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2005/11/30(水) 坂道
 中学校へ続く長い坂道を急ぎ足で歩いていた。12月に入りめっきり寒くなったこの町は、そろそろ初雪をまつばかりである。吐く息が白い。
 今日は朝早く新聞委員の早朝会議があるためいつもより30分ほど早く家を出た。次の生徒会の選挙が今回のテ−マである。
 新聞委員になって2年目、入学したときなんとなく強制的に決められてしまったのだが、それをそのままひきずっている。
 新聞委員室に入ると、3年生が難しい顔をして座っていた。
「何かあったんですか」
「昨夜、うちの生徒が車にはねられたらしいんだ。それだけならいいんだけど、逃げちゃってんだよ、運転手が」
「・・・・」
「生徒はお前のクラスだよ、柳原恵子」
「えっ・・・・」

 恵子は幼馴染である。家はそんなに近くはないが、小学校の頃にはよく一緒に帰ったりした。中学になるとあまり話すこともなかったが、同じクラスということもあり時々はいろいろな話をした。
「柳原の怪我はどうなんですか」
「死んだよ・・・」
「・・・・」

 僕は学校を飛び出すと柳原の家に走った。まさかという思いである。柳原の家の前までくると僕は立ち止まった。家族とはもちろん面識があるし、小学校の頃はお昼をご馳走になったりもしたものである。
 しばらくは家の前にたたずんでいたが、僕は入ることができなかった。そのまま引き返すと学校のほうには行かずに、なぜか逆方向に歩き始めた。
 人の死というものを初めて知った。昨日まで生きていた人が今はいない。それは不思議な感じだった。死んだらどうなるんだろう、心はどうなるんだろう。

 この町には学校とは正反対のところに小高い丘があり、ちいさな公園ができている。僕は無意識のうちにその公園をめざしていた。頭の中に恵子の顔が浮かんだ。いろいろなことが思い浮かんでは消えた。
 公園に着くと枯れた芝生の上に座った。雪の降る時期なので遊具やベンチはすでに片付けられて、遊具を取り外した後の2メ−トルほどの高さのポ−ルが一本、ぽつんと真ん中にあるだけである。
 なんとなく学校のほうを見ていた。その頃にはもう何も考えてはいなかった。ただ学校のほうを見ていた。
 しばらくしてから僕は坂道を下った。冬枯れの木立が目に付いた。恵子が死んだという事実は間違いないにしても、一体何が変わったのだろう。何も変わってはいないのだ。ただ中学生の女の子が一人死んだというだけである。

 遠くから救急車のサイレンが聞こえた。そのとき目の前の冬枯れの景色が突然消えた。

2005/11/29(火) 友の会展
 なじょもん友の会展というものが来月から始まる。本日はその会議。当然POP等は僕の担当。あれだけ人数がいるのに、なぜかパソコンを使いこなせるのは僕だけである。
 ところで友の会のパソコンがあるのだが、これがふた昔前のパソコンで、ワ−ドやエクセルならばいざ知らず、イラストレ−タ−やフォトショップだと重いデ−タは固まってしまう。K6-3Dプロセッサ−の500である。無理もないのだが。
 さて、これからが忙しい。頭の中が真っ白である。何から手をつけていいのか、、、(笑)。

2005/11/28(月) 花屋さん
 花屋さんが隣にある。ここの飼い猫が先月なくなったのであるが、大きな石を墓石代わりにして毎日花が生けられている。さすがに花屋さんである。ついでに葬儀屋も兼ねているから至れりつくせりというところである。ここまでしてもらえば幸せであろう。
 この猫、入る家により名前が変わる。僕の仕事場に入ってくる。そして我が家のように振舞う。僕はクロと呼んでいたが、本名は太郎みたいである。
 享年15才、猫としては長生きである。昔は猫は死に際を見せないというが、最近はどうも事情が違うようである。

2005/11/27(日) 上越市
 朝早く陶芸サ−クルの窯の火入れを指導してから上越市に出かける。降ったり晴れたりの忙しい天気の中、上越文化会館にいき、午前中フラダンス、午後よりよさこいソ−ランの発表会を見に行く。別に僕の趣味ではないが、ここは女房の付き合いである。
 市町村合併により上越市はかなり大きくなった。帰り道、あちこちに寄りながら帰宅。途中十日町市松代にて8人の陶芸展を見学。閉館間際だったがなんとか入館させていただいた。
 僕が地元の粘土でやきものをやっているというのはかなり有名みたいで、なじょもんの名を出した途端に係りの人の態度が変わった。他の市町村ではかなり注目しているみたいである。そのわりにわが町ではまったく注目されていない。まぁそんなものでしょう(笑)。

2005/11/26(土) チェ−ンメ−ル
 中二の娘がパソコをやっていて「あほらし!」とつぶやいている。何があほらしいのかとちょっと覗くと、なんじゃこのメ−ルはと親父もびっくり。昔で言うところの、いわゆる不幸の手紙である。今はチェ−ンメ−ルと言うらしい。
 あまりに面白いのでここで前文コピ−してみる。今の時代ならではの現象である。でも基本は昔とぜんぜん変わっていない(笑)。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

