KEI'S STUDY ROOM
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2004/06/22(火) T. S. エリオットの詩劇のうち一つ選択し概説せよ。
T. S. エリオットの詩劇のうち一つ選択し概説せよ。

カンタべりー・フェスティヴァルに詩劇『大聖堂の殺人』(The Murder in the Cathedral,1935)がカンタベリー大聖堂内の参事会議場(chapter house)で上演された。
12世紀のトマス・ベケット(Thomas Becket)の殉教、ベケットの説教、殺人者の騎士たちの弁明から成り、カンタベリーの貧しい女たちのコーラス(chorus)が劇を支えている。ベケットの殉教の仕方に劇の中心が絞られ、じっと耐えて誘惑をさけた魂のドラマとなっている。

2004/06/19(土) 職業的劇団の成立過程
全く勉強意欲がないのです。
食欲は相変わらずなのですが、きっと現在勉強している内容が自分にとってイマイチなのでしょうね。
そう思いながらも、面白さを発見することもあります。頭も身体もすっきりしないのは梅雨時のせいもあるのでしょうか。梅雨といっても快晴が続いて天気は最高なのに、気分は梅雨みたいです。一部復習のために下記にカキコ致します。これで成果がでると良いのですが、やるだけやってみることにします。
\(^o^)/

*************************************

職業的劇団の成立過程

1572年きびしい「放浪者検束法」
(Act for Restraining Vagabonds)が発布された。
これによって役者の社会的地位が明確化されることになる。貧しい旅役者の存在は禁止され、すべての劇団は興行の免許が必要となり、バロン以上の貴族あるいは治安判事に属する者とならなけれならなかった。しかし、いくつかの劇団は1574年春までには有力で人気あるものに育っていった。すでに専門職になっていた劇団はその社会的地位の向上をめざして活動していたが、住所不定者や失業者の増大、騒動や不法行為、度重なる疫病の発生などを極度に恐れた市当局は、宮廷当局との対立にもめげず、娯楽禁止の姿勢はくずさなかった。ピューリタンで占められた市当局の考えは、演劇は仕事でなく怠惰であり、芝居は日常生活に必要なものとは見做さなかったのである。役者は盗賊や娼婦と一緒くたにされる始末であった。教会当局も、劇場は悪事と悪徳を学ぶサタンの学校だと激しく攻撃した。このようにして、芝居は戸外の通りで行うべし、午後3時から5時の間に行うべし、日曜日、四旬節(Lent)あるいはチープサイド(Cheapside)で興行すべからずといったような取締令が次々に出た。当時エリザベス一世の有力な臣下レスター伯(Earl Leceister)は劇団をもち、クロス・キーズ座(The Cross Keys)で水曜日・土曜日に公演していた。1565年頃ロンドンの主たる演芸場は居酒屋と宿屋であって、芝居を聞くのに金を払ったり金を請求される場所であった。これらの宿屋は1575年から96年にかけて定期的に上演用に使用されていた。その主なものは、ベル座(The Bell)、クロス・キーズ(The Cross Keys)、ブル座(The Bull)、ベルサヴェッジ座(The Belsavage)、後に劇場にかわったボアーズ・ヘッド座(The Boar's Head)である。70年代の芝居は歌を伴った見世物が盛んであって、遊園地(fun fair)のようなものであった。芝居の終った後にはジッグ(jig)のような陽気な騒ぐ余興がそえられ、劇中においても歌、無言劇(dumb show)、格闘、道化の演技が必ず入っていた。

ロンドン市内での公開上演禁止令に対抗して、1574年5年ジェムーズ・バーベッジ(James Burbage)を筆頭とする5人のレスター伯劇団に国王特許状が与えられた。これは定期的にロンドンで公演ができ、地方でも随時公演ができる許可状であった。この頃の有力な劇団としては、そのほかに海軍大臣劇団(Lord Admiral Men)、ペンブルック伯劇団(Lord Pembroke's Men)、ストレインジ伯劇団(Lord Strange's Men)が挙げられる。

