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2006/06/30(金) ともだち 11
 彼はしばらく考えていた。ディスプレイには何も表示されなかった。その間僕は今までに経験したことのない気持ちになっていた。悲しい・・それと違う。もっともっと大きな言いようのない悲しみである。自分の子供が自分より早く死ぬ。こんなことはありえないのだ。大学受験を控えていままでがんばってきたのに・・何ということだろう。
 そんなことを考えながらしばらくたつと、いつのまにかディスプレイに新しい文字が表示されていた。

「キミノコドモヲタスケルコトガデキルカモシレナイ」

 僕は自分の目を疑った。そんなことが可能だろうか。

「ボクタチノホシデハエネルギ−ヲキョウユウスルコトガデキル、キミタチニツカエルカドウカハワカラナイガ、ヤルダケノコトハヤッテミヨウ」
「タノム、モシデキルノナラタノム」

 僕は必死の思い出彼に頼んだ。

つづく

2006/06/29(木) ともだち 11
 その日僕の携帯に女房から電話がかかってきた。息子が交通事故で病院に運ばれたという。僕はすぐに病院に車を走らせた。
 息子は集中治療室だった。女房が廊下で座っていた。状況を聞くと、トラックの居眠り運転である。。歩道を歩いていた息子のところに突っ込んできたらしい。意識不明の重態だという。
 それから2日間僕と女房は付きっ切りであった。とりあえず交代で自宅に戻ることにした。女房を先に自宅で休ませると、僕も3日ぶりで自宅に帰った。
 自宅に帰ると、まるで力の抜けた人形のようになり屋根裏に上がった。パソコンが自動的に起動した。

「ドウシタノダ、ナニカアッタノカ・・・・」

 僕はしばらく放心状態でディスプレイを見ていた。とてもパソコンのキ−ボ−ドを叩く気になれない。するとまたディスプレイに表示された。

「トテモツカレテイルミタイダネ・・」

 僕はやっとパソコンのキ−ボ−ドを打ち始めた。

「ムスコガジコニアッタ・・シニソウダ」
「シニソウ・・・・?」
「ソウダ、イノチ・・ツマリセイメイエネルギ−ガナクナリソウダ」
「ムスコヲアイシテイルノカ?」
「アイシテイル、デキルコトナラボクノエネルギ−ヲスベテムスコニアゲタイ」
「・・・・・」

つづく

2006/06/28(水) ともだち 10
 やがて冬が来た。この地域は日本有数の豪雪地である。一面の雪景色はすべてを覆い隠してくれる。彼は窓からその雪景色を眺めていたようである。

「スバラシイ、コノホシハ」
「ユキガメズラシイノカ?」
「ウチュウニハイロイロナホシガアル、デモソレハコオリノホシダ、ユキトイウケッショウハアマリナイダロウ,キレイダ・・・」
「・・・・」

 彼が急に書き込まなくなったので、彼が泣いているということを感じた。宇宙人でも泣くのかと不思議に感じたので聞いてみた。

「ナイテイルノカ?」
「ナク?チガウ、ボクハナカナイ、タダカンドウシテイルダケダ、カンドウスルトイウモノハボクタチニモアル」
「ユキニカンドウシテイルノカ」
「モチロンダ、スバラシイ、ボクハコノホシニタドリツイタグウゼンニカンシャスル」
「コンナユキハボクハキライダ」
「ナゼ?」
「マチガ、ヒトガスベテトマル」
「ソレハイイコトダ、ヒトハトキニトマルコトガヒツヨウダ」
「キミニハワカラナイトオモウ、コノユキノオカゲデボクタチハズイブンソンヲシテキタ」
「ソン、ソントカトクトカヲカンガエルト、コノユキハフリヤムノカ」
「フリヤムワケガナイサ、デモイヤダ」
「ナゼコノホシノヒトタチハ、ソウヤッテソントクヲカンガエルノダ、イマアルジョウキョウヲソノママウケイレレバモットシアワセニナレルハズダ」
「・・・・・ソウダナ・・キミノイウトオリダ、ユキヲキレイダトオモウキモチハ、ボクモコドモノコロニハアッタナァ・・・・イツノコロカラダロウ、ユキガキライニナッタノハ・・・」

 僕は不思議な思いがした。たしかに逃れられない運命をぼやいてみても仕方ないのだ。子供のとき、雪はきれいだった。それがいまでは雪景色をしみじみ眺める余裕もなくなっている。いつの頃からだろう、雪をきれいと感じなくなったのは。

つづく

2006/06/27(火) ともだち 9
3年が過ぎた。僕の息子もいよいよ大学受験を控えていた。勉強の中でどうしても分からないことが出てくると息子は僕に聞いてきた。もちろん僕に分かるはずはない。僕の友達に塾の先生がいるからと嘘をついては、屋根裏に上がり、彼に聞いた。彼はすべて答えてくれた。もちろんまた聞きのその説明を息子にするためには僕自身もかなり勉強をしなくてはいけない。
 毎日が充実していた。彼はあきらめるということを知らないらしい。また彼の星ではそういう言葉はないという。その頃僕には悩みがあった。お金である。息子を大学に行かせるためには、かなりのまとまった金が必要である。そのことを彼に告げた。