> >>>>>>>>>>これホントだからまわして下さい。ホントに困ってるから……日本中の人に協力してほしいんだ。この事は電話やメールで流しています。09036155273この電話番号はこの事を電話で流している携帯の番号です。この事が信じられなかったら電話してみて下さい。ホントに信じて下さい。この話は事実です。10月5日、僕の彼女が突然姿を消しました。最初は友人の家でも行ってるのかと気にしていませんでした。しかし彼女は2週間たっても帰ってこなかったので、友人の家に電話してみました。でも友人は家に彼女は来ていないと言ったので心配になり警察に調べてもらいましたが彼女はいなくてすぐ捜査は打ち切りになってしまいました。僕は納得いかず警察に頼んで、彼女の写真をコピーして市全域に貼って欲しいと頼みました。警察> >>>>>>>>>>は市全域には至りませんでしたが、彼女のコピー写真を少しだけ貼
ってくれました。でも…彼女の情報は一つも出てこなくて2週間がたちました。その日、自分宛に手紙が入っていました。中身をみてみると、彼女の写真がたくさんありました。しかも、目かくしをされていて、口はガムテープで縛られていて、拷問を受けているような写真でした。僕はすぐに警察にいきましたが一度打ち切りになった事件は相手に出来ないと言われ帰ってくれと言われました。なぜ相手にされないんだ?
彼女が誘拐されたのに!!!、と僕はそのとき警察を憎んでいました。しかし、僕は重要な事に気がつきました。警察が憎いのでは無い、僕の彼女を誘拐した犯人が全て悪い、憎いんだと。すぐに気がつかなかった僕は後悔していました。でもその後悔が>>>>>>>犯人を見つけて逮捕してやろうという強い気持ちにかわりました。
僕の大切な人を誘拐し、拷問までして……僕はその犯人が憎くてたまりません。犯人を見つけたら警察に通報せず、一生痛めつけてやろうと思います。内臓を取り出し、眼球をえぐりとり、骨を折って、ゆっくり、ゆっくり痛めつけてやります。でもそのためには日本中の人達の協力が必要です。その犯人を捕まえなければいけないからです。あと…生きていてほしい、僕の彼女にも会いたいからです。彼女と遊んだ日は僕の宝物です。そしてその宝物の時間を取り返すためにこのメールを作りました。このメールを1週間以内に10人に回して下さい。僕は、精密機械に詳しい友人と一緒にPAmw-B38という機械を開発しました。このメールが今どこにあるか誰がもっているか> >>>>>>>>>>わかる機械です。もしメールを止めたらその人を犯人、または犯人の共犯者とみなしてメールが届いてから8日目に殺しに行きます。これはすぐに現実のものとなりました。11/11(金)のニュースでやっていたように、残念ながら犯人では無かったのですがこのメールを止めた東京都町田市の女子高生の古山さん(15)が犠牲になりました。母親と2人で暮らしている家で密室にして顔や体を50ヵ所刺して
殺害しました。お願いですから、犯人を探すために協力して下さい。これ以上犠牲者をだすのは悲しいです。このメールはただのチェーンメールではありません。事実です。お願いします。彼女のためにも……。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

ということである。僕も文章が下手だがこれよりはましかな?
それにしてもPAmw-B38という機械がすごい、何なんだこれは?
コピ−ペ−ストで簡単にメ−ルが完成するので、こんなに長文でもかまわないわけで、昔の不幸の手紙とはちょっと違うなぁという感想である。
ちなみにこの文章を娘のパソコンから親父のパソコンにメ-ルでメモ帳を添付したら、しっかりとプロバイザ−の迷惑メ-ルに入り、確認後もう一度送信したらしっかりとノ−トンのスパンメ-ルに入った。なかなか信頼できるシステムである。僕のところにはアダルトメ−ル、出会い系メ−ルなどが一日60件ほど届く。一時期本当に困ったが、今は迷惑メ−ルで自動削除、さらに洩れたものはスパンメ-ルに入る仕組みである。
 しかし、敵もさること、あの手この手とメ-ルのタイトル、文章を変えてくる。暇な人がいるものである。

2005/11/25(金) たこ焼き
 夕飯を食べ終わってから、ねこまんまがなくなったので近くのホ−ムセンタ−にお買い物に出かけた。そのあと100金で文房具などを二人の子供に買ってやると、店の前にたこ焼きの屋台。
 たまにはお父のたこ焼きが食べたいというので、もう一度ス−パ−にいきたこを買ってきた。
 子供達が小さい頃はよくたこ焼きを作ってあげたものである。結構得意なのだが、実はたこは高いからいかのゲソを使う。これが本物のたこ焼きよりもいかの味が出てうまいのである。
 さて、久しぶりに焼き始めたら、なんだかくっついてうまく焼けない。変だなぁとしばらく考えたら、小麦粉の溶いたた中に卵を入れるのを見事に忘れていた。
 しかし専門家の味とちょっと違う???早速子供達にネットでたこ焼きの作り方を検索してもらう。息子が開いたのはあろうことか2ちゃんねるの掲示板ログ。
 それによると、天カスを入れる量がコツであるという。なるほど大阪だなぁと感心する。さらにマヨたこは邪道だそうである。娘と女房はマヨたこが好きだが、息子は昔からマヨなしが好きなのである。息子は味にうるさいほうである。
 ちなみに今晩は女房も夕飯を作ったが、さらに僕がチャ−ハンを作る。息子がおかわりをすれば合格。おかわりしなければ失格である。この息子のおかげてずいぶん親父も料理の腕を上げた。
 明日は久しぶりに茶碗蒸しでも作るかな、、。などと(笑)。

2005/11/24(木) 歌は世につれ
 ギタ−をやっていたせいか歌うことが好きである。だからといって歌がうまいわけではない。下手である。
 今までつらいことや悔しいことはギタ−を弾きながら歌うことで乗り越えてきた。今夜もなぜか気分がよくないので歌ってみた。すると今までのいやな気分がすっ飛んだ。
 で、ついでに酒かなんかを飲んじゃうとばっちりである。ただ飲みすぎると逆効果となる(笑)。