続く

2004/06/18(金) 職業的劇団の成立過程
やっと科目試験受験票はがき届き、
実感がわいてまいりました。
全く自信がありませんが、
そんなことばかり言っていられません。
持込可の科目は後回しで、
持込不可を優先しているのですが
1教科だけしか
手をつけていません。
それが自分にとって難しく、
思うような進展がありません。
どうしようと・・
まぁ、受験しないことにはわかりませんよね♪

これから24時間オープンのスーパーに行ってきます。
今頃の時間になると、お惣菜が半額セールなんですよ。
生活が滲み出ていてスイマセン。
*************************************

職業的劇団の成立過程

特に道化役が重要な地位を占めていた。
後に8人から12人ぐらいに増えていった。
地方巡業が盛んであったが、
冬のクリスマス中心の数ヶ月は首都ロンドンにいて
興行をやった。
芝居を演じた場所は長いこと
貴族や金持の宴会用大広間が良く使われたが、
そのほかに円形演技場や宿屋の中庭及び
裏庭が使用された。
1572年きびしい「放浪者検束法」
(Act for Restraining) が発布された。

続く

2004/06/17(木) 職業的劇団の成立過程
(≧o≦;) ギクゥゥゥ!! いやー、困りました、以前にテキストを読んで、
勉強していたところを全く覚えておらず、
愕然となってしまいました(≧o≦;) ギクゥゥゥ!!
いつものことなんですけれど・・
試験当日のことをシミュレーションしてみましたが、悲観的になってしまいました。
こんなことでは行けませんよね。
これをどうにか乗り越えなくては\(^o^)/
もう少しで完成した再レポ(19日で期限切れ)を
投函するのを忘れるところでした。
気づいて良かったですがパスできるかが問題です。
*************************************

職業的劇団の成立過程

チューダー王朝の国王が4,5人の役者をかかえたことはよく知られている。
1560年代から70年頃まで劇団は極めて小規模な集団で大人の役者5,6人、1,2名の女役を師弟としての少年からなる旅芸人の集団であった。
1人が2役以上の役割をこなすのはごく普通である。

続く

2004/06/12(土) アイルランド文芸復興
アイルランドの文芸復興運動における演劇、作家について

●イェイツ
ヨーロッパ 英国 AD1865 ハノーヴァー・ウィンザー朝
 1865〜1939 詩人・劇作家。英文学史上最後のロマン派の巨匠。詩や演劇にめざましい活躍をするかたわらアイルランド文芸復興運動を指導,国民劇場の建設に努力した。青年期に祖国の民話・伝説に親しみ,ブレイク・スウェーデンボリの神秘主義,マクレガー=メイザーズの魔術,さらには心霊術を研究,プラトン以来の西欧のオカルト的伝統のなかで創作したが,後期に入ると,東洋思想,とくにウパニシャッドに傾倒,さらに鈴木大拙の禅思想,パウンドの紹介する日本の能に共鳴し,創作を通して東西の思想の調和を求めた。『責任』『クール湖の野生の白鳥』『塔』『螺旋階段とその他の詩』『最終詩集』などの詩集,『デアドラ』『鷹の泉』『エマーのただ一度の嫉妬』『骨の夢』『煉獄』『クフーリンの死』などの戯曲のほかに,『ケルトの薄明』『月の沈黙を友として』『幻想録』など神秘的・哲学的散文作品がある。1923年ノーベル文学賞を受賞。

●詩人イェーツの遺産           

リバーダンス第一幕のハイライトのひとつ”キャサリーン伯爵夫人”は、アイルランドのノーベル賞文学者、アイルランド文芸復興の指導者のひとりで、かつ20世紀最大の作家のひとりであるウィリアム バトラー イェーツ(William Butler Yeats 1865〜1939)が1899年の創った戯曲の題名から取られている。妖精シヘも同じイェーツのアイルランドの妖精に関する作品の中に登場する。

WBイェーツはアイルランドの有名画家Jイェーツの子としてアイルランドのダブリンで生まれた。ロンドンとダブリンで教育をうけ、絵画をまなんだ。休暇をアイルランド北西部スライゴの祖父の家で過ごしたことにより、彼の成長しつつあった精神はアイルランドの神秘的なケルトの風習、伝統に大きく影響された。

