黒女の黒潮あいくるしい日記
〜酒は飲んでも呑まれるな〜
〜尻に敷いてもしかれるな〜
〜セクハラやってもやられるな〜
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2005/11/26(土) 子どもは最高!!
今日は朝起きたら両親はもういませんでした。旅行です!
今日は童話の会でした。めちゃ子ども可愛かった〜!!いっぱい話せて嬉しかったよ〜!!家に帰ってからは家事をしてます。では昨日言ってたレポ載せます。

ふと目を瞑る。父と母の声が遠くで聞こえる。食器の音もする。隣の部屋では、姉が音楽を聴いているようだ。私は今、家族のほかの誰とも直接的に関わってはいないが、すぐそこに「居る」ということを無意識のうちに感じている。そうすることで、私も安心してここに「居る」ことができるのだと思う。家族。それはまず、存在することが最も重要な基となる。
保育園実習でも施設実習でも、そうした家族の存在の大きさを改めて感じた。7月の保育園実習では夏祭りがあった。普段の保育園活動と違って、子どもたちも家族みんなでお祭りに参加していた。親御さんの手を握っては甘えている様子、はにかんだ様な恥ずかしそうな顔など、いつもとは違った表情を見せてくれた。これこそが、この子どもたちの素顔なのだと思った。先日の施設実習では面会の日があった。面会の日の彼らは、朝から様子が違っていた。一番違っていたのはやはり表情。そして自力で色々なことに挑戦していく前向きな姿も見られた。面会の時間になると、私たちの言葉さえ耳に入らないほど興奮しているようだった。普段は施設での生活で、家族と一緒に生活することはできないけれど、どんなときでも家族は存在していて会うことができる・・という安心感に救われているのかもしれないと思った。
家族になくてはならないものはいくつもあるが、私はその中の3つを採り上げてみた。まずは「責任」である。家族一人一人には役割がある。父親は父親としての、母親は母親としての。子どもは子どもとしての。役割のない者は存在しないはずだ。たとえば、赤ちゃんは周りを幸せにするという。そこに居るだけで、大きな役割を果たしているのである。しかし、大人はそうではいけない。もうかつてのように、男性は仕事を、女性は家事を・・という考え方ではなくなってきたけれど、うまく連携をとりながら働かなくてはならない。自分一人が生きていくためでなく、家族全員が安定した生活を送るために必要なことなのである。その役割というものは、必ずしも共通のものではない。家族によって全く異なるし、まさにそれが良いのだと思う。自分たちだけのきまりや約束事などができることで、それぞれの家族の色が現れてくるだろうし、親密感も深まると思う。しかし、もちろん共通に忘れてはならないこともある。大人は子どもを守らなくてはならないし、子どもは教養を得ながら成長していかなければならないということだ。自分は家族の一員である故に、責任を負っているということを常に考えながら行動しなければならないと思った。
次に挙げるのは、「理解」である。一人の人間としてよく知ることが大切である。世界中の誰よりも理解し合えるのが家族だと思う。共に生きていく中で、様々な観点から一人の人間を見つめることができる。一人の人間として考えるならば完全な主体ではないけれど、決して客体ではない。主体の中の客体とでも言えようか。相手を理解し、共感することができる。そんな関係が必要なのではないだろうか。
そして最後に挙げるのは、もちろん「愛情」である。自分は家族に愛されているという喜びを感じられることは、何よりも幸せなことである。自分の居場所は人生でいくつも得られるだろう。しかし、永遠に消えることのない居場所というのは、家族だけしかないと思う。何があろうとも帰る場所があるという気持ちさえあれば、それだけで救われる気がする。その帰るべきで相思相愛できる家族がいることが最も重要だと思う。家族がいることで、悲しみは半分、喜びは何倍にもなる。私は今までに何度もそう感じることがあった。その度に、支えられているという喜びを身にしみて感じた。
最近は虐待の急増も見られ、当たり前のように思われていた親からの愛情を受けられない子どもが増えてきた。残酷なニュースを耳にするたび、胸が締め付けられる。「なぜそんなことができるの」と心の中で何度も問いかける。しかし、こうしている間にも別の家庭で同じようなことがされているのか・・と考えると、苦しくてたまらない。家族から受けた心の傷は、一生消えないだろう。私は最初、家族の存在の意味について述べた。確かにこの世に存在すること、もっと言えば、傍に居ることが子どもにとって良いことだと思う。それは間違いないと思っている。しかし、虐待について考えていると時々わからなくなる。傍に居ることで、どんどん傷ついていく子どもをほって置くことはできない。
虐待がなくなればいい。虐待は家庭内で行われるが故に、その防止・消失は困難である。家庭にどのように踏み込むか、何を信用するのか、そうした点から考慮に入れなくてはならない。家庭環境も全く違っているし、全てを理解することは大変難しい。ただ共通していえることは、親も苦しんでいたということ。虐待の始まりは、些細なことや小さな苛立ちの重なりであることが多いと言う。育児に行き詰ったとき、もしくは行き詰りそうなとき、話を聞いてあげることだけで虐待は防げるかもしれない。「わかるよ」の一言だけで救われるかもしれない。私たちにできることは子どもの育児だけでなく、むしろそれと同じくらいに保護者の支援が大切だということを、実習を終えた今、よく考えるようになった。
私は施設実習を通して、改めて家族を愛する気持ちが膨らんだ。当たり前のように今を生きていて、平凡ながらも幸せに生活することができる。毎日、家族四人で。父は、私の出生直後、看護師にこう言ったそうだ。「五体満足ですか」。今まではその意味を考えたことはなかったが、やっと分かった気がする。
私にとって家族とは、私を幸せにしてくれるもの。そして、今の私を創ってくれたものであり、これからを一緒に築いていくものでもある。そんな家族が私は大好きだ。産んでくれてありがとう・・心からそう思っている。


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