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2005/09/30(金) 月末
今日で9月も終わり、、、、。
金がない、、、。
困った、、。
月末のいつものことではあるが (゜ロ゜;))((;゜ロ゜)

2005/09/29(木) 目的
 目的というものがある。目標というと意味がかわってくる。
辞書によると目的とは「めざすところ、目当て」となり、目標は「目当て、目印」となっている。う〜ん、ちょっと違うぞとおもう。僕の考えでは目標は、長期プランに基づいたもので、目指すところの大枠である。目的は、短期的なもので、理由付けという意味にも使われる。何かを行っているとき、この目的は、、、という感じで語られることが多い。しかし、この目標はというと意味が違ってくる。
 例を示せば、「人生の目標」「人生の目的」この二つは意味がぜんぜん違う。前者は人生の目指すところであり、後者は何のために生きるのかという意味になる。
 日本語は難しい。しかし、英語はもっと難しい(笑)。

2005/09/28(水) 手紙
 手紙というものを書くことがなくなった。郵政民営化、決まったようなものだが、手紙はダイレクトメ−ルと請求書以外はもらったことが最近はない。
 昔は文通というものがあった。雑誌で紹介されて、そこへ手紙をだす。知らない人と知りあいになって手紙のやり取りをする。そこにロマンがあった。しかし、最近はパソコン、携帯のメ−ルである。そういうサイトもあり、僕の娘などもやっている。
 ラブレタ−というものがなつかしい。高校生の頃もらったことは3度ばかりある。別にもてたわけではないが、ギタ−とかで歌っていると目立つので下級生の憧れみたいなものだったのだろう。もらうのはいいが返事に困った。どこの誰だかわからないのに返事もかけない。結局ごめんなさいという返事をしたような気がする。
 そういえばメ−ルといえば、一日に30件ばかり出会い系、アダルト系のメ−ルがくる。これには参ってしまう。あの手この手で送ってくる。ノ−トンのスパンに順次登録して一括削除しているが、敵もさるもの、微妙にアドレスを変えてくる。
 さて、手紙であるがまっさらな便箋が一冊机の上に上がっている。手紙を書くつもりはないが、メモ用紙代わりである。大事なものはすべてパソコンで作り印刷して出すし、手書きで何かを書くということはなくなった。
 昔、アリスの歌に「終止符」というのがあり、〜左利きのあなたの手紙、右手でそっとなでてみる〜という歌詞だった。陽水の歌にもあった「心もよう」という歌である。いずれにしても手紙にはそこに時間というものが介在した。その時間が大切であり、情緒があったのだろう。メ−ルにはまったくその情緒がない。同じ文字でありながら、それは会話と一緒である。「○○です。例の件、どうなったでしょう」いきなり用件である。それはそれでいいのだが、手紙のように相手を気遣うようなことはまるでなくなった。時代といえばそれまで、やさしさの微塵もない。


 

2005/09/27(火) 昔むかしの物語
 子供の頃、僕は自分が馬鹿なのかと思った。他の子供達と比べて何もかもがへただった。要領が悪かったのだと思う。
 病弱だった僕は、小学校入学が終わった頃に入院した。だからひらがなの書き取りの筆順、足し算引き算の考えた方が標準とちょっと違う。そのことに気がつくのは高学年になってからだ。
 小学校5年生のとき初恋をした。たぶん他の子供達よりもませていたのだろうか、3つ違いの姉がいたので、少女マンガを読んだいたせいだろうか、恋愛については早熟だったのかもしれない。ところが中学一年まで処女という意味がわからなかった。5つ違いの兄に聞くと、そんなこと聞くんじゃないといわれた。なぜ気になったかというと、当時の女性フォ−ク歌手の初めてのアルバムのタイトルが「処女航海」というものがあったからである。性に関してはすごく遅れていた。
 中学2年、スポ−ツの部活をやめて音楽関係の同好会を結成した。それからはギタ−ではじまりギタ−で青春が終わったと言っても過言ではない。もちろんカメラや写真も好きだった。今思えばいい時代であった。
 人生というものを考えた時に、青春が終わった。それからはある意味惰性だったのかもしれない。今でも人生を惰性で生きているような気がする。どうせ一度しかない人生である。いろいろなことをやって生きていこう、興味のあるものはなるべく経験しようという積極的な反面、基本的なところで人生を投げているような気がする。
 器用貧乏という言葉がある。僕の場合はまさにそれである。何をやってもそこそこのところへいくが、反対に何をやっても一流にはなれない。ある程度のレベルへいくと燃え尽きてしまう。