 今夜歌った歌は「上を向いて歩こう」。こいつは名曲である。あとは平原綾香の「明日」、それから「惜別の歌」、そして「雪の華」と時代がめちゃくちゃであるが、僕はジャンルを問わない。いい歌はいつの時代にもいいと思う。
 もちろん演歌も歌う。「雪椿」はいい歌である。こういう女を嫁にもらいたかっ、、、、もらったと思う、、、。まぁそれはとにかく(女房はパソコン音痴なので何を書いてもいいのだが)、日本人の持つ歌の心は僕の感覚では美空ひばりだったりする。

 子供のとき病弱だったせいもあり、病室の壁にラジオがかかっていて、聞く事もなしに聞いていたのか、意外と昔の歌が歌えるのである。今売れているオレンジレンジの「ロコロ−ション」などはどこかで聞いたことがあると思ったら「ロコモ−ション」のパクリであった。
 歌はつらいときや悲しいときについ口ずさんでしまうのが本物だと思う。だとすれば三橋美智也とかも好きである。僕の青春時代はフォ−ク全盛で、吉田拓郎、井上陽水が好きだった。だから三橋美智也の「母恋吹雪」などをギタ−で歌うと、みんなが、えっと思うらしい。
 最近、そのよさがわかってきたのが越路吹雪である。若いときこの町に住んでいたことがあり、そこから名前をつけたらしい。「サントワマミ−」などは僕のオハコである。

 今夜のような雨の夜、ブランデ−かなんかを手のひらで暖めながら「恋の町札幌」なんかを聞きたいものである。実際は焼酎のお湯割で、憂歌団なんぞを聴いているのだが(笑)。

2005/11/23(水) NF-1よさようなら
キヤノンNF−1を売ろうと思い手提げ紙袋の中に入れて2週間経つ。これを持ち出すとき、心の葛藤があった。

自分A 「本当に売るのかよ」

自分B 「もちろんさ、使わないカメラは売ってしまって使う人のところへ行ったほうが幸せさ」

A これはお前が夢にまで見たカメラじゃないか

B そうなんだけど、大事にしすぎて何回もフィルムを通していないのさ。

A でも、、、このカメラ、買ったときから中古カメラの価格相場がぜんぜん下がっていないぜ

B わかっているさ、EOS650のプラカメなんて当時10万円以上したのに、今は一万円以下がいいところだもんな、そういう意味ではちょっと惜しいけどなぁ

A おまえはコレクタ−じゃないのかよ!売ってしまうとホ−ムペ−ジが成り立たなくなるぜ

B サイトはあくまで趣味さ、べつに売ったからといって記事を削除することもないだろう、それにコレクタ−として集めていたわけじゃない、気がついたらカメラがたくさん集まっていただけさ。

A もう一度聞くけど、本当に未練はないのか

B 実は未練はある。しかし、ミノルタのXDのAEが壊れていただろう、それにさんざん使ったXEも調子が悪くなってきているし、電気を使ったカメラは所詮消耗品ということだよ。修理はもうできないしね。

A NF−1はハイブリッドシャッタ−だろう、電池がなくてもちゃんと写真は撮れるよ。

B それはわかっているさ、でも旧F−1Nもあるからそれで代用できるじゃないか。

A だってファインダ−スクリ−ンだって二つあるし、AEとアイレベルファインダ−までふたつそろえて、しかも今の時代貴重なワインダ−まであるじゃないか

B だから売るのさ、セットならばそれだけ価値があるしね。説明書も新品同様さ。自分でも中古をかなり買っているけど、アクセサリ−というものはなかなか手に入らないものなんだ。セットとなるとそれなりに買った人に喜んでもらえると思うよ。

A 東京のカメラ屋さんに査定してもらったとき、セットでたったの8万円だったじゃないか。そんなんでいいのか?

B いいのさ。実はその金でデジカメ一眼レフを買おうと思っているんだ、実は金がいまないんだ、だから使わないで飾ってあるカメラを売って、使えるデジカメを買うということさ。

A まてまて、銀塩カメラのみのかんがついにデジカメになり銀塩を捨てるということか!

B そうじゃないよ、銀塩は銀塩、デジタルはダジタルとして使い分けるということさ。サイト運営にはいるからね。

A サイト用なら2台もコンパクトデジカメがあるじゃないか。あれじゃだめなのか?

B あれでもいいけど、いまいち納得がいかないんだよ。デジタルってあんなものかなと思ってしまうんだ。だから一台はデジ一眼がほしいのさ。

A ここまで言っても売るというのなら、売ればいいさ。ただし、俺はもうお前の中からいなくなるぜ、いままで長い付き合いだったけど、もう二度と会うこともないだろう。あばよ!

B ・・・・・・・・・・

そんなわけで、今このカメラはいきつけの某カメラ店に持ち込んである。またひとつ大切な何かを捨てた。

歩むため
心の重荷を捨つるのも
先に待つ身の
夢を思えば

ご粗末、、、、、。

2005/11/22(火) 19年目の冬
 我が家の19歳になる猫がまた冬を迎える。この冬を乗り切れば20年目である。20年目になったら地元の新聞社が取材にくる手はずになっている。

 本日友人の借りている一軒家が火事。家族がいないのでそれだけでも被害が少なかったのであるが、朝8時に出勤、留守の家に12時頃出火、中から燃えていたので放火ではない。はっきりしたことはわからないが、電気系統ではないかといわれている。
 とりあえず我が家に泊まってもらう。おでんの残り物をつっきながら酒を飲む。飲んでいる間、火事のことなどすっかり忘れていた。一時ごろまで飲んでいた。
 明日はアパ−ト探し、そして布団と衣類を購入しなくてはいけない。まったく人生は予期しないことがあるものである。

