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2006/10/04(水)
ギタ−貧乏物語 その一
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今でこそ中古だろうが中国製だろうが、ギタ−なんぞは簡単に手に入るようになったが、昔はギタ−は高級品。親にねだるのもそう簡単にはいかなかった。僕の場合は兄や姉がいたからまだいいほうで、欲しくても買えない友達は夏休みの工作でギタ−もどきを作ってしまった。材料はそのへんに転がっている端材なので、恐らく杉だとおもうが、ボディは見事に本物のベニア。ネックのフレッドは釘を叩いて平らにしたもの。スチ−ル弦は張れないのでガット弦じゃなくて・・ナイロン弦。一応音は出た。ドレミファソラシドはなんとかできた。ただしチュ−ニングはいい加減。キィは当然ながらかなり低い。 この友達は後に転校していくことになるが、僕の家にあるギタ−を参考にするために毎日のように遊びに来た。彼は河原者といわれた家族で、工事を渡り歩く親父の息子だ。その頃の子供達にも当然いじめはあり、この友達はいじめられた。もちろん今のような陰湿ないじめではないが。僕はそういうことには無頓着であり、むしろそういう子ども達のほうが本当の友達だったような気がする。 帰りが遅くなると僕の家族は夕飯を一緒に食べていけと勧めたし、おやつなども一緒に食べた。彼にとって我が家は居心地のいい場所だったのだろう。 転校していったのは小学校6年生のころだったと思う。彼にはふたつ下の妹がいて、けっこうかわいかった。この兄妹と一緒によく遊んだ。この妹が歌がうまくよく音楽の教科書に載っている歌を唄っていた。兄妹ともに音楽が好きだったのだろう。 夕方、すぐ近くの信濃川の河原で真っ赤に燃える空を見ながら3人で山田耕作の「赤とんぼ」を唄った。僕としては一番叙情的な思い出である。 転校する前日、家族全員で我が家に挨拶に来た。お袋はすぐに台所に引っ込むと、布袋に包まれた重い物を渡した。たぶんそれは米だったのだと思う。 翌朝駅に見送りに行くからと汽車の時間まで聞いたのに、なぜか僕は行かなかった。どうしてなのか今は思い出せないが、なんとなく見送ることが恥ずかしかったのかもしれない。 今、自分がギタ−のリペアなどと称して、素人修理をやっているとき、ふとあの兄妹を思い出すのだ。あいつらは今どうしているのだろうかと。手先が器用だった兄、歌のうまかった妹。この二人は僕の思い出の引き出しの奥に大切に納まっている。特にかわいかった妹の面影は初恋のような甘酸っぱい思い出として残っている。見送りに行かなかったことも、後ろめたさとして心に残っている。 稲刈りの終る頃の季節、ちょうど今頃の夕焼けの空を見るとあの子の唄った「赤とんぼ」の歌が聞こえてくる。
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