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2004/03/15(月) 中世の演劇 第三弾
古代劇が退廃してしまったのは、中世ヨーロッパ、ギリシア、ローマ演劇遺産をキリスト教化のため異教文化となったためである。

中世の演劇
キリスト教会の典礼をふまえた新しい演劇がヨーロッパに生まれたのは、ローマ・カトリック教会の手によってであった。当時勢力の拡大をはかっていたカトリック教会は、演劇的な要素を多分にもった異教や土着の祝祭をしばしば利用した。10世紀ごろになると教会のさまざまな行事は、演劇的様相を強く呈するようになった。ミサには演劇的な要素がふくまれているが、それ以外のさまざまな宗教上の祝日においても、棕櫚(しゅろ)の聖日の教会への行進のように演劇的行事がおこなわれていた。ミサでの聖歌の唱和などには対話的な要素がある。9世紀にはミサの複雑な音楽的構造に交誦(こうしょう)とよばれる装飾的要素もとりいれられた。マグダラのマリアたちと天使がキリストの墓の前でかわしたやりとりを交誦として復活祭で唱和することは925年ごろにはじまり、すでに970年以前に、この交誦に必要な衣装や身ぶりの指示を記録した文書も登場した。この復活祭交誦が典礼劇の起源とされる。

宗教劇―奇跡劇
その後の200年間で典礼劇はゆっくりと進化し、僧侶(そうりょ)や合唱隊の少年たちが聖書のさまざまな物語を演じるようになった。最初は教会の礼服や建物がそのまま衣装・舞台装置としてもちいられたが、やがて典礼劇用の工夫がなされるようになった。基本的な舞台は、エデンの園や天国など重要な場所をあらわすブースのような小さな舞台装置と、その前で演技者が劇を演じる空間プラテアからなっていた。

典礼劇が発展すると、関連するテーマをもつ聖書の物語がつづけて上演されるようになり、天地創造からキリストの磔刑(たっけい)までが演じられた。こうした劇は、受難劇・奇跡劇・聖人劇などとよばれた。聖堂の身廊(ネーブ)に、祭壇を天国とするブースがつくられ、反対側に地獄への入口をあらわす不気味な口をひらいた獣の「地獄の口」がつくられ、必要に応じて演技者と観客が教会のそれぞれの場所に移動するかたちで劇は上演された。

劇は短いエピソードをつみ重ねて、何千年もの時代がさまざまな寓意(ぐうい)を表現する舞台装置の中で演じられた。ギリシャ悲劇のようなカタルシスをもたらすためにクライマックスを形成したり、登場人物の葛藤をえがいたりすることはなく、ひたすら人間の救済だけを目的に上演された。

教会は最初、教育的効果があると考え典礼劇を奨励したが、娯楽と見世物的要素が強くなるにしたがい批判的になった。しかし、その効果をもはや無視することができなくなり、劇の上演を教会の外でおこなわせることで妥協した。教会内と同じ舞台が町の広場につくられ、劇は宗教的な内容や意図をもったまま、しだいに世俗化していった。


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