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2004/12/16(木)
HDD
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僕の関係している体験実習館「なじょもん」の整理室のパソコンのHDDがクラッシュしたということで、なんとかBuをとれないものかと苦心していた。 僕はもともとHDDなどというものは信用していないので、どうでもいいことであるが、結構みなさんはパソコンを信用しているらしい。パソコンは機械である。だから壊れる。 機械でなくても、世の中のすべてのものは壊れる。永久に変わらないものなど何もないと思う。 この地球でさえもいずれは消滅する。
僕は今までいろいろな事をやってきた。しかし流行のないものはひとつもない。僕自身の仕事でさえも流行はある。 だけど流行に合わせる気はまったくない。なぜなら流行には年齢が関係する。ファションデザイナ−やミュ−ジシャン、建築デザイナ−など最先端の流行の仕事などは、よそを向いているあいだにどんどん変化していく。 その変化について行くためには、年齢がどんどん若返っていなければならない。つまり世代交代である。 一番のいい例が芸能界であろう。あれほど変化の激しい業界も珍しいのかもしれない。時代が流行を作るのか、世代が流行を作るのかわからないが、とにかく激しい。
変わらないものがひとつだけあるとすれば、それは人間は必ず死ぬということである。それだけは変わらない。 仏教に悟りという言葉がある。悟るとは真理を見極めることだと思う。なんて偉そうなことはなかなか書けないが、かなり近いのではと思う。 般若心経というお経はそのことを言っている。 色即是空、空即是色とはまさに真理である。世の中に変わらないものなど何もない。
二十歳のとき写経をやった。半年くらい続いたと思う。そうこうしいるうちには意味を知りたくなる。いろいろな本を読んだ。なぜ仏教がこれほど多くの人に愛されてきたのか。 やがてひとつの疑問にぶちあたる。なぜ日本は葬式仏教なのか。 なぜ日本の僧侶は嫁さんをもらい、肉を食らうようになったのか。 答えは江戸時代にあった。当時の江戸幕府はキリシタンを撲滅するために、儒教と仏教を利用したのである。 つまり戸籍登録は寺の管轄になった。そのときから寺に権力が生まれたわけである。生まれたら必ずどこかの寺に属し、宗派を決めなければならない。そして人別帳に記されて死ぬまで百姓は百姓として縛り付けておく必要があった。 封建社会の中でこれほど便利な宗教があるだろうか。家康自身も若いとき一向宗でさんざん苦労しているから、それを逆手に取ったわけである。 これとまったく逆な宗教がキリシタンであったわけである。キリシタンにとって一番偉いのは、キリストであり、権力者ではない。その信仰心の恐ろしさに秀吉も家康も気づいていたのであろう。
話が脱線したが、とにかく日本の仏教は葬式により生業が立つので、俗に葬式仏教という名前で皮肉られている。 もっとはっきりいえば、日本のお寺はすべて仏教ではないといえるのではないだろうか。何々宗、何々派、何々寺などいうふうにどんどん分派ができて、とても仏教といえるものではない。 口ではみなさん僧侶を立ててはいるが、本音は軽蔑している人が多いのではないだろうか。 もちろん立派な人もたくさんいるが。
さて、変わらない真理である死が、間違いなく僕にも近づいている。しかしこれだけはどうしようもないこと。 誰でも一度は死ぬ。わかってはいるが、、死ぬのが怖い。これもまた真理である。 病院に通っているじいさんとばあさんの会話の中で 「あたしゃもういつ死んでもいいんたよ」 「それじゃばあさん、なぜ病院にいくんだ、、、死にたくないからだろうに」 これこそまさに真理。
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