2005/11/21(月) おでん追想
 東京にいたときの事、一人暮らしの僕は仕事と学校の往復でほとんど遊んでいる暇はなかった。夜中の一時ごろ仕事が終わり、行きつけである新潟出身の親父がやっているおでん屋に行くのが唯一の楽しみだった。
 そのころの僕には、色気のある話はあまりない。都会の隅でゴキブリのように生きていたという感じだろうか。
 地方出身者はなぜか地方出身ということを隠したがる。つまり過去を隠すのである。そうする事で背伸びをしようとする。そして顔の皮膚をひきつらせながら尖った顔になってくる。こうなればしめたものである。間違いなく東京人だ。
 たまに東京に研修会などに行くと、田舎の人か都会の人かはすぐにわかる。顔である。しっかりと顔に書いてある。その顔には「私は東京に来て10年です」「私は東京に来てまだ一年です」などと書いてある。
 さて、そんなふうに突っ張っていても、地方出身ということをさらけ出したとたんにみんな田舎の人なっっこい顔に変わる。
 

 おでん屋の屋台でいつものようにおでんをつっつきながらコップ酒を飲んでいると、けばけばしい化粧をした女がやってきた。この人も馴染みの客らしく屋台の親父は親しげに声をかけた。

「京ちゃん、今日はやけに早いね」
「う〜ん、ちょっとトラぶっちゃてさ、今日は頭にきて帰ってきちゃった」
「まぁいろいろあるわなぁ、、焼酎のお湯割りでいいか、、」
「うん」

 屋台の客はたった二人、なんか黙って飲んでいるのも気まずい雰囲気である。そんなことを察してか親父が僕を紹介した。

「京ちゃん、こちらのお兄さんは新潟出身だよ、あんたんとこと近いんじゃない?」

 そう言われると、けばけばしいアイシャドゥの目がじろりとこちらに向けられた。

「新潟のどこよ?」

 つっけんどんな言い方で、面倒くさそうに話かけてきた。

「長野との県境です、十日町の隣くらい、、」

 そう答えると、いきなりのこの女は顔をほころばせた。
「近い、近い、私信州の飯山」
「あ、そうなんですか、家から車で一時間くらいですね」

 こんな会話で人と人とが知り合っていく。それからちょくちょく屋台で一緒になった。ご馳走になったことも何度かある。だんだんこの女の素性もわかってくる。年齢は僕よりひとつ下。しかしついに恋愛には発展しなかった。
 一度だけ僕のアパ−トに来たことがある。屋台にたばこを置き忘れただけなのだが、わざわざそんなものを届けてくれた。試験前日だった僕は夜中の2時から試験勉強である。それを察してかお茶でも飲んでいかないかという僕の誘いを断って帰っていった。
 どんなに機会に恵まれても、相性というものがあると思う。運命の赤い糸などという気はないが、うまくいかないものは絶対にうまくいかない。それが何なのかよくわからないが、なぜかまれに相性が悪くてもくっついてしまう場合がたまにある。これは絶対にうまくいかない。どうしてそうなるのかというと、スバリ肉体関係である。これにもつれ込んでしまうと修羅場である。
 さびしがりや男と女である。肉体関係でさびしさをまぎらわしても、お互いの束縛だけで休まる時間が存在しない。別れるときには血を吐くような苦しみをもちながら、なぜか未練が残らない。
 これとは別に、肉体関係などなくても一緒にいるだけで気持ちが休まる相手というものがある。こういう場合はうまくいく。結婚まで考えてもいいと思う関係とはこんな関係であろう。

 東京ではついぞ結婚の相手として考えられる女とはめぐり合えなかったが、あの3年間は充実していた。金はバイトで必要最小限は稼げたし、学費もなんとか払えた。

 田舎に帰ってきたとき、時間が止まっていると感じるのは僕だけではないだろう。この止まった時間をどう使うかということで一時は頭がおかしくなる。自分が社会から置き忘れられた存在に思えてくるからである。

 今晩の夕飯は僕がおでんを作った。あの親父の味に近づけたいといつも思うが、とても近づく事はできない。おでんを食べるときいつも思い出すのは、あの親父の顔である。もう商売はやめたんだろうなぁとふと思う。こんな日はなぜか日本酒である。ぬるめに温めたコップ酒が喉を通って胃にしみわたるとき、出汁のしみこんだ大根に箸を入れておでんを二つに分けるとき、親父さんの顔が目に浮かぶのである。これじゃぁまるで演歌の世界であるが、僕の心の演歌にはなぜか色気が存在しない。

 

2005/11/20(日) 撮影旅行 IN 高崎
 7時起床。なぜかこういうところへ来ると朝飯がうまい。家だとたいして食べないのだが(笑)。
 伊香保のレトロな博物館に寄り、そのあと高崎観音へむかう。10年ぶりくらいだろうか、子供がまだ小さかったときいったことがある。
 本日も撮影撮影撮影。
 

2005/11/19(土) 撮影旅行 IN 伊香保
 所属する写真団体で撮影旅行。やたらと撮りまくる。コンパニオンとかの色気は一切なし。あくまで写真写真。カメラは何を持っていったかというと、リコ−のオ−トハ−フ一台とサムライの4倍ズ−ムだけ。ほかにWEB用にデジカメ2台。スナップのみだと思い、一眼レフは持っていかない。フットワ−ク重視。