 人生もまさにそうなのかもしれない。これは老化が人より早いぞと考えてしまう。僕の人生は、自分自身の人生に対する傍観者である。ふたりの自分が存在している。一人目の自分が先に死んだとして、もう一人の自分は、冷静に自分の死を見ている。そしてつぶやく「つまらない人生だった」と。

 ということで、本日僕の誕生日である。おめでとうという年でもないし、ただひとつの節目にすぎない。四十数本のろうそくを立てても消すのが大変である。最後は生きた数だけ線香の煙が立つだけである。

 色即是空 空即是色 これまさに真理なり。

2005/09/26(月)
 歌は世につれ、世は歌につれ、、という。最近昔の歌で印象に残っているのをネットで調べてまとめている。20曲くらい選抜した。やはり陽水、拓郎が多いのは仕方がないけれど、不思議なことにあの頃よかった歌が意外とつまらなく感じて、あの頃ぜんぜんいいと思わなかった歌が、この年齢になるといいのである。もっとも中学生や高校生の頃の話、人生がわかるはずもないのであるが、やはり拓郎の歌の作詞を当時担当していた岡本おさみの詩は良いと思う。
 さて、時は流れて今の歌であるが、売れているものはやっぱりいい歌である。川島あいとかを娘が聞いているが、この娘はなかなかいい。ギタ−でコ−ドを探り当て歌ってみると、、時代を感じる。節回しというのだろうか、我々のころとぜんぜん違うのである。なるほど、これが時代というものかと納得した。
 平原綾香の明日という曲がある。この歌は民放のドラマ「静かな時間」というエンディングで使われていた。このドラマの主役の喫茶店のマスタ−の苗字が僕と同じ苗字だったのが記憶に残っている。
 この「明日」という曲は、本来ハ−ブなのだが、ギタ−で何とかしようといろいろといじっている。まぁなんとか雰囲気はできた。それにしても平原の歌はキ−が低い。

2005/09/25(日) お掃除
 家から一歩も出ずに、一日屋根裏の部屋のお掃除である。なんとか片付いた。だんだん屋根裏が自分の部屋になってきた。
 それにしてもカポタストが出てこない。今度の休みに買いに行こうとおもう。
 一日雨だったので落ち着いて掃除と整理ができた。古い本とかをみつけて読み始めるくせがあるのでなかなかはかどらないのだが、今回はそれをクリア−した。
 パソコンとミニコンポをつないで音を出すようにしたし、テ−ブル(座卓)に布のカバ−をかけて机の代わりにして書斎の完成である。たまには掃除もやらないとね(笑)。

2005/09/24(土) 伊達政宗
 伊達政宗を読み始めた。おもしろい。歴史小説は史実を元に著者が味付けしている。だから面白い。作られた小説よりも重みがある。
 思えば、独眼竜政宗というNHKの大河ドラマが放映されていたとき、僕自身TVを楽に見ている余裕がなかった。だから今、寝床で水割りをなめながらペ−ジをめくるとき、わくわくしてしまう。もし大河ドラマを見ていたなら、こんなにわくわくしないだろう。
 一冊105円なり。全6巻、これで一週間は楽しめる。ある意味ではいい時代である。

2005/09/23(金) 憂歌団
 最近は憂歌団にはまっている。ご存知、天使のダミ声のブル−スバンドである。くせがあるのだが、このくせがたまらない魅力である。
 たまにギタ−なんぞを弾くと実に楽しいのだが、カポタストがないため(どこかにあるはずだが、、)、自分の声のキ−がつかめない。気持ちよく歌うためにはやっぱりカポが必要である。
 とにかく今日は音叉がみつかった。A440というやつである。これで基本のキ−はつかめるだろう。一歩前進である。加川良の「教訓T」のアルバムも手に入れたし、なんだか昔に戻っていくみたいであるが、昔のようには歌えない。だからごまかす。ごまかすのがうまくなった。だけどそれを逆手にとれば、なんとか歌える。ただし昔の歌である(笑)。
 
 

2005/09/22(木) 窯焼き
 本日やっと自分の作品を焼きました。酸化焼成なので面倒ではなかったのですが、うっかり灯油を入れなくてはと思いつつ忘れていて1000度くらいあがったところで灯油切れになってしまった。結局600度くらいからやり直したら、12時間の焼成時間になってしまった。ゼ−ゲルがあてにならないので、ほぼ勘で焼いたのだが、長いことやっているので自信はある、、かな?

