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2006/08/25(金)
八月二十五日
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書くべきことが見当たらない日、というのも多くある。 というか、植田には書くべきことのない日の方が多いやも知れぬ。 七月分の日記を埋め合わせていないことが何よりの証明になるのではないだろうか。 つまり、それら日々が変化に欠けていて、植田の記憶に残っていないことが 主な原因になっていると植田は考えているのであるが、しかし、それはどうだろう。 まあこの文章の整合性の欠き方に比べればまだましだろうか。論理破綻。 それはそれとして一考してみるが、はたして、波瀾に満ちて刺激に溢れた人生、 あるいは生活があったとして、それが記憶に残るのだろうか。 様々な出来事が次々に起こる日常における様々は其々に個性的であったとして、 それらを記憶することは出来得るのだろうか。甚だ疑問ではないだろうか。 毎日毎日何らかの大袈裟な変容があるとして、全ての一日に対して その条件が適応されるというのならば、それが常態化するというのならば、 逆に個性は失われ、それを判別することも出来ず、やはり記憶も記録もできないのではないだろうか。 第一、それらの非常性を認識する間もなく日付が変わるのである。どうだろう? 或いはそういう日々においては人間は日記をつけなくなるものであろうか。 そしてこの一連の疑問も最終的には植田が標榜する毎日分更新の体裁を整える為だけに 即興で考え出された全く無意味な自己議論であるのである。 果たしてそもそも考える価値のあることであろうか。 いや、いやいやいや。 考える、ということは何であっても尊いのではないだろうか? 西洋の哲学者達もそうは考えていたのではなかったろうか。 ところで唐突であるが、今日の植田家の夕食はカツカレーであった。 植田家では永くなかったことである。というか、ややもすると初めてかもしれない。 休むことなく献立を立てなければならない母親と毎週末の買い出しを請け負う父親には 罪悪を感じるのであるが、植田はトンカツに既にマンネリを感じていた。 体は若いとはいえ、もうあの油の塊を見るだけで食欲も失せてしまう。 食べ出すと結局きちんと食べきるし、そういう程度のものではあるが、それでも飽きた。少しは。 しかし、トンカツは変った。カレールーを上からかけただけで、味が変幻する。 まさに味のコンタクトレンズだ。はは、意味不明。イメージチェンジというわけだ。一応解説だ。 別に植田はカツカレーを食べたこと無い位に無味乾燥な食生活を送っていたわけではないが、 しかし、久しぶりで且つ家で食べるという風味に新鮮味に感動した。 ふむ、記すべきことのない無個性な日というのは無いのかもしれない。 カツカレーが日記を救う。
--- 煮付けを食べて寝付けない カレイのネタです。日記のはカレー。
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