イェーツが作家として活動を始めた1890年代後半は、アイルランド文学界はまさに大きな転機にさしかかっていた。ゲール語あるいは英語で書かれたアイルランド文学がめざましい復興をしめしたのである。それ以前の支配者イギリスの影響を受けた小説や詩とは対照的に、国民の大義に意識的に貢献しようという全体的雰囲気が支配的となってきていた。この文芸復興運動に重要な役割を果たしたのがイェーツである。

イェーツは、1887年ロンドンへ移った後、アイルランドの異教的なテーマに題材をとった「アシーンの放浪」(1889)、「イニスフリー湖島」(1893)などを書いた。これらの作品は古代ケルト文化の影響を受けたロマンチックで神秘的な作品となっている。このほか、「ケルトの薄明」(1893)と「秘密の薔薇(ばら)」(1897)でもアイルランドの伝説を扱う。アイルランド訪問時に合った美女モード・ゴンを生涯愛したが、その愛は報われなかった。モードはイェーツの初期の多くの作品に影響し、アイルランド独立をめざす愛国運動へとイェーツを発展させた。

1896年にイェーツはアイルランドに帰国し愛国的劇作家グレゴリー夫人と共鳴し1899年アイルランド文芸劇場を設立した。この劇場は、アイルランド文芸復興運動の最大の拠点のひとつとなる。イェーツは、アイルランドの作家たちにイギリスやヨーロッパの影響から脱し、作品をアイルランドの生活と伝統に基づいたものにするよう運動した。イェーツはこの劇場が世界有数の劇団となり、アイルランド文芸復興とよばれるアイルランドの文学的再生の拠点へと発展するのを、演出家として、また劇作家として助けたのである。

この劇場のために創作した戯曲に、リバーダンスで取り上げられたキャサリーン伯爵夫人(1899)の他、イェーツの愛人モード・ゴンを主役とする愛国的散文劇「キャスリーン・ニ・フーリハン」(1902)や韻文体の悲劇「デアドラ」(1907)がある。また、同時期グレゴリー夫人はゲール語の叙事詩を素材とする「ムイルヘブネのクーフリン」(1902)と「神々と戦士たち」(1904)を書いている。ビル ウェランがリバーダンスの中で取り上げたケルト的な要素、ゲール語の歌などは、この時期のイェーツ、グレゴリー夫人の思想的影響が強く反映されているといえよう。

1902年、民衆の熱烈な支持を受けたアイルランド文芸劇場は、アイルランド国民劇場協会に改組された。劇場の建設費を負担したのは、イギリス人のアニー・ホーニマンである。彼女から財政支援をうけた同協会は、1904年、後にアベー座として有名になるレパートリー制の劇団を設立した。1924年以降、劇団はアイルランド政府から財政援助をうけるようになる。アベー座はアイルランド演劇の世界にリアリズムの要素と詩的要素を導入し、熱狂的な支持をうけた。

後年、イェーツもケルトの伝説的英雄クーフリンを主題とする短い戯曲の連作を書き、「舞踏劇4編」(1921)にまとめた。これらの作品はアメリカの詩人エズラ・パウンドにより紹介された日本の能文化の強い影響を受けていると言われている。クーフリンもその題材がリバーダンスに取り上げられている。リバーダンスの思想的ルーツは、ちょうど100年前アイルランドにおいて他国からの抑圧、搾取に立ち向かった民衆の愛国的文化運動とその運動を盛り上げた国民的文学者イェーツの思想にまで遡ることができ、リバーダンスを現代のアイルランド芸術家によるアイルランド文芸復興100年記念碑として鑑賞することをお勧めしたい。

2004/06/09(水) John Webster 6/24
ウェブスター John Webster 1580?〜1625? イギリスの劇作家。1600年を少しすぎたころ、ロンドンの興行師フィリップ・ヘンズローの劇場のために脚本を執筆する劇作家集団の一員となった。このグループには有能な劇作家が大勢おり、トマス・デッカー、ジョン・マーストン、トマス・ヘイウッドもそのメンバーだったが、ウェブスターはその各人と共作している。