2005/11/18(金) 脱皮
 人は何かを捨てることで大人になっていく。そして捨てなければいけない時期がある。まずは思春期、2番目は本当の恋をしたとき、3番目は結婚するとき、4番目は子供ができたとき。5番目は仕事で苦しむとき、6番目は子供が結婚等で旅立つとき、7番目は最後で死ぬときである。
 
 

2005/11/17(木) デジカメの功罪
 デジカメが主流になってから失ったものはなんだろう。そんなことをふと考えてみた。20年前、マビカショックというものがあった。ソニ−が発売したデジカメであるが、たいした画素数ではないのにとんでもなく高かった。たしかメディアはフロッピ−だったような気がする。
 写真業界はあわてた。フィルム、印画紙、カメラが売れなくなると危惧したのである。しかし、銀塩に近づくのはまだまだ先だろうとひとまずは落ち着いた。しかし今、確実にその危惧したものが現実なものになった。
 
 デジカメで失った一番大きなものは、僕の場合は情熱である。つまり写真というものは待つものだった。撮影して、現像してプリントして、はじめて感動を得るものだった。しかし、今は違う。撮影したその場でモニタ−できる。だから感動がない。記録からメモに変わったのである。
 ましてや写真を芸術とみていた人ほどギャップは大きい。かたくなに銀塩を使い続けるのもまたひとつのやり方であるが、デジカメに乗り換えていくのもまたひとつの方法である。写真がプリントされた結果としての芸術ならば、デジタルだろうと銀塩だろうと変わりはない。ただし、デジカメと聞いただけで、作品がとたんに記録となることはいなめない。と、考える僕はもう古い時代の人間なのだろう。これからの若い人たちは写真などただの記録になっていくのだろう。
 「写真、、あぁパソコンの中に保存してあるよ。えっプリント、面倒くさいなぁパソコンで見ればいいじゃん」、、とこういうことになってくる。紙焼き、もしくは印刷は必要なときだけ行う。となると、どうなるかというとプリントに意味がなくなる。写真のアルバムはもうすでにCDに焼く時代である。
 極端な話、主流の写真雑誌もウェブとなる。つまりネット送信で画像をアップしてフォトコンが行われる。アサヒカメラ、ウェブ版となり、今月のフォトコンテスト、組写真の部、一等賞はだれだれとなる。でどうなるのかというと、講評のところに、「フォトショプの使い方が雑である、作品としてはいいのだが、フォトショの使い方がまずいために損をしている。もっとよく勉強するべきだろう。この色再現は、マゼンタをもう少し弱くしたほうが作品のイメ-ジに合うと思う。せっかくの作品である、フォトショの使い方をよく勉強しておくように」
などと書かれていたりして(笑)。

2005/11/16(水) 1970年
 古い写真雑誌を借りてきた。フォトコンテスト70年代である。1970年、僕は小学校5.6年生くらいである。兄のステレオでベンチャ−ズを聴いていた頃である。大阪万博などがあったなぁ。
 この数年後にオイルショックがきて、トイレットペ−パ−の買占めなどがニュ−スになったのを覚えている。
 この雑誌、カメラの広告にはまだペトリ、トプコンがでていてなつかしい。つまりこの数年後のオイルショックで中小カメラメ−カ−は倒産、撤退に追い込まれるわけである。
 高度経済成長のひとつの頂点は、おそらくこの1970年代ではないだろうか。日本経済の最高頂点の象徴が大阪万博ではないかと思っている。

 さて、この雑誌の内容であるが、まじめに写真に取り組んでいるのが伝わってくる。しかし、時代というものを考えてみると、このとき特選を受賞した写真の半分以上は、今のフォトコンに出したら落選するだろう。どうしてそういえるかといえば、これらの特選群の写真の手法は今の時代に残っていないからである。もし本当にこれが写真芸術の頂点だとすれば、今もこういう手法が残っていていいはずである。僕自身はこれらの写真群は大好きである。しかし時代は認めてくれない。
 ただし、この中に今の時代でも特選になるだろうと思われる写真もたくさんある。ここに注目したい。ここに「いい写真とは何か」の答えが出ている。

 写真の技法と一言で書いてみたが、撮影の技法、暗室の技法、展示の技法とさまざまな技法がある。この時代に写真技法のすべてが網羅されている気がする。絵画が筆で表現されているとすれば、写真では、この筆が暗室技術に相当すると思う。元のネガがモチ−フであり、これを元にどのように表現してもよいということになる。
 そういえば写真雑誌フォトコンテストはおなじ名前の雑誌が今もあるが、これを比べてみるのも時代考証としては面白いかもしれない。

 高校生の頃、モノクロの一連の写真にあこがれて、ひなびた温泉街を撮り歩いた事がある。路地裏とか軒下ばかりを撮っていたような気がする。生活というテ−マで、その裏を垣間見ようとしていた。考えてみるとこれは大変なテ−マである。今でも十分通用する。
 あの頃、ペトリのレンズシャッタ−機7sしかなかったが、それでよかった。友人の暗室を借りて朝まで焼いた事も今は懐かしい思い出となった。たぶん1975年頃であろう。
 近所の子供を撮影し、プリントしたものを差し上げると、お礼にお茶菓子などがあとからやってきた。今の時代、下手に子供を撮影すると、変質者と言われて白い眼で見られてしまう。

 吉田拓郎の古い歌、マ−クUのサビにある文句、

年老いた男が川面をみつめて 時の流れを知る日がくるだろうか

 う〜ん、この心境になるにはまだ少し早い。もう一度あの頃のように写真を撮り歩いてみるか。
 ところで、この写真雑誌を貸してくれた某新聞社のTさんにお礼を言いたい。道に迷ったら、今まで歩いてきた道を振り返るのもまたひとつの方法だということ学んだ。