2005/09/21(水) 孤独
 いろいろな仲間がいて、いろいろなことをして、、、いろいろな人間関係がある。そんな中で、ふと気が付くと、本当は一人ぼっちである。親子、夫婦、これもしかりである。
 昨日の悪い夢が尾をひいているのか、どうも心理状態が悪い。僕自身の悪い癖であるが、まわりがにぎやかに騒ぐほど、自分自身がさめていく。これは子供のときと同じである。騒いでいると、自分の中にもう一人の自分が現れる。そして自分自身をTVドラマのように見せてくれるのだ。
 
 さて、今の自分はどうだろう。冷めて遠くから見つめてみると、これはなんと情けないことだろう。自分自身に問いかけてみる。
 「お前はなんて傲慢でうそつきなんだ、俺は知っているぞ、お前の本心を」と。さてさて困ったものである。こうなると落ち込むぱかり。明るい人生が、とたんに暗くなる。
 趣味が多いわけではない。たいしたことはしていない。本当はもっといろいろなことがしたい。しかしである、お前の本心はどこにあるのだろう。そう考えたときに、はっと気づいてしまう。そうなのだ、死ぬ前に何かを残したい、その一心であることに。
 芸術家きどりの人間は沢山いる。しかし、本当の芸術家はいない。おそらく名を残した芸術家という人たちは、何かから逃れるために作品を残したのではないかと思う。結果としてそれが作品といわれるものになったのだろう。
 
 名もなく貧しく美しく、、という言葉がある。理想である。ただ美しくというわけには行かない。自分の場合は、名もなく貧しく醜く、というところである。つまり何もいいところはないわけである。

2005/09/20(火)
 悪い夢を見た。なんとも後味の悪い夢である。不安で苦しくて夜中にずっとその夢がリフレインした。こんなことは最近あまりなかった。眠ってしまうと一眠りのはずなのだが、、、。
 どんな夢であったかは説明がむずかしい。ただひとついえるのは死に関する夢である。そして、その死を楽しむやつがいるという夢である。もしかしたら女子高生を殺して死体を何度も見にいったという事件のニュ−スを見たせいなのかもしれない。
 死というものを乗り越えるために人間はずいぶん苦労してきている。そしていまだに乗り越えられない。乗り越えられたのはたぶん釈迦だけなのかもしれない。そしてこれを悟りというのかもしれない。

2005/09/19(月) 燃え尽きた後
 月あかりコンサ−トが終わり、半分以上燃焼した頭を充電する意味で、女房のご機嫌取りも兼ねて、ふたりで湯沢のアルプの里に出かける。
 頭の中は夕べの酒が多少残っているのかどうも冴えない。午前中に帰ってきて、午後から家族でジャスコめぐり。娘は小千谷のジャスコにいきたいといい、息子は十日町のジャスコにいきたいといい、どちらもクリアする。
 一日中ボ−っとした一日。家族サ−ビスも大変である(笑)。

2005/09/18(日) 月あかりコンサ−ト
 無事にコンサ−トが終わった。何かを成し遂げた後の充実感はいいものである。今年の月あかりコンサ−トは、前半、空模様を心配したが、なんとか雨も降らずにすんだ。
 最後はコンサ−ト終了後に僕自身が出演してブル−スまでアドリブで歌ってしまった。悪乗りである(笑)。
 この写真は、所属する写真サ−クルの会長が撮影してくれたものである。手前でギタ−を弾いているのが僕である。なかなかかっこよく撮ってくれました。感謝感謝です。
 この後、打ち上げのご苦労会で11時ごろまで飲んでいた。こういうときの酒は文句なしにうまいです(笑)。

2005/09/17(土) 月あかり
 本日は月あかりコンサ−トの準備で照明の調節のために遅くなる。夜にならないとセッティングができないからである。
 考えてみると、若いときからこんなことばかりやっている。コンサ−トのポスタ−とかチケットとか作って、手作りコンサ−トをやっていたのを思い出す。今ならパソコンでちょちょいのちょいと作ってしまうものでも、最初はガリ版刷りまでやっていたのだから、時代を感じてしまう。
 明日の夜は晴れてくれるといいのだが、、、、。

2005/09/16(金) 天気
 本日はさわやかな秋である。初秋というところ。まだ本当の秋を感じるところまでいかないが、季節は確実に回っている。忙しくて季節を感じる余裕がなく、季節に追いついていくのがやっとであるこの頃では、もうすぐ彼岸か来ることに驚いている。
 しかし、よく考えてみると自分の誕生日も近づいている。そして関連して思い出したのだが、5年ぶりの運転免許証の書き換えである。またまたゴ−ルド免許である。ただし5年も経過すると書き換えということすら忘れてしまう。
 

