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2005/03/08(火)
ゲーテとシラー
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ドイツ統一後、脚光を浴びるようになった観光ルートにゲーテ街道があります。ゲーテが生まれたフランクフルトから、ゲーテが最初に通った大学のあるライプツィヒを結び、そのハイライトとなるのはゲーテが57年間過ごしたワイマールです。大画家クラナッハ、作曲家バッハやリストなども活躍し、幾度となく芸術・文化が開花した街ですが、何といってもゲーテの時代が歴史上最も輝きを放った時期です。ゲーテは、「若きウェルテルの悩み」で名声を得た後、27歳の時にワイマール公に招かれ、83歳で生涯を終えるまでワイマールに居を定めました。そして詩人、作家、科学者、政治家、大学教授、劇場監督など多彩な顔を持ち、比類なき功績を残しました。その偉大なゲーテを一時期友情で支えたのがシラーです。
シラーは、1788年、ワイマール近郊のイエナの大学に歴史学教授として招聘され、ゲーテとの親交が始まりました。後にワイマールに転居し、創作活動に専念して次々に名作を発表しましたが、むしろシラーの方がゲーテの友情に支えられていたと言ってもよいかもしれません。「友情は喜びを二倍にし、悲しみを半分にする」とは、シラーの遺した言葉ですが、生前はまさに「友情」が絶大な力になっていたに違いありません。シラーは、1805年、46歳で亡くなりましたが、ゲーテはその死を悲しみ、数日間泣き続けたといわれています。
ワイマールで二人は、お互いをよく理解し合い、ドイツ古典主義の代表者として、文学面で最も充実した日々を送りました。シラーの作品の中で、ゲーテとの関わりを示すエピソードに登場するのが、「ウィリアム・テル」です。一度もスイスを訪れたことのないシラーが、イタリア旅行のお土産としてゲーテが持ち帰ったスイス建国の話を元にこの作品を書いたことはよく知られています。テルが実在の人物であるかのように伝えられているのは、シラーがいかに卓越した劇作家であるかを物語っているのではないでしょうか。ちなみにシラーは、戯曲を多く遺した劇作家ということで、ゲーテに比べると日本の読者には馴染みが薄いですが、ドイツでは、今でも最も人気の高い劇作家の一人です。またシラーほど音楽家にインスピレーションを与えた作家もいないでしょう。例えばロッシーニの「ウィーリアム・テル」、ヴェルディの「ドン・カルロ」(「ドン・カルロス」)、「ルイーザ・ミラー」(「たくらみと恋」)、「イ・マスナディエリ」(「群盗」)、チャイコフスキーの「オルレアンの少女」などオペラになった作品は数多くありますし、ベートーヴェンの「第九」で歌われる「歓喜の歌」の作詞者であることはあまりにも有名です。余談ですが、太宰治が「友情」をテーマにして書いた小説「走れメロス」の題材は、シラーの長編詩「人質」からとられています。
ワイマールを訪れると、不滅の名作を遺した二人の友情の証を見ることができます。ゲーテが監督を務め、シラーの後期のほとんどの作品が初演された旧宮廷劇場前には、二人仲良く月桂樹の環を手にした立像(写真)があります。1857年に建立されたものですが、街のシンボルというより、ドイツ文学のシンボル的存在と言えるでしょう。そしてワイマール公の霊廟に足を運んでみると、二人の棺が並べて安置されおり、死後も固い友情で結ばれている様が伝わってくるようです。
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