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2004/04/18(日) ゲーテ「ファウスト」 2
「ファウスト」は、ゲーテの長い生涯の最後をかざるにふさわしい大作である。また、ドイツ文学の傑作というばかりでなく、世界文学を代表する名作ともなった。中世の学者魔術師としてひろく知られるファウスト博士の伝説を解釈しなおして、人間生活のあらゆる支脈をみごとに統一した壮大なアレゴリーにしたてあげた作品である。それは、様式のうえでも立脚する視点のうえでも、血気盛んなシュトゥルム・ウント・ドラング時代にはじまり、しずかな古典主義の時代をへて、現実的な知性の円熟した晩年にいたる、ゲーテのめざましい成熟発展の道のりを、表徴したものでもあった。人間の営為と神の営為とを探究しつづけ、自己の尊厳を成就しようとする一個人の正義感とすぐれた能力を称揚してやまないこの作品は、近代個人主義の精神が生みだした最初の文芸大作として、世界的な名声を博するに値するといえよう。

2004/04/17(土) ゲーテ「ファウスト」
ゲーテ「ファウスト」
15〜16世紀ドイツに実在したファウストは、やがて、万能を自負して悪魔と契約し地獄におちる慢心の科学者として伝説の人物になった。16世紀末にイギリスのマーローがあらわした「フォースタス博士」はこの伝説にもとづいている。しかし晩年期に入ったゲーテが造型したファウストは、人間のあらゆる生を体験しようとする学者であり、100歳まで生きてその魂は救済される、肯定的なキャラクターであった。ゲーテはレーゼ・ドラマ(上演されない、読む戯曲)としてこの巨大な劇詩を書いたが、現代にいたるまで、さまざまな上演の試みがおこなわれてきた。写真は、ストレーレル演出によるミラノ・ピッコロ・テアトロの舞台。

2004/04/16(金) ファウスト
ファウスト Faust 1480頃〜1540頃 ドイツの予言者・魔術師。実人生よりも、伝説で知られ、数多くの文学作品や音楽作品が生まれた。伝説によれば、ドイツ各地の大学都市で教師をし、また魔法の術をおこなったり予言をしたりしながら遍歴した人物で、同時代の学者の中には、恥知らずな山師と非難するものもいた。しかし異説では、1532年にケルン大司教に庇護され、以後は傑出した市民として尊敬されていたという。同時代の学者や聖職者たちは、ドイツの宗教改革の指導者であったメランヒトンやマルティン・ルターにいたるまで彼の超自然的能力にまつわるうわさを信じた。中世の偽科学者や魔術師の超能力についての伝説は、16世紀末までひろく信じられており、それらの物語がファウストの名前とむすびついたものである。

ファウストという名前をめぐるさまざまな物語のうち、最初に文学に登場したのは、フランクフルトで出版された「ヨハン・ファウスト博士の物語」(1587)である。この物語では、学者ファウストはメフィストフェレスという悪魔と契約をむすぶ。悪魔はファウストに魔法の知識と力をさずけ、また彼に享楽と力の24年間をあたえるが、そのあとファウストの魂は悪魔のものになることになっていた。24年がたったとき、悪魔はファウストを地獄へとさらっていく。ファウストは、まやかしの知識と快楽とのひきかえに自分の魂を売ってしまったことを後悔する。

この作品の英語の韻文は1587年に、ドイツ語の韻文版は88年に発行され、92年には、フランス語と英語の散文版が刊行されている。イギリスの劇作家クリストファー・マーローのドラマ「ファウスト博士の悲劇」(1589年に書かれたとされる)は、この散文の英語版にもとづいている。

ファウスト伝説にもとづくもっとも偉大で有名な作品は、ゲーテによる詩劇「ファウスト」(第1部1808年、第2部1832年)で、それにつづくほとんどすべての作品の典拠になっている。ゲーテの作品が先行する作品とことなるのは、ファウストが悪魔と契約をむすぶ理由が、自分の知識をかぎりなく拡大したいと熱望するからであり、また庶民の娘グレートヒェンの力で、最後に地獄から救済される点にある。

ゲーテの劇作品以降に刊行されたファウスト伝説にもとづくドイツ語の文学作品には、ニコラウス・レーナウの劇的叙事詩「ファウスト」(1835)、ハインリヒ・ハイネのバラード「ファウスト」(1851)、トーマス・マンの小説「ファウスト博士」(1948)がある。