2005/09/15(木) あれ?
 あれよあれよと今月も半ばとなった。もうすぐ稲刈りである。
 子供の頃、稲刈りをよく手伝った。農家の子供はほとんどがそうであったが、農繁期になると手伝うのがあたりまえだった。友達とあそぷ予定も断って手伝ったものである。
 時は流れて、いまどきの農業は子供が手伝う仕事がなくなった。手伝わせたくても子供の仕事がないのである。すべてが機械化されて、その挙句、農機具の支払いのために農業をやっているようなものになった。
 米、農家ではあたりまえのように家に備蓄してある。当然パンというものは高級品である。農家なんだから米を食わなくてはならない。しかしである、米は買うと高い(笑)。もし我が家も米を買うとしたらどうだろう、たぶん朝食はパンになるに違いない。米を買うのもパンを買うのもたいして違わないからである。しかもパンは簡単である。おかずがほとんどいらない。バタ−とかマ−ガリンを用意しておいて、コ−ヒ−かミルクがあれば、とりあえずはいらいない。まぁあっても目玉焼きぐらいのものであろう。
 我が家の朝食は、目玉焼きかベ−コンエッグか納豆。僕自身はこの納豆というものが大好きである。関西の人はにおいをかいだだけで嫌だという人が多いが、僕は食欲を誘うにおいである。
 さて、納豆ばかり食わせるとIQが高くなるといううわさがある。本当かとうかわからないが、味の素を沢山食べると頭がよくなるというのもまゆつばものである。
 

2005/09/14(水) 芸術と生活
 僕の作った土面が、小林名誉教授、県立歴史博物館館長の眼にとまったらしい。絶賛していたという。今度個展をやって教授から見てもらったらという事である。
 「はぁ、、そうですか、、、」と僕はあまり気乗りがしなかった。心の中では、こんなもの誰でも作れるだろうと考えている。そもそもいい加減な自分だから、土器を真似しているより、そのモチ−フを使って、なんか面白いことをやってみたいという乗りではじめたもの。周りが評価してくれればくれるほど僕の心は深く沈む。そんなに高尚なものでもないし、たいしたものでもないと思う。
 この土面で僕が表現したかったもの、それは人間の美しさではない。逆の醜さである。苦しんでいるとき、困っているとき、いろいろな人から浴びせられた罵倒とののしり、そのときの笑い顔を表現したかった。
 今作ると、あのときと同じ感覚では作れない。それは日々僕自身が変わっているからである。あの頃作ったものは人を馬鹿にしたような「笑い」がテ−マだった。縄文という時代は争いがなく、平和だったというのはまずありえないわけだし、フリ−セックスの時代だったとすれば、嫉妬、ねたみ、羨望、あらゆる情感が今の時代よりもすさまじくうごめいていただろうと考えている。
 
 人は喜びと比例して悲しみを持つものだと思う。楽しみと比例して苦しみを持つものだと思う。苦労して成功した人は、二つの道に分かれていると思う。復讐と感謝である。松本清張は恨みと復讐で小説を書いていたのではないかと思う。ほとんどの芸術家はこちらであろう。一生貧乏で、あるいは作品を作り続けなければ生活が成り立たない状況で生涯を閉じた芸術家は数え切れないほどいるだろう。
 安土桃山時代の茶碗に「井戸茶碗」というものがある。多くは朝鮮の陶工が作ったものである。この茶碗には勢いがあり、迷いがない。そして作為がない。なぜそうなのか、、いろいろ勉強したら面白いことがわかった。これを作った朝鮮の陶工たちはみな貧乏である。沢山作って、焼いて売りに出さなければ食っていけないのである。当然勢いが出て作為など微塵もなくなる。子供に米を食わせるためには、土の固まりを早く茶碗に変えなくては生活が成り立たなかったからだろうといわれている。
 
 芸術が評価されるのは、多くは作家の死後である。もうこの作風は2度と作れないとなったときに、価値がぐんぐん伸びてくるのだ。陶芸家の加藤唐九朗などは、あれだけの腕を持ちながら、贋作という事実の前でとうとう正式には評価されなかった。しかし価値のわかる人は当然のごとく評価していた。この人は僕の憧れの人である。ではどうして贋作をと思うが、、生活である。誰でも生活がある。その生活の前では誰でもが罪びととなるのだ。

