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2005/06/03(金)
雨
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本日、夜より雨。 タイトルに雨とつけて、さて今日の日記は何を書こうかと考えている。いつものやり方である。
俗に雨男、雨女というものがある。ある人物が行事に参加すると必ず雨が降るということであるが、そんなことはありえない。2回くらい偶然が重なるとそれがジンクスとなる。しまいには本人でさえも「俺は雨男だから、、」なんて言い始める。
ジンクスといものは偶然から始まるが、偶然をジンクスにしてしまうのは結局本人である。金がない、金がないと思っていると本当に貧乏人になる。まぁこれは今の自分であるが(笑)。
昔パチンコにはまっていたときに、ある人物に会うと必ず負けるというジンクスがあった。逆にある人物に合うと必ず勝つというジンクスもあった。これは不思議である。 同じ事を作家の宮元輝がエッセイの中で書いていたのでびっくりした。競馬の世界ではあるが、一時期かなりはまっていたみたいである。もっともただでは起きない、その経験かどうかわからないが「優駿」という名作品が生まれている。さすがである。
ある作家にほれ込むと、その作家の作品を初期のものからすべて読むというやり方は今でも変わってないないが、そうやってある作家を追及していくと、あ、またこの手法で書いているな、とかが見えてくる。そしたらその作家は卒業である。
高校生から二十歳の頃、五木寛之にはまっていて、とうとう全集本の月一回2冊の配本で全巻そろえた。今この年齢になって読み返すと、かっこいいのだが、やはり小説、現実離れという感は逃れられない。最近の五木寛之はエッセイばかりである。 そういえば大巻「青春の門」はどうなったのだろう、伊吹信介がソ連に渡るところまでは読んでいる。あの小説に完結編はあるのだろうか。僕の青春時代の愛読書だった。文庫本で全巻そろえたのだが、高校生のとき付き合っていた彼女にあげてしまった。今思えば本を読むような女じゃなかったがなぁ(笑)。
今読み返しても面白いし奥が深いと思うのは、やはり自伝的小説である。いろいろな作家が書いているが、まぁ誇張はあるにせよ、伝わってくる感覚はあきらからに違う。 水上勉という作家の作品はとうとうパタ−ンがつかめなかった。あと10年生きていてくれたらパタ−ンを読めたのに。惜しい作家を亡くしたものである。
逆にパタ−ンが読めても面白すぎてやめられなくなるのが、司馬遼太郎である。この人の歴史小説は時々脱線するのが魅力である。だから歴史上の人物が見事に浮かび上がってくる。
さて、雨というタイトルをつけて、しかもちびちびとやっていた酒がまわってきたせいか、かなり余計なアトリブ調になってきた。雨は本降りになったみたいである。蛙もなき始めた。ところで蛙はどうしてなくのだろう。やっぱり交尾かな?
詩人の草野新平が蛙を使った擬人法で面白い詩をいっぱい残している。中学生の教科書にも載っているくらいだから知っている人はかなり多いと思う。
彼もそうだけど、小林多喜二などのプロレタリア作家が今生きていたら、北朝鮮のことをどう思うのだろう。 まぁだいたいはわかっている。社会主義は間違っていない。指導者が間違っているのだと。
僕の兄は、若いとき民青に一時期参加しながらも、池田大作の「人間革命」も読んでいた。この二つは両極端である。唯心論と唯物論である。はてな、、。
いきなり雨がやんだ。蛙もなきやんだ。この関係は湿度が関係すると何かで読んだ覚えがある。 蛙というものは不思議なもので、なき始めるといっせいに団体でなくが、なきやむときもいっせいになきやむ。 これはどういうことかと女房と話したことがある。女房の言うには、音頭とりがいるとのことである。「本当かよ、、」と聞くと、中には人間と同じでアウトロ−したやつがいて、間の悪い蛙がいるとの事である。
すかさず僕が聞く 「ということは何か、、高台のうえでクラシックの指揮者みたいにタクトを振っているのか、、、」 女房答えていわく 「そうねぇたぶん。でも見たことはないからなんとも言えないけど、、、、」
見たことがないことは言わないでほしい。
さて寝る時間になった。ほろ酔い気分である。 壺中の天に入るとしよう。
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