2004/04/15(木) 詩的リアリズム
19世紀中葉の物語作家に「ユダヤ人のぶなの木」(1842)で有名なドロステ・ヒュルスホフがいる。アダルベルト・シュティフターの小説の特色は自然の詳細な描写にあり、もっともよく知られた作品に「晩夏」(1857)と「ウィティコー」(全3巻。1865〜67)がある。スイスの小説家ゴットフリート・ケラーは、自伝小説「緑のハインリヒ」(全4巻。1854〜55)で、ゲーテの「ウィルヘルム・マイスターの修業時代」(全8巻。1795〜96)にはじまる教養小説の伝統をうけついだ。

人間と自然の統一という主題は、シュトルムの詩と小説にくりかえしあらわれる。「インメン湖」(1850。邦題「みずうみ」)は少年時代の抒情的郷愁の物語である。より暗い文体で書かれた後年の「白馬の騎者」(1888)では、海岸地方の人々の生活に対して海がおよぼす力を明らかにしている。民衆的バラッドと小説の作者フォンターネは、19世紀末のドイツ社会に対するするどい批判によって有名である。

ドイツ哲学で優勢な観念論は、フォイエルバッハの唯物論によってしりぞけられた。彼の著作はマルクス、エンゲルスというドイツ人の革命家に影響をあたえた。この時代の歴史学の進展に寄与した多くの学者の中に、歴史の客観的記述の創始者とみなされているランケ、ローマ学の専門家モムゼン、「イタリア・ルネサンスの文化」(1860)で知られるブルクハルトがいる。国家としてのドイツの発展については、ウィリバルト・アレクシスという筆名をつかったヘーリングや、熱烈なナショナリストであったトライチュケの研究がある。

2004/04/14(水) アルニムとブレンターノ
アルニム Achim von Arnim 1781〜1831 ドイツの小説家・詩人
ロマン主義文学者のブレンターノと共同で、3巻からなるドイツ歌謡集「少年の魔法の角笛」(1805〜08)を編集したことで知られる。

2004/04/13(火) ドイツ民謡集 ♪
グリム兄弟が民話の聞き書きをはじめたのは、カッセルにすんでいた1806年であった。そのころ、ちょうど「少年の魔法の角笛」というドイツ民謡集を編んでいたブレンターノとアルニムにすすめられて、兄弟は、古文献から抜き書きしたり、友人や近隣の人たちから聞き書きしたりして、民話を正確に記録した。グリム童話の中には、「赤ずきん」「灰かぶり(シンデレラ)」などフランスのペロー童話(→ シャルル・ペロー)出自の作品もふくまれている(「長ぐつをはいた猫」のように、のちにそのために削除されたものもある)が、そのことは、はじめに聞き書きに応じた人々の一部はフランスから移住したユグノー派の住民だったという、最近判明した事実とも関係があるだろう。

2004/04/12(月) ゴットシェート
18世紀までにドイツ人の文化的生活は、しだいに新しい文学の形式や概念を受容するようになっていた。イギリスの小説家デフォーによる「ロビンソン・クルーソー」(→ ロビンソン・クルーソー)のような小説は、ドイツで広く読まれ、その結果英雄物語の衰微とドイツ小説のリアリズムへの志向をもたらした。

この時代の高名な批評家ヨハン・クリストフ・ゴットシェートは、「ドイツ人のための批判的詩学の試み」(1730)で、フランス文学の論理と緻密(ちみつ)さからひきだした基準を確立した。彼はまたフランス語、ギリシャ語、ラテン語で書かれた戯曲の文学的判断と翻訳をして、演劇を改革しようとした。

しかし、その文学上の影響力は若い作家グループの反発をまねいた。彼らはドイツ文学を外国のモデルによる束縛から解放したいとのぞみ、フリードリヒ大王のナショナリズムに鼓舞され、その広範な文化的関心にも影響されて、ドイツ文学史上もっとも偉大な時期のひとつをリードした。この後につづくのが、前古典主義時代(1748〜88)、シュトゥルム・ウント・ドラング運動(始まりは1765年頃)、古典主義時代(1788〜98)、ロマン主義時代(1798〜1832)である。

2004/04/11(日) ドイツ ロマン主義
ゲーテの後期作品のいくつかに表現されているように、ドイツ文学がロマン主義にむかっていく傾向は、1788年に作家ティーク、批評家アウグスト・ウィルヘム・フォン・シュレーゲル、フリードリヒ・フォン・シュレーゲルの3人の仲間によって編集された雑誌「アテネーウム」の創刊により、主たる潮流となった。