 ところで、ここに掲載した土面であるが、一枚寄付しないかといわれたのでこの土面を寄付した。「いいですよ、、、(こんなもの)」この括弧の中は口にしなかったが、いつでもこんなもの作れるという気持ちがある。ついこないだまで、体験実習館の外の木にしばりつけて飾っておいたものである。盗まれるからやめたらという声もあったが、別に盗まれてもかまわないと考えていた。本当に盗まれるとしたら本望である。

 日本という国で、芸術が本当に評価されるのは、海外で認められなくてはならない。日本は本当の芸術を評価できる人は少ないと思う。外国で評価されて初めて日本の評論家たちは認めてくれる。

 土面、これはデスマスクであると考えている。死ぬときに苦しんだ人は苦しんだ顔をしているし、安らかな死を迎えた人は安らかな顔をしている。死ぬときのこの瞬間こそ、まさに仏教で言う極楽と地獄なのではないだろうか。
 浄土宗で、罪人でも、南無阿弥陀仏ととなえれば、すべての人々は極楽浄土に行くことができるということは、このことをさしているような気がしてならない。

 次回から念仏を唱えながら、、、、、などと柄にもないか(笑)。
 

2005/09/13(火) 写真
 夜、写真サ−クルの集まり。講師を招いて写真の講評をしていただく。はずかしくて写真が出せなかったが、まずいプリントを見ていただく。
 自信をもったプリントならいいのだが、やっつけプリント、しかも内容もぜんぜんだめ。帰ってきてからキャビネのプリントをすべて捨てた。そこで一句、

恥ずかしい ああ恥ずかしい、恥ずかしい

2005/09/12(月) 暗室
 夕方、時間ができたので久しぶりに暗室にこもる。久しぶりなので勘がもどらない。なかなかいいプリントができない。与えられた時間はあと少し。水洗と乾燥を考えると時間が足らない。結局妥協。
 あまりいいプリントではない。すべてキャビネなのでまぁいいかとまたまた妥協。思えば自分の人生は妥協の連続である。だから生きてこれたのかと納得しつつ、この考え方も妥協であることに気づき、またまた反省(笑)。

2005/09/11(日) 選挙
 朝一番に投票に行く。一日陶芸三昧。そして夜はTVの選挙結果を12時過ぎまで見ていた。一日じゅう雨が降っていた。

 自民党の圧勝。予想どおり。民主党惨敗。これも予想通り。
今日本に求められているもの、それは強いリ−タ−ではないだろうか。小泉政権はそういう条件を満たしている。しかし、全国の郵便局は半分になるだろう。

 社会主義政権はすべてだめである。会社や団体の労働組合は、不景気と比例して力がなくなり、会社にとっては福利厚生団体となり、忘年会、新年会の幹事団体となってきている。

 会社がなくなれば労働組合もなくなる。これは既成の事実である。リストラされても何もいえない労働組合に社会主義政党を支持する力はもはやないのだろう。

 日本という国がこれからどこへ向かうのか、これまた見えない。政治のことはよくわからないが、鈴木宗男が北海道でまた当選した。地元還元を地でいく政治家の代表。そりゃ地元の人間は入れたくなるだろう。これもわかる。しかしそれはそれでいいとして、日本全体を考える政治家は、衆議院の中で何人いるのだろう。
 
 衆議院議員とは日本全体を考える議会である。僕自身は2大政党を望んでいる。政権がとれる野党、政権を動かせる野党に育ってほしい。民主党にそれを望むのは無理なのだろうか。

 選挙がおもしろくなるということは年をとった証拠と誰かが昔言っていた。これはあたっている。

2005/09/10(土) またまた祭り
 友人宅にて祭りである。夜中の3時まで飲んでいて、帰ろうとしたらタクシ−が品切れ、結局泊めさせていただく。
 
 祭りは懐メロ大会みたいなもの。ギタ−ありカラオケありである。終戦後の歌がパワ−があっていいということで一致。最後は落語まで登場。なかなかみなさん芸達者である。

 
 翌朝、女房が迎えにくる。こんなときは感謝感激雨あられである。本日寝不足。しかし後半あまり飲まなかったので二日酔いはなし。まぁまぁの体調である。我ながら酒の飲み方がうまくなったものだと思う。マイペ−ス、飲み会にはこれが一番大事なことである。

2005/09/09(金) 有孔鍔付土器
 またまた変な土器を作り始めた。今度は太鼓である。有孔鍔付土器というもので専門家とか物好きなら、ああ、あれかとうなづけるのだが、普通の人はわかんね−だろ−な。
 簡単に言うと、口縁部に鍔と孔のあいた土器、、なおさらわかんないか。たぶん太鼓を作ったんではと言われている。ということで、土器の上に皮を張って太鼓を作ろうというもの。たぶんこの地域でこんなもの作るのは僕が初めてではないだろうか。とにかく3日で完成した。

