|
2007/04/10(火)
今頃になって・・・
|
|
|
今日になって体がだるい・・・疲れが出始めました。 ・・・遅っ!
というよりも寝不足ですね、きっと。
今日も午前中から合唱指導に出かけ、お昼から二人レッスン。 一度帰宅してパソコンを開き、ギャラリーなどを更新した後、 夜は22日のコンサートの合わせとレッスン。 --------------------------
さてさて、そろそろ「魔笛」を振り返りますか・・・。 今思えば反省点がたっくさん。 もっと冷静に建設的な芝居はできなかっただろうか、とか。 声はあれでよかったのか・・・など。
■まず一番悩んだのは声のことです。 飽くまでオペラ歌手ですからバリトンとして深みのある声で、 歌唱しなくてはいけないのかもしれなかったのですが、 それ以上にパパゲーノというキャラクターを出すためには、 多少は声を犠牲にすべきではないのか・・・とほぼ毎日悩みました。
だって、台詞は軽くて明るい性格なのに、 歌い出した途端にヴェルディ歌いみたいな強くて渋い声だったら変ですよね。 (最もそんな渋い声が僕に出せるかどうかは微妙ですが) パパゲーノは純粋な子供のような人物だから、声の美しさは必要だと思いますが、 発声的に「見事」ではいけない・・・と僕は思うのです。
逆に変に泥臭く歌うのも、ナンセンスです。 彼はとことん純粋な性格で、"美しいもの(鳥)を愛でる"職業(芸術家)なのです。 パパゲーノに泥臭さみたいなものがあったとは思えません。 (初演シカネーダが演じたときの肖像画を見てもそのことは明らかです)
実は共演者のベテラン歌手の方などにも 「声の良さで勝負しろ。演技は二の次だ。」なんてアドバイスも受けましたが、 やはり僕は自分の評価を得ることよりも、 来てくださっているお客さんに違和感を与えるような歌い方はできない・・・。
最初のアリア(2番:鳥刺しの歌)も、 あれは飽くまでパパゲーノが普通に生活している中で歌っている『鼻歌』ですから、 クソマジメに正面切って堂々と歌ったら変だと思うんです。 多少響き的に支障が出てでも、横を向いて歌ったり動きながら歌ったり・・・。 そうやってキャラクターでお客さんを物語に引き込みたかった。
初日と二日目で歌うときの立ち位置を変更したのも、そのことを徹底したかったからで、 初日が終わった後に演出家に直談判したのでした。
結果的にそれが正しいことだったのかどうかは、未だに僕にもわかりません。 次回パパゲーノを演じるときにはまた悩まされる要素だと思うのですが、 いつか全てを解決できるようなテクニックと経験を身に付けられればと思います。
ただ・・もっと声が前に出るような技術が足りなかったな・・・というのは今後の大きな課題です。
■もう一つは、今回の個人的なテーマはパパゲーノの社会性を出したかった・・・ということです。 パパゲーノがタミーノに自分の生活は「取替えっこ」で成り立っていることを説明します。 この台詞(原語の)を読んだ瞬間、このオペラのテーマの一つが見えました。
パパゲーノは自分の技術(鳥を捕まえる)を使って、 上級階級である女王や侍女たちから『報酬をもらっている』。
これはパパゲーノが猟師でも農民でもなく、 『職人』であることを表しています。 住み込みで貴族の世話をしていたフィガロや、 主人のパシリになっていたレポレロとは違います。 自分の技術で食っていた(生活していた)訳ですし、 誰かに仕えていた訳でもありません。
自由であり、それなりのプライドもある人物・・・。 それがパパゲーノなのです。
その証拠にパパゲーノはタミーノが自分は王子であることを説明しても、 決して媚びることも下手に出ることもありません。 飽くまでタミーノとパパゲーノの関係は地位的には「対等」なのです。 これが当時の貴族社会においてどれほどスゴイことだったのか・・・。
このパパゲーノの社会性を常に意識しながら演じていました。 パミーナとの関係。侍女との関係。 さらにはモノスタトスとの関係も (「黒い人間がいたって別におかしくはないか・・・」という台詞がある)、 全てが彼にとっては『対等』です。
・・・ただし女王やザラストロに対しては自然と畏敬の念を抱いたようですね。
『人類みな兄弟』 『同じ人間同士、位が高いも低い、なんてものは存在しない』 ベートーヴェンが熱中したシラーの詩(「第九」の原詩)に近いことを、 パパゲーノはこの物語の中で口にしていたんですね。
|
|
|
|