劇作家としてのウェブスターの名声を確立したのは、単独で書いた作品「白魔」(1612?)と「モールフィ公爵夫人」(1614?)だった。どちらも、異常なまでの情熱、邪悪な陰謀、暴力のうずまく世界をえがいたもので、今日でも上演されている。ウェブスターの作品は、悲劇的なテーマにもかかわらず、詩情あふれる格調高い台詞(せりふ)と人間心理の把握が救いとなっている。

2004/06/06(日) Shakespea 3 6/23
第4期―1608年以降
第4期の作品には、もっとも重要な、「ロマンス劇」とよばれる一種の悲喜劇がある。シェークスピアの終盤の作品のいくつかは、魔術、芸術、あわれみ、善意などを介して、人間が救済されることをほのめかしている。これらの戯曲は、初期の喜劇とはかなりことなり、重々しい調子で書かれているが、最後は再会をはたしたり和解したりして、幸せな結末をむかえる。ロマンス劇の魅力の一部は、時や場所をこえて人をひきよせる力にあるが、初期の作品にくらべて、この期の作品はすべて、この特徴がはっきりしてきているようである。ロマンス劇は、シェークスピアの視野の最終的な成熟をしめすものだというのが大方の批評家の見解だが、当時の戯曲の流行を反映したにすぎないという研究家もいる。

ロマンス劇「ペリクリーズ」(1608?)は、妻をなくした主人公ペリクリーズの嘆きと、彼の娘がうける虐待をあつかっている。数々の風変わりな冒険のすえ、ペリクリーズはふたたび愛する者たちにであう。「シンベリン」(1609?)と「冬物語」(1610?)では、登場人物たちは互いをなくした悲しみにくるしむが、最後には再会する。

しかし、作品のうえでこの特質がもっとも成功しているのは、シェークスピア最後の完全な作品と考えられる「あらし(テンペスト)」(1611?)においてである。ここでは、英知と力の結合という有益な効果が暗示される。この戯曲は、侯爵の称号をうばわれて島流しにされた侯爵が、自分をおとしいれた兄を、魔術の力をつかったり自分の娘とその兄の息子の恋をおしすすめたりして、ふりまわす物語である。シェークスピアの詩の力量は、このうつくしい抒情詩風の戯曲で頂点に達している。

最後の戯曲は、シェークスピアの作とされることもあるが、おそらくは共作とみなされている。史劇「ヘンリー8世」(1612?)はたぶん劇作家ジョン・フレッチャーとの共作であろう。

文学的評価
18世紀までは、シェークスピアは正規の教育をうけていない粗野な天才にすぎないとみられていた。この見方がさらにすすんで、彼の戯曲は実際にはもっと教養のある人物、おそらくは政治家で哲学者のフランシス・ベーコンか、シェークスピアのパトロンだったサウサンプトン伯が書いたものであるという説もながれた。しかしシェークスピアが活躍していたその時代に、彼の中に不朽のきらめきを見いだして賞賛する作家ベン・ジョンソンなどのような人々もいた。19世紀以降、シェークスピアに対する評価はより確固としたものになり、西洋世界でもっとも偉大な劇作家と考えられるようになった。