2005/09/08(木) イラストレ−タ−
 アドビにイラストレ−タ−というソフトがある。バ−ジョンは最新のもので12になっているが、今のところ僕のは10である。最新にしても、価格も高いし、正直なところ使いこなせない。
 このソフト、ペンツ−ルで自由自在に絵がかければいいのだが、なかなか大変である。ぼちぼち練習しているが、根気がなくてなかなか自由自在というわけにはいかない。
 今回、CDのラベルを依頼されて作ってみた。いくつものパタ−ンを作って選んでもらう予定である。また余計な仕事を引き受けてしまったが(笑)。

2005/09/07(水) 台風が去って
 台風が無事通り過ぎた。一時期風が強かったが、こんなものならまぁいいほうだろう。天災の前では人類は無力である。アメリカのカトレ−ナでそのことを感じた人は多かったと思う。世界最強の国におそいかった天災、この前で軍人ブッシュは手も足も出なかった。
 自然界において、人間は草むらの蟻のようなものである。それでも必死に働いている。キャンプに行った時など、ひまなものだから蟻をボ−っと見ていると、こいつらに感情はあるのだろうかと考えてしまう。
 怒りや悲しみがあるのなら、それはかなりつらいことである。そんなことを考えるのはキャンプの時くらいであるが、イソップ童話だったかな?「蟻とキリギリス」の寓話があった。これをじっくりと考えた。遊んで音楽ばかりやっていたキリギリスは、寒風の中、アリさんたちの家を訪れる。そして助けてもらう。
 ところがこの話、無理がある。たとえアリが今助けてやっても、とうていキリギリスは冬は越せない。ということはどういう事かというと、アリ達にしてみれば、自らおいしそうな餌が飛び込んで来たことになる。しかも音楽家だから退屈な冬のリクレ−ションにはもってこいである。
 音楽を聴きながら、大いに楽しんで、その挙句、この音楽家は最後の冬を乗り切るための餌になる。これはもちろんアリさんたちにすれば歓迎してくれるわけである。まったく、なんと残酷な話であろう。

2005/09/06(火) 時計の針
時計の針は戻せない
たとえあなたが許しても
たそがれの中、歩いても
先に見えるのは深い闇

君の事愛してるって言ったけ
忘れてしまう台詞でも
背負い続ける重い十字架

 最近作っている歌の歌詞である。
不倫、この言葉が流行った時期がある。あの頃から日本はおかしくなった気がする。トレンディな言葉として流行語にもなったし、歌にもなったがどこかおかしい。
 よく読めば不倫という言葉、倫にあらずである。
では倫とは何かである。難しいことはよくわからないし、辞書を引くのも面倒なので、自分なりの解釈ではあるが、人間として当然あるべき姿ではないかと思う。
 ということは人間として、してはならないことだと思う。してはいけないことだと思う、、、、。
 間違いには許されるものと許されないことがあることを知るべきだと思う。僕は女房を裏切れない。なぜなら共に苦労してきた同士だからである。
 
 確かに結婚は愛によって結ばれるが、それを深めていき育てていかなくては続かない。結婚して17年、この長い年月は、単に愛していたというだけでは続かないのである。
 結婚しても子供を作らないという考え方がある。それもひとつの生き方かもしれない。しかし子供はかわいいものである。たとえチンチンに毛が生えて、声変わりした声で「親父」などと呼ばれても、やはり子供なのである。
 子供の寝顔に感謝するときがある。そしてこう言う「親にさせてもらってありがとう」と。

2005/09/05(月) 台風と雪と放射能
 この地方では、台風の被害は少ないほうである。逆に雪が降る。これは真ん中にある山が問題である。苗場山、八海山系列である。
 太平洋から台風を拒んでくれるかわりに、北からの寒気団がきた場合停滞する。そして冷たい風だけ関東に運び、関東のからっ風となる。そして雪だけをこの地方に落としていく。
 ただし、たまには台風もくる。伊勢湾台風のときはこの地方もひどかったらしい。この地方の建築様式にせいがい作りというものがある。このつくりは台風に弱い。下からの風にあおられると屋根が飛ばされることがあるらしい。伊勢湾台風のときは、何軒かが屋根を飛ばされた。朝目が覚めたら屋根がなくて、となりの田んぼの中に屋根が落ちていた、、という漫画みたいな話が本当にあったらしい。

