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2005/09/04(日)
西日
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初めての東京での一人暮らし、僕は不安の中でこのアパ−トを探した。知人の紹介で見つけてもらったものだが、月々の家賃と敷金を入れて予算に近いものが一番の条件であった。つまり便利さや環境よりも家賃の安さを優先したわけである。 やっと見つけた看板とその建物の外観は、まるでタイムカプセルから降りてきたようなふた昔前のたたずまいであった。 大家さんはとなりの家で、老夫婦の二人暮らし。挨拶が済むと早速僕の住むべき部屋に案内してくれた。その部屋は方向からいうと西日が射す部屋であった。そのせいか畳みも色あせて、不思議になつかしいような思いでせつなくなったのを覚えている。 流しが備え付けられた6畳の部屋、トイレは突き当たりの廊下の隅にある。つまり共同である。風呂などというものはもちろんない。歩いて5分のところに銭湯があり、そこを利用するように薦められた。まるで「神田川」の世界である。 さて第一日目、まずは常識的に両隣の部屋にタオルを持って挨拶にいく。部屋に向かって左の部屋は独身の女の人で、何の仕事をしているのか、ちょっと暗い感じのする人だった。そして右側の人は、地方出身の浪人なのだろうか、とにかく若い男の人である。 まぁそうした環境の中で僕の一人暮らしが始まったのであるが、日中は学校、夜は仕事であったから、ほとんどこの部屋は眠りに帰ってくるようなものであった。 ある時、隣の女の人と玄関でばったりと出くわした。何を話していいのかわからなかったが、大家さんから聞いたのだろう、僕が新潟出身と知って、親しげに声をかけてきた。彼女は山形出身だという。彼女は暗いというイメ−ジが強かったせいか、中島みゆきにちょっと似ていた。 それからは会うたびに挨拶を交わすようになった。妙なものである、大都会の隅で生きていると、地方出身というだけでなんとなく心が開けるものである。彼女が何の仕事をしているか最後まで知らなかったが、田舎から送ってきた僕の荷物を預かってくれたりした。そのたびにおすそ分けで、田舎のものをお礼がわりに渡したものである。そのときの彼女の顔は本当にうれしそうであった。 あのアパ−トでの4年間は僕の人生の中では異質の時間である。連続した時間の中で、その4年間のアパ−ド生活だけが浮いているのである。たとえば、その4年間がなかったとしても、僕の人生は連続してつなぎあわせることができるといえばいいのだろうか。 田舎に帰るとき、がらんとして何もなくなった部屋がやけに広く感じた。そして西日に焼けて黄色くなった畳の色だけが、僕の一生の中でのアパ−ト暮らしの象徴として、いつまでも記憶に残っている。 帰るとき、隣の女の人に挨拶に行ったが留守であった。結局何も挨拶しないで帰ってきたのだが、いずれにしても印象の薄い女の人であった。 2年ほど前、研修会で東京へ行った時、時間があったのでアパ−トのところに行ってみた。アパ−トは跡形もなく消えていた。もともと老朽化していたし、大家さんも年老いていたので、もしかしたらと思っていたが、やはりという感じである。 角にあった八百屋さんはコンビニに変わっていて、あの頃の面影を残すようなものは何もなくなっていた。 あの4年間には彼女というべき女もいたし、職場の仲間も沢山いたわけであるが、不思議にあのアパ−トに彼女や知人を連れていったことは一度もない。 あのアパ−トは僕の記憶の中で確かに存在しているのである。それを知っているのは、今でも僕の布団の横で丸くなって眠っている19歳のシャム猫の「チンタ」だけである。
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