2004/06/05(土) Shakespear 2 6/23
第3期―1601〜07年
第3期の作品には、彼の全作品のなかでもっとも奥深くすぐれた作品とされる4つの悲劇と、暗い喜劇または「問題劇」と称される作品がある。一連の悲劇でシェークスピアは、人間の考えや状況の多様な様相をかたるのにきわめて有用な劇的手法として、詩的な語法を使用している。
彼の戯曲でおそらくもっとも有名な「ハムレット」(1601?)は、卑しさと人間としてあることの栄光を交錯させてえがきだしている点で、復讐をあつかった他の悲劇をはるかにしのぐ作品となっている。ハムレットは、自分のすむ世界をおそろしく思っている。父親が殺された一件と、肉欲にふける母親のありさまからこの感情をより強固にしたハムレットは、決断できずに身動きがとれない優柔不断さと、性急な行動との両方の傾向をみせる。彼の行動の動機と心理的葛藤(かっとう)の解釈をめぐっては、かなりの論争がつづいている。→ ハムレット
「オセロー」(1604?)は、ベネツィア軍の将軍であるムーア人オセローを主人公に、彼の中にめばえた不合理な嫉妬(しっと)心がふくれあがっていく様をえがいている。彼の嫉妬の対象となるのは、彼の純潔な妻、デズデモーナである。よこしまな青年将校イアーゴーは、オセローを破滅させるために、言葉巧みに彼の猜疑(さいぎ)心をあおるのであった。→ オセロー
さらに雄大なスケールで表現された「リア王」(1605?)は、初期ブリテンの統治者であるリア王と彼の重臣グロスター公の、無責任であやまった判断から生じたいたましい末路をえがいている。彼らがそれぞれ、善良な子供にではなく邪悪な子供に権力をあたえたことから、悲劇的な結末への道がはじまり、最後の場面では、リア王の末娘コーディーリアがしめす愛情によって善良さの正当性が立証される。この結末は、コーディーリアの姉たちとグロスターの日和見(ひよりみ)的な息子の自滅によって、より強烈なものになっている。→ リア王
「マクベス」(1606?)では、他人からそそのかされた男が、みずからの性質の欠点によって野望にたおれる姿をえがいている。スコットランドの王位をまもろうとするうちに善悪を区別する目がくもってしまったマクベスは、道徳を無視したあらゆる行動を平気でとる人間になるのである。→ マクベス

「アントニーとクレオパトラ」(1607?)では、これまでとりあげなかったタイプの恋愛、すなわちローマの将軍アントニウスとエジプトの女王クレオパトラの、中年の情愛に焦点があてられている。シェークスピアは彼らの恋を、きわめて審美的な幾編もの詩で賛美している。
4つの悲劇とはことなり、次の3つの戯曲は、偉大さや悲劇をうけいれるだけの度量が欠如している主人公をめぐる物語である。シェークスピアの戯曲のなかでももっとも理知的な構想をもつ「トロイラスとクレシダ」(1602?)では、個人的・政治的、両面における理想と現実のあいだの溝を、巧みにうかびあがらせる。
古代を舞台にしたもうひとつの悲劇「コリオレーナス」(1607?)は、ローマの民衆の支持をえることも、彼らを力でねじふせることもできないローマの伝説的英雄コリオラヌスの姿をえがいている。
「アテネのタイモン」(1607?)も同様、追従者たちの恩知らずな行いによって人間嫌いにならざるをえなかった人物をとりあげた辛辣(しんらつ)な戯曲である。文体の質にむらがあることから、この作品は、おそらく劇作家トマス・ミドルトンとの共作であるとみなされている。

この時期の2つの喜劇もまた暗い雰囲気をもっており、簡単に分類したり分析したりできないことから「問題劇」とよばれることがある。「終りよければすべてよし」(1603?)と「尺には尺を」(1604?)は、一般にうけいれられてきた道徳上の規範に対して問題をなげかけ、解決をもたらさないまま幕をとじる。

2004/06/04(金) Shakespea 1 6/23
シェークスピアの劇作活動は、一般的に次の4つの時期にわけられる。(1)1594年以前、(2)1595〜1600年、(3)1601〜07年、(4)1608年以降である。
シェークスピアの戯曲の大半は、その年代を確定することが困難であり、しかも、作品に関する決定的な事実が不足している。したがって、こうした区分はおおよそのもので、彼の文学的展開を論じるための便宜的な枠組みでしかない。どの時期の戯曲も、その構想は、同時代の他の劇作家たちと同様に、年代記、歴史書、または古い小説を下敷きにしていることが多い。

第1期―1594年以前
第1期は、実験的な時期である。この期の戯曲は、のちの円熟した作品とちがって、型通りで理解しやすい構成と、様式化された詩がもちいられていることが大きな特徴である。