2005/11/15(火) 縄文
 麻縄で縄を作る。なぜこんなものを作るのかというと、ズバリ縄文土器である。右撚り、左撚り、ダブル撚りといろいろと覚えた。右よりはまぁいいのだが、左撚りはしんどい。普通麻縄は右撚りなので、左に撚るという事は、一度ほどいてから再び逆に撚るということになる。
 女房がたれパンダならぬ、たれかばを作った。その尻尾に麻縄が使われた。そのあまりを使った、、、逆か(笑)。

2005/11/14(月) ひま疲れ
 仕事がヒマというものも疲れるものである。まぁたまにはヒマもいいが、いつもだと困るというもの。このたまにヒマというときにパソコンが上達する(笑)。
 本日はオフィス2003をじっくりと見てみた。面倒である。いろいろあってあれもできます、これもできますというのはいいが、出来ないものにとっては結局何もできない。
 なるほど、こういうときに使うのかと発見するこのほうが多い。アドビのソフトはかなり使えても、実は一番苦手なのがエクセルである。これはマスタ−しようと何度かやり始めているが、途中で投げ出すことの繰り返し。必要に迫られないと覚えられないものらしい。また、使わないでいると忘れてしまう。
 アクセスもだいたい理屈はわかったが、使わないでいたのでたぶんまた一からやり直しかも。

2005/11/13(日) キムチ鍋
本日の夕飯はキムチ鍋。
以前TVで紹介された本場キムチ鍋の作り方を実践してみた。結果は大好評であった。
コツは何かと言うと、シ−チキンとキムチを最初に炒めるのだそうである。そうするとキムチとツナが反応してうまみを引き出すそうである。
お試しあれ。

2005/11/12(土) チラシ
 続いて今日は町内全戸配布用のチラシを作る。こちらももちろんモノクロである。
 写真もモノクロが主体、アドビのフォトショップもイラストレ−タ−もグレ−スケ−ル、、、色盲になりそうである(笑)。

2005/11/11(金) ポスタ−
 なじょもん企画展示のポスタ−を作る。モノクロなので印刷費が安い。最近こんなことばっかりやっている。バランス、フォントなどを考えると結構難しい。
 パソコンの中で、これでいいと思っても、試し印刷してみるとぜんぜんだめだったりして、、(笑)。

2005/11/10(木) 愛着
 ドンケのカメラバックもずいぶん古くなった。14年くらいは使っている。そろそろ買い替え時期なのだが、これだけ長い付き合いだとなかなか替える気になれない。
 思えば、撮影旅行や家族旅行は必ずこのバックだった。多いときにはカメラボディが4台、レンズが4本ということもあった。このカメラバックは道具を入れようと思えばいくらでも入るのである。
 このバックを買った頃、モノクロフィルムの100フィ−ト缶を買って、フィルムを自分でパトロ−ネに詰めて撮影することを覚えた。フィ−ト缶を何缶買っただろうか。
 古いカメラを撮影することを趣味としているから、単体露出計も何台かはあるが、いつもカメラバックに一台は入っている。左右のポケットには右側にモノクロフィルム、左側にカラ−ネガかポジフィルムというふうに分けていて、前の二つのポケットにはストロボ、露出計と入れてある。眼をつむっても取り出すことができるくらいに習慣が付いてしまっている。
 古いもの=捨てられるものという高度経済成長の時代は終わった。ボロボロになっても使いたいと思ういい道具をこれからは選ぶ時代だろう。
 古いものといえば古女房、、怒られそうだが、昔からのたとえ「女房と畳は新しいほうがいい」は間違っていると僕は思う。女房はやたらと取り替えられるものではない。畳とは違う(笑)。
 もっとも自分も古旦那である。しかもボロボロ。まだまだ使える、、かな?

2005/11/09(水) オ−ストラリアからのメ−ル
 半年ほど前のことである。英文のメ−ルが届いた。どうせ宣伝のジャンクメ−ルであろうと削除体制に入ると、中にolympusの文字が見えた。とぼしい英語知識でよく読むと、どうやらオリンパスUCというカメラを売ってほしいということらしい。
 一応無料の翻訳ソフトにかけてみた。結構いい加減な訳であるが、僕の考えていた訳とほぼ一緒。そこでパソコンの先輩方にいろいろと問い合わせるとほぼそれで間違いないだろうと言われた。まぁ゜意味はわかったが、これに対して返事を出さなくてはいけない。辞書をひきひきなんとか返事をしたためる。
 「英語力がないので間違うかもしれませんが許してください。このカメラは一台しかないので売ることはできませ。ソ−リ− 、このカメラはオリンパス35SPと同型のモデルです。SPならば市場にいくらでもあるので、購入することができますよ」というような内容だったと思う。
 これに対する返事は、
 「お返事サンキュ−、あなたの英語力はべリ−グッド。UCとSPが同型モデルになのは知っているが、私はどうしてもUCのモデルが欲しい。売っていただけないのは残念ですが、もし売るような事があれば、まず私に連絡してほしい」
 というような内容であった。英語をほめられてしまったのは意外であるが、よく読むと少しは義務教育で英語をやっていたのでなんとか読めるものである(笑)。

