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2004/03/29(月) エリザベス1世?
エリザベス1世はどんな境遇?

1.プロローグ
エリザベス1世 Elizabeth I 1533〜1603 イングランド王国女王。在位1558〜1603年。ヘンリー8世と2番目の妃アン・ブーリンとの間に生まれ、チューダー朝最後の君主となった。父ヘンリーが3番目の妃ジェーン・シーモアと結婚するため、議会にアンとの結婚の無効を宣言させたため、エリザベスは非嫡出子とされた。しかし父王も議会も、エリザベスを、3番目の妃の子エドワード(のちのエドワード6世)、最初の妃の子メアリー(のちのメアリー1世)につぐ王位継承権者に指名した。

2.少女時代の即位
幼少のころは宮廷の外でそだてられ、アスカムなど一流の学者について古典をまなんだ。父の6番目の妃キャサリン・パーのとりなしで宮廷にもどり、父の死後もキャサリンの庇護をうけた。弟エドワード6世治世下におきた王位簒奪の陰謀に加担せず、姉メアリー1世治世下もエリザベス擁立をくわだてたワイアットの反乱にくわわらなかった。しかし、熱心なカトリック教徒だったメアリーは、エリザベスがプロテスタントであり、しかも自分の王座をおびやかしかねない存在であることから、反乱に連座したとしてエリザベスを投獄した。エリザベスは表向きカトリックに改宗して釈放され、難をのがれた。

1558年、メアリーの死によって即位。
当時のイングランドは、宗教紛争がたえず、経済的にも不安定で、フランスとの泥沼の戦争がつづいていた。エリザベスは、ウォルシンガム、セシルなど有能な側近の援助をえて、これらの難問にとりくんだ。59年初めに議会を召集し、礼拝統一法を制定してイングランドをメアリー治世下のカトリックからプロテスタントへとあらためた。議会は63年までに英国国教会の教義の基盤となる一連の法律を制定し、こうして国教会の立場が確立された。エリザベスの治世を通じてカトリックとピューリタンは抑圧されることになった。

3.国民的女王として
エリザベスが国民の人気をあつめたのは、この時期にイングランドの愛国意識が高揚したためでもあった。君主に対する国民の信頼が回復し、イングランドはあらゆる分野で繁栄を謳歌した。宗教問題がいちおう解決され、フランスとの戦争もおわったため、産業や経済の発展に本腰をいれる余裕が生まれた。そして、ドレークらによる私掠(しりゃく)船の活動もあって、イングランドは海洋大国へと発展していった。1560年には過去3代の治世で価値が大きく低下していた銀貨にかえて新貨幣が導入され、その結果、物価は正常にもどり、イングランド通貨は信用を回復した。政府は貿易を奨励し、66年にはロンドン王立取引所が開設され、1600年には東インド会社の設立が認可された。

治世の初めから、エリザベスの結婚問題は大きな政治的問題となった。イングランド人の王位継承権者がいなかったため、議会はたびたび結婚をすすめたが、女王は生涯独身をとおし、各国王家からの求婚をすべてことわった。しかし、レスター伯、エセックス伯、ローリーなど数人を寵臣とした。

エリザベスをもっともなやませたのは、カトリック教徒である従姉妹(いとこ)のスコットランド女王兼フランス王太子妃メアリー・スチュアート問題だった。メアリーが1567年に退位させられ、68年にイングランドに亡命してくると、エリザベスはただちに彼女を幽閉した。ヨーロッパのカトリック諸国や国内のカトリック教徒は、エリザベスは非嫡出子でありヘンリー7世の血をひくメアリーこそイングランドの正当な君主であると主張していたため、メアリーは反乱の火種になる恐れがあった。メアリーの幽閉は19年におよび、その間、70年には教皇ピウス5世がエリザベスを破門、カトリック教徒によるメアリー擁立の陰謀が何度もくわだてられた。エリザベスは86年に暗殺計画が発覚するにおよんで、ついにその翌年、メアリーを処刑した。

メアリー・スチュアートの処刑は重大な結果をもたらした。カトリックの大国スペインのフェリペ2世は、長年にわたりイングランドの私掠船になやまされていたため、これを機に1585年からつづいていたイングランドとの戦争に本腰をいれる決意をかため、88年、無敵艦隊を派遣した。しかし、無敵艦隊は大敗北を喫し、やがて植民地帝国、海洋大国としてのスペインの地位はイングランドにうばわれていく。また、プロテスタントのイングランドがカトリック国スペインの攻撃をしりぞけたことで、プロテスタント勢力が確実に国際政治の一角を占めるようになった。

4.晩年
多額の出費と王権の過大な行使によりエリザベスと議会はしばしば衝突し、治世の終わりごろには彼女の人気もおとろえていた。女王晩年の大臣たちは、有効な政策をうちだせなかった。そのうえ、1601年には寵臣エセックス伯が女王に対する謀叛をくわだてて処刑される事件もおきた。栄光の時代をともにきずいてきた家臣に次々と先立たれ、女王の晩年は孤独だった。エリザベスの死によって、チューダー朝はとだえ、スコットランド王ジェームズ6世(メアリー・スチュアートの息子)がジェームズ1世としてイングランド王位をつぎ、スチュアート朝を開始した。

エリザベスの治世期は文学の面でも黄金時代で、スペンサー、マーロー、シェークスピアなど多くの作家が活躍した。


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