 率から言えばひどい台風がくるのは何十年に一回くらいなのだろう。それよりも毎年の雪のほうが気にかかる。雪がおちるということはどういうことかというと、放射能もこの地方に落ちるということである。
 この地方の北にあたるところに柏崎、刈羽原子力発電所がある。ご所存知のように東京に送るための発電所である。つまり東京近辺に原発を作ったら危険だということで、わざわざコストをかけて新潟に作ったのである。電気を送るための鉄塔が一基一億円かかっているらしい。それが柏崎、東京間を結ぶのに何本いるのだろうか。

 放射能は、雪とともに飛来し、そして雪と一緒に落ちてくる。つまり、もし柏崎、刈羽原子力発電所が北朝鮮のミサイルにやられた場合、間違いなくこの地方に放射能が降るということである。これは大変なことである。
 この町から柏崎まで車で2時間くらいかかるが、直線距離にしたら、とんでもなく近いということを忘れてはいけない。もしも事があった場合には、一時間かからずにこの町に放射能の雨が降るということである。

 魚沼こしひかりのプレミア米は全滅である。放射能汚染のうわさがどれだけ被害をもたらしたかは、茨城県の例でもあきらかのように、この地方の農家は間違いなく食べていけなくなるだろう。そうなると収入の道は閉ざされるから、この町には誰もが住めなくなる。最終的にはゴ−ストタウンと化すということである。

 これは大変なことである。チェルノブイリは遠い国のお話かもしれないが、現実にありえる事実としてこの町の人間は危機感を持たなくてはならない、と思うが、ないんだよなぁ、、危機感が(笑)。

2005/09/04(日) 西日
 初めての東京での一人暮らし、僕は不安の中でこのアパ−トを探した。知人の紹介で見つけてもらったものだが、月々の家賃と敷金を入れて予算に近いものが一番の条件であった。つまり便利さや環境よりも家賃の安さを優先したわけである。
 やっと見つけた看板とその建物の外観は、まるでタイムカプセルから降りてきたようなふた昔前のたたずまいであった。
 大家さんはとなりの家で、老夫婦の二人暮らし。挨拶が済むと早速僕の住むべき部屋に案内してくれた。その部屋は方向からいうと西日が射す部屋であった。そのせいか畳みも色あせて、不思議になつかしいような思いでせつなくなったのを覚えている。
 流しが備え付けられた6畳の部屋、トイレは突き当たりの廊下の隅にある。つまり共同である。風呂などというものはもちろんない。歩いて5分のところに銭湯があり、そこを利用するように薦められた。まるで「神田川」の世界である。
 さて第一日目、まずは常識的に両隣の部屋にタオルを持って挨拶にいく。部屋に向かって左の部屋は独身の女の人で、何の仕事をしているのか、ちょっと暗い感じのする人だった。そして右側の人は、地方出身の浪人なのだろうか、とにかく若い男の人である。
 まぁそうした環境の中で僕の一人暮らしが始まったのであるが、日中は学校、夜は仕事であったから、ほとんどこの部屋は眠りに帰ってくるようなものであった。
 ある時、隣の女の人と玄関でばったりと出くわした。何を話していいのかわからなかったが、大家さんから聞いたのだろう、僕が新潟出身と知って、親しげに声をかけてきた。彼女は山形出身だという。彼女は暗いというイメ−ジが強かったせいか、中島みゆきにちょっと似ていた。
 それからは会うたびに挨拶を交わすようになった。妙なものである、大都会の隅で生きていると、地方出身というだけでなんとなく心が開けるものである。彼女が何の仕事をしているか最後まで知らなかったが、田舎から送ってきた僕の荷物を預かってくれたりした。そのたびにおすそ分けで、田舎のものをお礼がわりに渡したものである。そのときの彼女の顔は本当にうれしそうであった。
 あのアパ−トでの4年間は僕の人生の中では異質の時間である。連続した時間の中で、その4年間のアパ−ド生活だけが浮いているのである。たとえば、その4年間がなかったとしても、僕の人生は連続してつなぎあわせることができるといえばいいのだろうか。
 田舎に帰るとき、がらんとして何もなくなった部屋がやけに広く感じた。そして西日に焼けて黄色くなった畳の色だけが、僕の一生の中でのアパ−ト暮らしの象徴として、いつまでも記憶に残っている。
 帰るとき、隣の女の人に挨拶に行ったが留守であった。結局何も挨拶しないで帰ってきたのだが、いずれにしても印象の薄い女の人であった。
 
