヤン(1628〜88)は,宗教的寓意物語,『天路歴程』を書き,文学のもつ人間性とピューリタニズムを寓意物語のなかで融合させることに成功している。

2004/03/23(火) 中世前期 7世紀ごろ
【中世前期(古期英語時代)の文学】アングロ=サクソン人たちの口承文学は,7世紀ごろ,今日の英語とまったく異なる古期英語によって成文化された。この時代を代表する最高傑作が,3,000行以上の長大な英雄叙事詩『ベーオウルフ』である。この叙事詩は2部からなっており,第1部では,スウェーデンの王子ベーオウルフがデンマーク王を援けて,沼地の怪物グレンデルを退治し,第2部では,故郷へ帰ったベーオウルフが,国を荒らす火を吐く龍を退治し,自らも致命傷を受けて死ぬという物語である。物語の素材・背景・宿命的人生観等はゲルマン民族特有のものであるが,主人公ベーオウルフ王子は,成文化された時代のイギリス的な理想的英雄像を反映する人物となっており,そういう観点からイギリス文学の原点といえるだろう。

 また,6世紀にはキリスト教が伝来し,キャドモンは旧約聖書から題材をとり,キニウルフは新約聖書から題材をとって,それぞれ宗教詩を書き残している。

【中世後期(中期英語時代)の文学】アングロ=サクソン人たちは,9世紀ごろからたびたびデーン人の侵入を受けていたが,ついに1066年,ノルマンディ公ウィリアムに征服される。これによって,それまでの北欧文化にラテン文化が混入融合することになり,今日のイギリス文化の基礎ができ上がった。当初,支配階層の使うノルマン=フランス語がもっぱら公用語として使用されたために,古期英語はしだいにその影響を受けて著しく変化し,やがて中期英語が形成される。13世紀に入ると,それまでのノルマン=フランス語にとって代わって中期英語が公用語としての地位を回復し,中期英語による優れた文学作品が次々に生まれた。

 まず当代最大の詩人であり〈英詩の父〉と称せられたジェフリー=チョーサー(1340〜1400)は,人間性への鋭い洞察,暖かい共感とユーモアをもって大作『トロイラスとクリセイデ』や『カンタベリー物語』を書いた。後者は,1万数千行にも及ぶ韻文と散文からなる物語集であるが,このなかでは当時のイギリス社会各階層の人物が,その服装・言語・行動にいたるまで生き生きと描かれており,中世から近世への過渡期を知ることができる。また,寓意的・宗教的夢物語『農夫ピアズの幻』を書いたウィリアム=ラングランドや,『恋人の告白』を書いたジョン=ガウァもこの時代を代表する詩人である。

 またこの時代には,ノルマン人によってロマンスという文学形式が伝えられ,高潔,礼節を尊ぶ騎士道精神をテーマとするロマンス(物語文学)が書かれた。このなかで最も重要なのが,ブリテン人の伝説がもとになって生まれたアーサー王伝説群である。この題材は後世の詩人や小説家たちも取り上げ,イギリス文学のなかの主要なテーマとなっている。アーサー王伝説の集大成をしたのは,トーマス=マロリー(1406?〜71)で,彼は,格調高い散文で『アーサー王の死』を書き,アーサー王をイギリスにおける民族的英雄にまで高めた。

 以上の文学作品は,主として上流階級の人々の楽しみであったが,一方一般民衆の楽しみとしては,韻文で物語やエピソードを歌うバラッドという素朴な文学形式があった。当時数多く作られ愛好されたバラッドは,シャーウッドの森に住む義賊ロビン=フッドをめぐるものである。

2004/03/22(月) イギリス文学とは
●イギリス文学 イギリスぶんがく

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 イギリス文学とは,イギリス諸島において,英語によって書かれた文学のことである。ブリテン島には,前2万5000年以降,大陸から石器文化をもった者たちが移り住んだとされているが,彼らは英語を話さなかったし,人種的にもイギリス人の祖先とはいえない。古期英語(アングロサクソン語)による文化をもった北欧の部族がブリテン島に移住し,イギリス民族が成立した7世紀ごろ,イギリス文学は始まったといえるであろう。
【イギリス民族の成立とイギリス文学の起源】紀元前2000年以上も前の新石器時代のブリテン島は,ストーンヘンジなどの巨石文化を残した古代イベリア人の居住する島であった。紀元前5,6世紀ごろになって大陸から侵入し,先住民族を駆遂して独自の文化を築いたのがケルト民族である。ケルト民族は,有史時代の初めには,アルプス以北のヨーロッパ中部および西部に広く分布していた一大民族であった。ブリテン島に移住したケルト民族は,北方系のゲール族(今日のアイルランドや西部スコットランド地方に残存する)と,南方系のブリトン族(今日のウェールズ・コーンウォール・ブルターニュ地方に残存する)に大別しうる。

 ケルト民族の侵入はキリスト教の伝来以前であり,彼らの宗教はドルイド教であった。彼らはチュートン民族によって大陸から追われ逃亡してきた民族であったが,ブリテン島に居住するようになってからも,たえず抑圧され,物質的にも恵まれなかった。このような宿命と,苛酷な現実への幻滅と反動から,夢みがちで想像力に富む性情をもつようになったと考えられる。イギリス文学の詩的想像力に富める部分は,ケルト民族の資質と文化的遺産によるものといわれている。中世ロマンスの華,アーサー王伝説群は,ブリトン族の遺産であり,オシアン伝説群はゲール族の遺産である。

 前55年,ジュリアス=シーザーの率いるローマ軍の侵入により,およそ400年のあいだブリテン島はローマ人の支配下に置かれ,ローマ文明・文化の影響を受けることになる。ローマ軍の占領下,ブリトン人を率いてローマ軍に頑強に抵抗したブリトン人の族長があった。アーサー王と円卓の騎士たちの伝説は,このような歴史的事実から発生したとされている。ローマ軍は本国ローマが西ゴート族に脅かされ始めたため,ついにブリテン島から撤兵せざるを得なくなり,5世紀の初頭ローマの支配は終わる。

 そのころ,今日のデンマークや北ドイツのあたりからジュート・アングル・サクソンの3種族がブリテン島南東部に侵入し,先住民族を追放して王国をつくった。3種族はイングランドの七つの州を支配し,七王国制の時代を迦える。彼らが今日のイギリス人の中核をなすアングロ=サクソンであり,彼らの言語,すなわち古期英語で伝えられた口承文学がイギリス文学の起源である。

3月絵日記の続き


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