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2004/03/14(日) 中世演劇 続き
暗記が多くて困るのです。
I have difficulties with memorizing the things.
昨日のを抜粋すると:
西洋演劇の起源はわかっていないが、古代のさまざまな宗教儀式がその起源であると考えられる。
 古代ギリシャと古代ローマの演劇が主として古典時代とよばれる。戯曲はギリシャ語とラテン語で書かれている。

劇はディオニュソスの祭り、つまりアテネだと春におこなわれる大ディオニュシア祭、冬のディオ
ニュシア祭、その直後にひらかれるレナイアとよばれる祭りに上演された。審査によってえらばれた3人の詩人の作品が上演されたが、その3人は悲劇3部作と神々や神話をわらいとばす下品なファルスであるサテュロス劇を提出しなければならなかった。前5世紀半ばには喜劇も上演された。現存の最古の喜劇はアリストファネスのもので、古代の豊饒祈願の儀式から発展したとされる厳格な様式をもつ。同時代の有名人への風刺が主でわいせつな冗談、神々の冒涜(ぼうとく)的なパロディなどを特徴としている。前4世紀ごろには、喜劇が悲劇よりも重要視されるようになった。

ギリシャ文化がアレクサンドロス大王の征服によって広まるにつれ、文学的な喜劇や哲学的な悲劇は重要性をうしない、中喜劇、新喜劇とよばれる人間喜劇が数多く生まれた。新喜劇で残存するものはメナンドロスの「デュスコロス」(前316)ただ1作である。これらの劇は現在テレビで放送されているコメディ物と内容もスタイルも似ている。物語は恋愛、家族の問題、お金などをめぐって展開し、登場人物はけちな父親や意地悪な継母(ままはは)といったお定まりの人物である。

ギリシャ様式の劇場は2世紀にわたって発展をとげたが、廃墟(はいきょ)として現代につたわる石造の野外劇場は後代の遺構である。野外劇場にはオルケストラとよばれる合唱隊のための円形の平土間とプロスケニオンとよばれる俳優のための高台、オルケストラの周囲の斜面につくられた半円形の観客席があったと想定されるが、劇場によってその構造がちがっていたことが現代の研究者によって明らかにされている。観客数は1万5000〜2万人。合唱隊より俳優が重要になっていくにつれ、俳優用の高台が大きくなってオルケストラの空間がせまくなっていった。

俳優はすべて男性で日常生活の衣服をやや誇張した衣装を身につけたが、観客に登場人物の特徴をひと目で理解させるために非等身大の仮面をつけた。この時代の巨大な劇場では、近代劇場のように俳優の微妙な身ぶりや顔の表情をみわけることは不可能なため、俳優の身ぶりは大げさで様式的になり、声がもっとも重要視された。その結果、現代の演劇よりもオペラに近いものだったと考えられる。

演劇は宗教的な意味合いをもっていたので、国家が援助し、入場料は無料かわずかなもので、俳優は尊敬をあつめていた。この時代、パントマイムの芸人も登場した
ローマ演劇
前4世紀、ローマ帝国が領土を拡張してギリシャを支配下におさめると、ギリシャ演劇や劇場建築の技術がローマにながれこんだが、ローマ人自身による演劇は前3世紀までまたなければならなかった。最初、演劇は宗教的祝祭と密接な関係をもっていたが、やがてその色彩はうすれ、祝祭の数がふえるにつれて世俗化して喜劇とアテラナ劇とよばれるファルスが人気をえるようになった。前2世紀になると、ギリシャ新喜劇をうけついだプラウトゥスやテレンティウスらすぐれた劇作家が登場し、喜劇が全盛をむかえた。家庭内の騒動をあつかったものが多く、テレンティウスの劇には道徳的な人生観がつらぬかれている。現代の喜劇とかわらない台詞で書かれているが、実際の舞台では台詞の3分の1から半分はうたわれたと考えられる。

ギリシャ悲劇とともに新しい悲劇も上演されたが、前1世紀のセネカのもの以外にすぐれた作品はみあたらない。この時代には、一般民衆が悲劇というジャンルに興味をうしなっていたので、悲劇は上演されるためではなく朗読用や読書用の書斎劇だった可能性が強い。セネカの劇はギリシャ神話に依拠していたが、その内容は超自然現象や血なまぐさい暴力、偏執的な情熱に重きをおいていた。セネカの5幕からなる独白や詩的な台詞を特徴とする悲劇のスタイルは、ルネサンス期の演劇に大きな影響をあたえた。

ローマ時代の劇場建築は、1人の神をまつる劇場をたてると別の神の怒りを買うとの考えから、ローマ市内には3つの劇場しかたてられなかった。ギリシャ人が自然の斜面や丘陵地帯を利用して観客席をつくったのに対し、ローマ人はアーチを使用して自立した劇場をたてた。コロスの重要性がなくなったので、オルケストラの部分は小さな半円形になった。幅が24〜30mもある大きな舞台の背後には、3つのドアがついた3階建ての建築物がつくられた。ローマ喜劇のほとんどは3つのドアの前の街路という設定で演じられた。舞台装置は、ギリシャ演劇同様、最小限の暗示的なものがつかわれた。

2世紀ごろになると文学的な演劇の人気はおとろえ、見世物的な大衆芸能が人気をよんだ。論議をよぶような深刻な現実の出来事でさえ、軽薄な物語にかえられて舞台化された。ローマ人の俳優、なかでも女優は素行がわるいとの評判がたった。また演劇がしばしばキリスト教徒を皮肉ったことから、しだいに力をえるようになっていたキリスト教徒に攻撃され、ついには劇場閉鎖においこまれ、演劇や俳優は悪で非道徳的な存在だというイメージがうえつけられた。476年ローマ帝国が崩壊すると、西洋の古典演劇は終焉(しゅうえん)をむかえ、その後500年以上、演劇はまともに上演されなくなり、中世の吟遊詩人や吟遊楽人ら旅芸人によってのみ演劇の伝統はつたえられることになった。


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