年代史劇は当時はやりのジャンルであった。シェークスピアのもっとも初期のものと思われる4点の戯曲「ヘンリー6世」第1部・第2部・第3部(1591?〜92?)と「リチャード3世」(1593?)も、15世紀イギリスの国内紛争(→ ばら戦争)を劇化したものである。これらの戯曲では、支配者が愚かなため、あるいは利己的な目的から国が分裂したために生じる悲惨な状況があつかわれている。この一連の戯曲は、リチャード3世が世をさり、エリザベス1世の属するチューダー朝の創始者ヘンリー7世が王位につくところで幕をとじる。

形式と構成の面でこれらの戯曲は、一部で中世の戯曲、一部で初期のエリザベス朝の劇作家たち、とくにマーローの作品との関連性がみられる。古代ローマの劇作家セネカの影響も、直接的または間接的に、これら4戯曲の構成に投影されており、それはとくに、多くの残虐な場面や誇張された大げさな言葉づかいに顕著である。エリザベス朝初期の劇作家トマス・キッドを通じておよぼされたセネカの影響がもっともよくでているのはローマ史劇「タイタス・アンドロニカス」(1593?)である。凶悪でむごたらしい行為に対する高潔な復讐(ふくしゅう)を主題としたこの悲劇は、センセーショナルな演出で上演された。

第1期におけるシェークスピアの喜劇は、幅ひろい種類におよんでいる。古代ギリシャの喜劇を模倣したファルス「間違いの喜劇」(1593?)は、2組の双子がロマンスや戦争にまきこまれ、組み合わせがくるうおかしさが要(かなめ)になっている。性格喜劇「じゃじゃ馬ならし」(1594?)では、ファルス性はそれほど強くない。「ベローナの二紳士」(1594?)はロマンティックな恋愛喜劇である。

「恋の骨折り損」(1594?)は、最初は浮世の恋愛沙汰の誘惑をさけようとしていた貴族たちが、当世風に熱心に恋愛に傾倒していく姿をえがきながら、主要な男性登場人物たちの恋愛を皮肉っている。登場人物の多くが自分の主張をのべる会話部分では、イギリスの小説家で劇作家のジョン・リリーの作品に代表される、わざとらしくかざりたてた優雅な作品スタイルや、当時の宮廷のしきたり、そしておそらくローリー卿と思われる人物とその同僚たちの科学論議もまとめてひやかされている。

第2期―1595〜1600年
第2期のシェークスピアの作品には、イギリス史をあつかったもっとも重要な戯曲、いわゆるたのしい喜劇、そして2つの悲劇がある。この時期、彼の表現様式と対象へのアプローチは、きわめて独特なものになった。

第2期の史劇には、「リチャード2世」(1595?)、「ヘンリー4世」第1部・第2部(1598?)、「ヘンリー5世」(1599?)がある。これらは、第1期の作品「ヘンリー6世」の時代のすぐ前の年代を包括している。「リチャード2世」は、愚かで神経質で芝居がかったふるまいをする反面、情の深い一面もある君主が、強力な跡継ぎヘンリー4世に国をうばわれる様をえがいた作品である。「ヘンリー4世」第1部・第2部で、国王ヘンリーは自らの罪に気づく。そして、自分の息子、のちのヘンリー5世に対していわれのない恐れをいだき、それは、わかい王子が国王になる者としての義務を責任ある態度で果たすたびにふくらんでいった。手なれた滑稽(こっけい)な場面と深刻な場面が交互にくりひろげられる中で、好色で肥満漢の騎士フォールスタッフと反逆者ホツパーの対照的な姿を通じて、王子は自分のいるべき場所をみいだすのであった。悲劇性と滑稽さをおりまぜて人間性の幅広さをあらわす手法は、のちにシェークスピアのお気に入りの趣向のひとつとなった。
第2期のすぐれた喜劇「夏の夜の夢」(1595?)では、2組の高貴な恋人たち、もったいぶっていてはからずも滑稽な町の人々、そして有名なパック、オベロン王、ティタニア女王など妖精世界の面々をまじえながら、いくつかの話が進行する。