ドイツ文学におけるロマン主義は、ほかの国々の場合と同じように、政治、哲学、芸術の諸要素がまじりあって生じたものである。ナポレオン戦争はドイツの作家たちに民族への新しい自覚をうながし、ナポレオンやベートーベンのような英雄的人物に対する賛美の念を強めた。

ロマン主義のもつ民族主義的な要素は、ドイツでは哲学者・神学者のフリードリヒ・シュライエルマッハーによって促進された。彼は民族の独立という価値を強調し、エルンスト・モーリッツ・アルントやカール・テオドール・ケルナーなどの詩人に影響をあたえた。哲学者シェリングは、この運動に神秘主義的な哲学の基盤と、自然と精神の世界は一つであるという信仰をあたえた。

ドイツ・ロマン主義のもうひとつの関心事である民話と神話は、ヤーコプ・ルートウィヒ・カールとウィルヘルム・カールのグリム兄弟によって収集され、注目をあびた。ドイツ民謡の注目すべき集大成は、詩人で劇作家のブレンターノと義弟アルニムによってなされ、「少年の魔法の角笛」(全3巻。1806〜08)としてまとめられた。

詩人ノバーリスの作品は、ロマン主義の主題を特徴としている。彼は神秘的で宗教的な抒情詩「夜の讃歌」(1800)と、小説「ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン」(1802。邦訳「青い花」)をあらわした。詩人・劇作家・小説家のティークは、ノバーリスのもつ深さと宗教的感情には欠けるが、きわめて軽妙であり、詩的、幻想的、風刺的なものをえがく才能にめぐまれていた。

アイヒェンドルフは、詩で自然の美をたたえ、散文作品「のらくら者の日記」(1826)ではのんき者の恋をユーモラスにえがいた。民謡のもつ純正な優しさはシャミッソーの詩にみられるが、その多くは、散文作品「ペーター・シュレミールのふしぎな話」(1814)のように悲劇的な要素をそなえている。

この世代の偉大な物語詩作者にルートウィヒ・ウーラントがいる。メーリケは詩と散文の巨匠のひとりで、彼の静謐(せいひつ)な世界は、レーナウの詩がもつメランコリーと好対照をなしている。ほとんどのロマン派の詩人は物語作者としての才能にもめぐまれているが、この時代のもっとも独創的な散文作家はホフマンである。彼は超自然的なものをあつかう物語の巨匠であった。

2004/04/10(土) 18世紀の楽天的な合理主義へ反動
ドイツ文学がロマン主義にむかっていく傾向は、1788年に作家ティーク、批評家アウグスト・ウィルヘム・フォン・シュレーゲル、フリードリヒ・フォン・シュレーゲルの3人の仲間によって編集された雑誌『アテネーウム』の創刊により、主たる潮流となった。ロマン主義はフランス文学、イギリス文学、イタリア文学にもあってヨーロッパ的にも広がりをもったが、ホフマンの作品がフランス文学のロマン主義に強い刺激をあたえたように、ドイツ文学のロマン主義た他の言語の文学に及ぼした影響力はきわめて大きかった。

2004/04/08(木) バーナード・ショー

バーナード・ショー George Bernard Shaw 1856〜1950 アイルランド生まれの作家。シェークスピア以来最大のイギリスの劇作家とされる。50本の舞台劇を書いた多作な劇作家であるだけでなく、アイルランド生まれの風刺作家スウィフト以来もっとも辛辣(しんらつ)なパンフレット作家であり、当代一おもしろい音楽評論家で、最高の劇評家であった。また、文学界きっての書簡文の名手でもあった。

空想家で神秘家で、内心は恥ずかしがり屋の温厚な人柄であったが、同時にロマンティックとは対極の存在でもあった。仮借のない社会批評家であり、制度や慣習に不遜であった。どんなに深刻な内容の舞台作品にも喜劇的な味わいを織りまぜ、他の作家の手にかかれば論文になりかねないものを、警句と溌剌(はつらつ)とした会話がはずむ生気ある芝居につくりあげた。

マルクスの「資本論」を読破して社会主義を信奉するようになったショーは、1884年フェビアン協会創設に参加し、以後、膨大なパンフレットの執筆を担当する。その仕事から書評、音楽評、劇評を手がけるようになり、劇作の道に入った。彼は、50本以上におよぶ舞台劇で形骸化した社会規範や道徳観を痛烈な風刺で批判した。朗読は、ショーらしいウィットにとんだ警句のひとつ、「結婚とモラルとの混同は人類最大の思い違いであり、もっともひどい被害を出している」。

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