2005/11/08(火) 古いレンズとPhotoShop
 パソコンの前に古いレンズをつけたカメラを置くと、時の流れの速さを感じてしまう。このレンズが新発売されたとき、誰が今の時代を想像できただろう。
 デジカメとPotoShopという組み合わせは、すでに主流になっているが、これにパソコンの普及がもう少し広まれば、銀塩は廃れていくのは間違いない。もちろん今も廃れてきてはいるが、まだまだ年配の方と女性陣にはほど遠い話であろう。
 パソコンが年配と女性に普及しにくい原因のひとつは、簡単な話、面倒なのである(笑)。ところが小学生にいじらせてみると、ちょっと教えただけでどんどん先へ行く。頭ではなく体で覚えてしまうからである。
 もちろん、パソコンなしでプリントアウトできる簡単なものもあるが、あまりお勧めではない。やはりパソコンに入れて画像処理できてこそ価値があると思う。そのためにはパソコンを使いこなせるようになってから、今度はPhotoShopを覚えなくてはいけない。これはなかなか長い道のりである。
 レタッチソフトもいろいろあるが、ここはやはりPhotoShopが主流であろう。Paint Shop Proは完全にアドビに負けたといっていい。アドビは他のソフトとの関連性において優れている。他のソフトもすごくいいので、結局これになる。
 僕がパソコンを始めたのが3年前であるが、今ではホ−ムペ−ジを5本管理できるようになった。もっとも僕が作っているのではない、ビルダ−とゴ−ライブというソフトが作っているのであるが(笑)。要するにいじることが好きなのである。つまり自分で苦しみを背負ってしまう。しかし苦しみから抜け出たときは、ものすごくうれしい。このうれしさのために危険をかえりみずまたいじるのである。まぁ登山に似ていなくもない。カメラをいじるのもパソコンをいじるのも一緒である。
 この古いレンズを見てふと考えたのだが、この時代に土門拳と木村伊兵衛がいたらどうなるだろうか、、、?
 木村伊兵衛は間違いなくパソコンとデジカメを使うだろう。しかし土門はかたくなに銀塩ではないだろうか。
 時代、あと10年後、どうなっていくのかは想像が出来ない。デジカメとパソコンの価格が安くなることは間違いない。EOS Kissクラスのデジカメ一眼は間違いなく5万円前後になるだろう。それは過去の銀塩カメラの流れをみれば明らかである。

2005/11/07(月) SMCタクマ−
 リコ−の1700円のカメラに、アダプタ−をかまして、古いペンタックスのレンズ、プラクチカマウントのSMCタクマ−35mmF2をつけてみた。若い人はまったく知らないと思うが、SMCとはSuper Malti Coated の略である。要するに多層膜コ−ティングのことである。このコ−ティングにより写真のヌケがまるで違ったということである。もっとも今では当たり前の技術ではあるが。
 この35mmのF2の明るさはMFのときピントがあわせやすいのはもちろんのこと、描写がモノクロだとすごくいいのである。お気に入りの一本である。
 最近、いろいろと余計な事で忙しくてあまり写真を撮らなくなったが、カメラバックに入れるレンズは限定3本となるとまず第一にこのレンズをバックに入れる。
 いいレンズは、デジカメ全盛、ズ−ムあたり前の時代になっても、やっぱりいいのである。

2005/11/06(日) カメラの衝動買い
 昔はカメラを衝動買いするなんて事は考えられなかった。ところが中古とはいえ簡単に買ってしまえる時代になった。
 午前中は集落のどんと焼きの為の萱刈りをやり夕方から子供に付き合い買い物に出かける。待ち合わせは、例によってリサイクルショップである。さてそこで、おっと思わせる物件をみつける。リコ−のMF一眼レフ、XR10Mである。レンズなしであるが、これはKマウントなのでペンタックスのレンズが付けられる。
 昔なんとなく気になっていたカメラである。というのはAF一眼レフ全盛時代に、MFの絞り優先の何の変哲もないカメラだったからである。ところがオ−トブラケッドが付いている。これはプロが使ってもいい機能である。実際にはアマチュアはフィルムがもったいないのであまり使わないのだが(笑)。
 値段を見るとなんと1700円。もちろんジャンク扱い。長年の経験から、これはジャンクではないと確信。仮にジャンクだったとしても値段が値段なので悩むこともない。即購入。
 さて、家に帰り早速チェックしてみる。どこも壊れていない。このカメラは、1980年の発売。単3電池を4本使うカメラであり、非常に珍しい。今となってはありがたいシステムである。ニッケル水素電池も使えるのである。
 このカメラを一台持ってどこかへ写真を撮りに行きたいと思う。カメラのステ−タスは何もないのである。なんの変哲もないMF絞り優先AE、そして何故かオ−トブラケティングが付いているという面白さ。
 デジカメ全盛になってからあまり買わないようにしていたのだが、今回まさに衝動買い。やはりリサイクルショッブは覗くものである。
 

2005/11/05(土) 土曜日
 土曜日はほとんどの企業が休日である。しかし自営業に休日はない。そのかわりに自由がある。暇なときは何をしていてもいいというわけである。
 土曜日は比較的暇なことが多いので、ひさしぶりに陶芸をやる。土器作りばかりしていたので腕がなまっている。土器は日常生活では無用の長物である。家に持って帰ってもどうしようもない。
 そんなこんなで一日が終わる。自宅に帰ると時間外の仕事が入る。夕飯を急いで食べてまた仕事。これが自営業である。

2005/11/04(金) 部落差別
 なんとなくギタ−を弾いて懐かしい歌をなんとなく歌った。岡林信康の「手紙」である。暗い歌ではあるが、昔よく歌ったものである。
 この歌は部落差別を歌ったものであるが、昔むかし高校生の頃、当時付き合っていた同級生の娘が、部落差別に非常に関心を持っていて、2曲くらい歌を作ってあげた。その歌を作るために何冊も図書館から本を借りてきて読んだ。