この戯曲がもつ独特の趣は、悲喜劇「ベニスの商人」(1597?)でも、そこはかとなくただよっている。この劇では、ルネサンス的主題である男の友情やロマンティックな恋愛が、高利貸しシャイロックの悪意にみちた不人情さと対比されてえがかれており、理解と同情をよびおこすために、シャイロック自身の不幸がもちだされている。この劇ではポーシャに代表される、機転がきいて、あたたかく、責任感の強いわかい女性のキャラクターは、第2期のたのしい喜劇に再三登場する。
ウィットにとんだ喜劇「から騒ぎ」(1599?)では、その女性キャラクターの不用意な扱いのために作品の質がそこなわれているという批評家もいる。しかし、シェークスピアのもっとも円熟した喜劇「お気に召すまま」(1600?)と「十二夜」(1601?)は、抒情性と両義性、それに、ベアトリーチェのようなうつくしく、魅力的で、意志の強いヒロインが特徴となっている。「お気に召すまま」では、エリザベス朝の宮廷でのしきたりと田舎でのしきたりとの対比が、豊かで変化にとんだ表現でえがかれている。

2004/06/03(木) Christopher Marlowe 6/23
I マーロー Christopher Marlowe 1564〜93 イギリスの劇作家・詩人。イギリスにあらわれた最初の大劇作家で、わずか6年間しか活躍しなかったにもかかわらず、シェークスピアが登場する以前のもっとも重要なエリザベス朝の劇作家とされている。それまでの劇作家たちが喜劇に専念する中で、マーローは悲劇にとりくみ、ドラマにおける悲劇の地位をいちじるしく高めた。代表作は、「フォースタス博士」である。

II 波乱にとんだ短い生涯

1564年2月6日、靴職人の息子としてカンタベリーに生まれ、ケンブリッジ大学でまなんだ。ロンドンにでて、俳優集団アドミラルズ・メンとともに活動した。彼のほとんどの戯曲はこのグループのために書かれたものである。諜報活動にたずさわり、ローリー卿ら著名人たちとの親交をうわさされる一方で、自由奔放で自堕落な生活をおくり、型破りな宗教観をもっていた。93年5月、異端者(→ 異端)として告発され、当局への出頭を前にして、ロンドン郊外デットフォードの居酒屋で夕食の勘定書をめぐっての口論で刺殺された。謀殺ともいわれ、真相は謎につつまれている。

III 強烈な欲望と壮絶な破滅をえがく
マーローが、無韻詩(ブランク・バース)のもつ表現の力強さ・多様性をしめしてみせたことで、この詩形式がエリザベス朝演劇の主流となった。彼の主要な戯曲として知られているのは、14世紀のモンゴルの征服者ティムールをえがいた壮大な物語「タンバレン大帝」(1587頃初演)、イギリスの史劇としては最初の傑作で、シェークスピアの「リチャード2世」と「リチャード3世」のモデルとなった「エドワード2世」(1592頃)、ファウスト伝説を劇化したごく初期の例「フォースタス博士」(1589頃)、「マルタ島のユダヤ人」(1689頃)の4作である。これらの戯曲に共通するのは、それぞれ、力強い主人公がなにものをも圧倒するひとつの情熱をもっていることである。ほかに、劇作家トマス・ナッシュとの共作による「カルタゴの女王ダイドー」(1587)や、ユグノーの虐殺(→ サン・バルテルミの虐殺)をえがいた同時代的作品「パリの虐殺」(1693)がある。

権威ある研究家の間では、いくつかのシェークスピアの戯曲には、マーローによって書かれた部分があるという説もある。マーローの重要な戯曲ではそれぞれの中心人物が、権力に対する過度の欲望のために破滅する運命におかれており、美しい響きのある言葉と、ときには収拾がつかないほど過激になってしまう情緒性によって、いっそう特徴づけられている。

詩人としてのマーローは、田園詩「情熱的な羊飼い」で知られている。神話にもとづいた愛の詩「ヒーローとリアンダー」(1598)は、これを未完のまま死去したマーローにかわり、チャップマンによって完成された。マーローはまた、古代ローマの詩人、ルカヌスとオウィディウスの作品の翻訳もてがけた。

6月絵日記の続き


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