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2005/11/17(木)
デジカメの功罪
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デジカメが主流になってから失ったものはなんだろう。そんなことをふと考えてみた。20年前、マビカショックというものがあった。ソニ−が発売したデジカメであるが、たいした画素数ではないのにとんでもなく高かった。たしかメディアはフロッピ−だったような気がする。 写真業界はあわてた。フィルム、印画紙、カメラが売れなくなると危惧したのである。しかし、銀塩に近づくのはまだまだ先だろうとひとまずは落ち着いた。しかし今、確実にその危惧したものが現実なものになった。 デジカメで失った一番大きなものは、僕の場合は情熱である。つまり写真というものは待つものだった。撮影して、現像してプリントして、はじめて感動を得るものだった。しかし、今は違う。撮影したその場でモニタ−できる。だから感動がない。記録からメモに変わったのである。 ましてや写真を芸術とみていた人ほどギャップは大きい。かたくなに銀塩を使い続けるのもまたひとつのやり方であるが、デジカメに乗り換えていくのもまたひとつの方法である。写真がプリントされた結果としての芸術ならば、デジタルだろうと銀塩だろうと変わりはない。ただし、デジカメと聞いただけで、作品がとたんに記録となることはいなめない。と、考える僕はもう古い時代の人間なのだろう。これからの若い人たちは写真などただの記録になっていくのだろう。 「写真、、あぁパソコンの中に保存してあるよ。えっプリント、面倒くさいなぁパソコンで見ればいいじゃん」、、とこういうことになってくる。紙焼き、もしくは印刷は必要なときだけ行う。となると、どうなるかというとプリントに意味がなくなる。写真のアルバムはもうすでにCDに焼く時代である。 極端な話、主流の写真雑誌もウェブとなる。つまりネット送信で画像をアップしてフォトコンが行われる。アサヒカメラ、ウェブ版となり、今月のフォトコンテスト、組写真の部、一等賞はだれだれとなる。でどうなるのかというと、講評のところに、「フォトショプの使い方が雑である、作品としてはいいのだが、フォトショの使い方がまずいために損をしている。もっとよく勉強するべきだろう。この色再現は、マゼンタをもう少し弱くしたほうが作品のイメ-ジに合うと思う。せっかくの作品である、フォトショの使い方をよく勉強しておくように」 などと書かれていたりして(笑)。
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