 2年ほど前、研修会で東京へ行った時、時間があったのでアパ−トのところに行ってみた。アパ−トは跡形もなく消えていた。もともと老朽化していたし、大家さんも年老いていたので、もしかしたらと思っていたが、やはりという感じである。 角にあった八百屋さんはコンビニに変わっていて、あの頃の面影を残すようなものは何もなくなっていた。
 
 あの4年間には彼女というべき女もいたし、職場の仲間も沢山いたわけであるが、不思議にあのアパ−トに彼女や知人を連れていったことは一度もない。 
 あのアパ−トは僕の記憶の中で確かに存在しているのである。それを知っているのは、今でも僕の布団の横で丸くなって眠っている19歳のシャム猫の「チンタ」だけである。
 

2005/09/03(土) まつり
 本日は我が家のお祭りである。やはり今年も酒を飲んで終わった。毎年のことではあるが。
 今年のお祭りはスペシャルゲストが加わった。加わったのは前半戦から後半戦に切り替わる頃、終了は夜中の3時、いつのまにか寝ていた。
 このスペシャルゲストの中に、花の女子高生が二人加わっている。やはり若い、キャッキャッと笑うところが花の女子高生。その女子高生につられて僕もやたらとギタ−を弾きまくったため、本日パソコンのキ−ボ−ドを打つ左指が痛い(笑)。
 中学生のとき、祭りで3時間歌いまくったことがある。もちろん曲は拓郎の「人間なんて」。歌詞はすべてアドリブである。みんなが好き勝手に歌いまくる。それでも指が痛いと感じたことはなかったのだが。やはり弾きこんでいないと駄目なようである。
 祭りはいいのだが、後片付けがいやである。さわぐパワ−と比例して後片付けも大変になる。要するに頭の中にアルコ−ルが残っているのである。しんどい。もっともあのメンバ−の中で本日仕事という人たちも混じっているのだから恐れ入ってしまう。

2005/09/02(金) 物があふれて
 長年生きていると物があふれてくる。本、CD、カメラなどなど。だからといって捨てるのはもったいない。
 と言いつつBook Offからまた本を買ってくる。また増える。そろそろトレ−ドに出すことを考えなくてはいけない。
 若いときは本に埋もれて生活するのが夢であったが、今はそんなことはやろうと思えばできる。だけどそんな馬鹿なことはしない。
 
 よくよく考えてみると、夢と物は反比例しているのではないだろうか。物がないときには夢があった。しかし物があふれているときには夢がない。これは自分だけではなく、現代の日本にも当てはまる気がする。今の日本には夢がない。
 あの中越地震のとき、ぐらぐらと揺れる中、こりゃもうだめだ、家がつぶれる、ゼロからのスタ−トをしなくてはいけないと不思議と冷静に考えていた。何もかもなくなることを瞬間ではあるが望んでいたのかもしれない。いってみれば開き直りである。
ただ、命がなくなることはこれまた不思議と考えていなかった。今考えれば、何もかもの中に命も含まれていたのかもしれない。

2005/09/01(木) フォトショップの加工
最近は僕も、銀塩派からだんだんデジタル派になってきたような、、、。
さて、アサカメの7月号にフォトショで作るモノクロ加工術が載っていた。元画像は情報量の多いカラ−画像であるが、このやり方を完全にマスタ−したいと思い、試行錯誤、なんとかやってみたのが下の画像である。杉の木の陰でつぶれた部分を明るくしただけなのだが、それだけだと他のやり方もある。しかしより自然に間違いなくという点でこのやり方は優れている。

とにかくアンセン・フダムスのように自由自在にモノクロ画像を作るという優れものである。へぇ〜こんなやり方があったんだという思いである。
フォトショップ、現在ではCS2が最新版であるが、古いフォトショでもこれはできる。

デジタルであろうが、銀塩であろうが、モノクロはなくならないというがはっきりしてきた。これはうれしい限りである。ただ、写真屋さんやミニラボの一番儲かるところがなくなってきた。つまり、カラ−ネガである。L判もしくは2L判だとデジカメで十分だということである。しかもユ−ザ−はフィルム代とフィルム現像代がいらなくなる。
銀塩で残るのは、モノクロのビンテ−ジプリントとカラ−ポジのみということになるだろう。

しかもこのフォトショを使えば、葬式写真などは簡単に合成できる。めったにやることはないが、不幸ができたとして、通夜の最中にパソコンで加工、加工済みデ−タを持っていれば印刷にしろ、写真にしろすぐにできてしまう。
これまた写真屋さんが儲からなくなってしまうが(笑)。


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