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2010/01/05(火)
28日1
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さて、何を書いたら良いのか迷っている。 ではまず、当たり障りのない「哲学」について。 近時、私には哲学が足りていないと思うようになった。 というのも、私はよく本を読む方だと自ら評価している。少なくとも、私の周りには私より本を沢山読む者はいない。文学部に籍を置く友人とて例外ではない。まあ一度その友人の書いた読書レポートを読ませてもらったことがあるが、優れたものだった。分析は的確、分量は適当、言葉遣いには間違いがなかった。それで、文章力・読解能力というのは読書量によってのみ決まるものではないということがよく分かった。私が同じ題材で一編レポートを書いてみたが、余りにも未熟で、今も恥を偲ぶためだけにPCにファイルを残している。 哲学の話に戻ろう。私はその様によく本を読む。就活がもう本格化してきた所為で私はあちこちに行くことが多くなった。梅田、本町、千里ニュータウン、神戸、京都、遠いところでは加古川なんていうのもあった。そして私は帰路にそのどこかで、必ずと言って良いほどカフェに入り、書店に寄る。遊ぶ時間が減ったので浮いたお金をどんどん自分を甘やかすのに費やしている。書店に寄れば絶対に一冊くらい買う。広い本屋で、自分の趣味に合った本を探す、途方もなさがとても好きだ。意識は書店の埃で濁り、足はむくみ、背は丸まっているが、といって何か書物との運命的な出会い(表紙の、煽り文句、価格のミラクルな一致!)に辿り着くまでは抜けられない。これまでに買った本は、「水ビジネス」「水ビジネスに挑む」「あ・じゃ・ぱん!」「あなたが、いなかった、あなた」「顔のない裸体たち」「「滴り落ちる時計たちの波紋」「婦系図」「花盛りの森・憂国」「絹と明察」「タイムアウト」…等である。 ここから何が読み取れるかというと、私は知識の習得と、物語の消費しかしていないということであって、決して自分のパラダイムを積極的に変容させようとしていないことである。 私がただ暮らしていても、或いは企業に売り込むため必死に「自分探し」をしている時も感じるのが、「自分の価値基準の曖昧さ」である。それは、「何も悩まない」「何にも答えを持ち合わせていない」自分の不確かさ、と言い換えられるだろう。 三島由紀夫の憂国という短編を読んだ際、一度日本人の美意識について思いを馳せたことがあるが、日を経るうちに忘れてしまった。何か啓発されるような本はないものかと千里中央の田村書店で岩波文庫の欄をジッと見詰め、西田幾多郎の「善の研究」という本を手に取ってみたものの、一行の半分も理解できないのでよした。 育ちのいい偉大な作家は多くが若いころに誰かしら好きな哲学者を持ったようだが、私にはまずその最初の一歩をどのようにして踏み出したのかをこっそり教えて欲しいと思う。
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