 まぁ一番悪いのは身分制度を作った家康であるが、士農工商の下にえた、非人というのを設けたことはある意味封建社会の基本を見事に作っている。
 本当は商、士、工、農となる。家康は商をもっとも嫌ったのである。これは関が原以降、冬の陣、夏の陣となるきっかけを作ったほどである。片桐且元、、だったかな?彼は太閤の金を使えば大阪方の力が弱くなり、家康が喜ぶだろうと大判を沢山作って消費したが、これが家康の怒りを買ったわけである。
 さすが大阪、商人の町、かたや家康は封建社会の基盤を固めようとしているわけで、これを喜ぶはずがない。この時代から関西と関東の気風が出来ていたのかもしれない。

 話がだんだん変わってきたが、この時代、一番苦しい生活を強いられたのが、封建主義における生産物略奪をされる側の農民である。だから武士の下に農をおいて、心の満足を充足させようとした。それでは彼らの優越感を満足させることはできない。だからその下にもうひとつ身分を作った。これがえた、非人である。
 そうした人々は社会から疎外された人達だったので、まとまって部落を作るより仕方がなかった。そして、明治維新を迎えるが、建前は四民平等といいながら、年貢の取立てはあいも変わらず。そうしたときに農民が怒りをぶつけられるのは、結局えた、非人となる。
 今の時代、いじめられっ子がさらに自分より弱い相手を見つけていじめるのに似ている。人は自分より下の人間を見つけることで心を満足させるもののようである。そしてそれが今も続いているわけである。ばからしいといえばそれまでだが、なかなか根の深いものがある。

 この地方では集落の事を平気で部落と呼ぶ。さすがに役場や市役所では部落とは言わないが、我々一般人は「どこどこの部落の何某が、、、」と平気で使う。ぜんぜん深い意味はないのであるが。
 これは大阪の方へ行けばとんでもないことである。まぁある意味で、この地方は差別がほとんどなかった証拠であり、それは過去の歴史においてはいいことではあるが。

 さて、この岡林の「手紙」放送禁止歌となったのだが、どうして放送禁止なのか、この年齢になってもまだわからない。これは国家権力なのではないだろうか。言論、報道の自由において憲法に違反している。
 たまたまワ-ドに打ってあったので、コピ−ペ−ストでここに貼り付けておこう。なつかしいなぁ、、、。


        手紙

Am Dm E7 Am Dm E7 Dm Am Dm E7 Am
私の好きな みつるさんは おじいさんからお店をもらい
Am Dm E7 Am Dm E7 Dm Am Dm E7  Am G
二人 一緒に 暮らすんだと うれしそうに 話してたけど
C G Am Am Dm E7 Dm Am E7 Am
私と一緒に なるのなら お店を譲らないといわれたの
Dm Am E7 Am
お店を譲らないといわれたの


私は彼の幸せのため 身をひこうと思っています、
二人一緒に なれないのなら 死のうとまで彼は言った
だからすべてをあげた事 悔やんではいない別れても
くやんではいない 分かれても



もしも差別がなかったら 好きな人とお店が持てた
部落に生まれたそのことの どこが悪い 何が違う
暗い手紙になりました。だけど私は書きたかった
だけども私は書きたかった

     

2005/11/03(木) なじょもんバザ−ル
 一日じゅうなじょもんバザ−ル。打ち上げはなし。みんな前日からの疲れでそれどころではないらしい。売り上げはそこそこあった。
 あんぼ、あんぼ、おまえはあんぼ。されどあんぼ、あんぼにほかならぬ、おまえはあんぼ。
 おやすみなさい。zzzzzz。

2005/11/02(水) あんぼの準備
 なじょもんバザ−ルのための「あんぼ」作り、POPつくりの為、帰宅は夜中の1時くらいになった。あんぼ作りは11時頃に終了したが、POPを作って、印刷終了まではずいぶんかかってしまった。
 こうなることは覚悟していたが、本当は「あんぼ」は他の役員にまかせて、僕はPOPに専念しようと思ったが、あんぼをこねる人がいなくて結局こねるまで自分がやってしまった。
 帰りはずいぶんと寒かった。冬将軍はいつになるのか、、まだまだと思ってはいるが、、、。

2005/11/01(火) スト−ブ
 寒くなった。スト-ブを出した。もう少ししたらこの屋根裏にもコタツが必要になる。
 この反射式スト−ブ、今では人気がなく、屋根裏の隅でほこりをかぶりそうなところを僕が救い出してあげた。この反射型スト−ブは素晴らしいのである。部屋を暖めると同時にお湯を沸かして、焼き芋まで焼いてしまう。薬缶の中に徳利を入れれば熱燗まで出来るのである。ファンヒ−タ−にはできない技である。

 今日から11月、日本酒の買い置きがないので、ウィスキ−のお湯割を飲んで、霜月を迎えた事を祝うとしよう。新しい霜月に乾杯。つまみは、、、もちろんあたりめである。これもスト−ブで焼く。

 明治維新のときの大村益次郎は一日一合の酒を自らの金玉で温めたというが、僕にはその芸当はできない。金玉が縮み上がってしまう。変わりにスト−ブを使わせていただく。

 寒さとは人を新しい気持ちにさせてくれる。雪国の人間はたいがいがそうであるように、雪の降る直前はいやなものである。不思議な事に雪が降り積もり根雪となってしまうとそれほどいやな感じはしない。諦めてしまうからであろうか?いや、そうではないと思う。新たなる季節に緊張するのだ。だから嫌だなどという甘っちょろい気持ちは吹き飛んでしまうのだろう。これから始まる長い雪の季節、アドレナリンが充満するのだ。


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