「オカネ、オカネガヒツヨウナノカ?ソレナラツクレバイイヨ」
「カンタンニツクレルヨウナモノデハナイヨ」
「コノホシデハ、ハタラケバイクラデモツクレルダロウ」
「イチドニマトマッタカネガイルンダ」
「カリテカエセバイイ」
「デモタイヘンダヨ、シャッキンハ」
「カエセルカノウセイカセアルジャナイカ」
「カノウセイ?」
「ソウ、カノウセイダ、キミニハカノウセイトイウブキガアル、デモボクニハカノウセイトイウブキガナイ」
「ジブンノホシニカエレナイトイウコトカ」
「ボクノエネルギ−ハ、コノホシデハアトニネンダロウ」
「・・・・・」

 僕は突然言い出した彼自身の寿命について唖然とした。永久にこの星では生きられるものと考えていたからだ。

2006/06/26(月) ともだち 8
 不思議だった。彼が僕の家の屋根裏に住み着くようになってから、毎日がとても楽しかった。
今まで大変だと考えていたことは、実は大した事ではないと思えるようになった。宇宙といとうとんでもなく広い世界があり、その片隅に銀河系、太陽系、そしてとんでもなく小さな地球という惑星の中の、さらに小さな国、日本。そんな中に住んで、くよくよと悩むことが馬鹿らしくなってきたのだ。
 毎日仕事から帰るとまずパソコンで会話をした。宇宙というとんでもない世界を彼は説明してくれた。それは実に楽しいことだった。彼と僕とは友達になった。いままでのどんな友達よりも彼は素晴らしかった。僕の悩みはすべて受け入れて、実に的確なアドバイスをしてくれた。
 彼も話し相手が僕しかいないことをよく理解していた。彼自身の悩みは自分の星に帰れないことだったが、彼は一度もそんな話はしなかった。彼はこの星のことにとても興味をもっていた。僕は家中にある本を屋根裏に上げた。子供たちの教科書、参考書はもちろんだが、彼がリクエストした本は、できるかぎり図書館から借りてくるようにした。やがて彼はこの星の人間のようになった。

つづく

2006/06/25(日) ともだち 7
 それからの僕の毎日は、このわけのわからない宇宙人とのパソコンを通じての会話が楽しみになっていった。彼もまた同じらしく、屋根裏にある本を読んだ知識でしかないが、充分に会話ができるようになった。
 仕事から帰るとまずすることはパソコンとの対話であり、最近では悩みなども彼に打ち明けるようになった。
 彼によれば、この星に住む人間は下等であり、戦争という殺し合いは永久に消えることはないという。それは人間という生物の性であるらしい。争うこと、殺しあうことは冷静に考えれば、何の得にもならないにもかかわらず、長い歴史の中で繰り返されている。これは下等の生物の特徴であると言うのだ。これには僕も何も反論できなかった。
 あるとき疑問に思ったことを聞いてみた。

「キミハナニヲタベテイキテイルノダ」
「ボクハトウブンハナニモタベナイデイキテイケル、ボクノカラダノナカニハ、エネルギ−ヲタクワエルキノウガアル、ダケドイズレハナクナルダロウ」
「エネルギ−ガナクナッタラキミハシヌノカ?」
「コノホシノコトバデハソウイウコトニナル」
「コノホシデナニカキミノエネルギ−ニナルモノハナイノカ?」
「ザンネンナガラナイ」
「・・・・・」

 僕はそれまでに彼に迎えが来てくれることを祈った。

つづく

2006/06/24(土) ともだち 6
 いつものように仕事から帰ってくる。すべての家事をすませて、やっと屋根裏に上がれる。屋根裏に上がり電気のスイッチを入れる。何も変わっていない。変わったのはパソコンの電源が自動的に入り、黒い画面が自動起動することである。

「オカエリ」
「タダイマ、イマカエッタヨ」
「ゴクロウサマ、キョウハイロイロナコトガワカッタヨ、ココニアルホンヲスベテ、デ−タトシテインプットシタ」
「ココニアルホンヲ、イチニチデヨンダノカ!」
「スベテヨンダ、レキシノホンガオモシロカッタ」
「レキシ?」
「ソウ、カコニナンカイカボクトオナジナカマガコノホシニオトズレテイルヨ」
「ダレ?」
「ニホンデハ、カグヤヒメ」
「アレハホントウノコトナノカ?」
「ホントウノコトダヨ、タケノナカカラウマレタトイウコトハウソダケドネ」
「ソレジャカグヤヒメハウチュウジン?」
「キミタチノホシカラミレバ、ソウイウコトニナル」

 しばらくはそういうやりとりが続いた。いろいろと聞いてみてわかったことは、過去に不思議な現象というものは何回かおきていて、それはすべて宇宙人のしわざであるということである。
 まずどうして彼等は地球にたどり着いたのかは、よくわかっていないが、いわゆる宇宙観光の途中で重力コントロ−ルが故障したためではないかと彼は言った。今回も彼は観光の途中であったらしい。大気圏突入で自動的に重力コントロ−ル自動制御が作動するのだが、かみなりの電気エネルギ−にぶつかり、一時的に自動制御装置が誤作動したためらしい。

つづく

2006/06/23(金) ともだち 5
 翌朝目が覚めると、女房が隣で寝ていた。
「おはよう、いつ帰ってきたんだい?」
「夜中の2時ごろかしら。ごめんね、何から何までまかせちゃって」
「かまわないさ、こんなときは。それよりもおふくろさんの具合はどうなんだい?」
「一応小康状態、まだなんともいえないけど、年が年だからねぇ」
「そうか、こっちは大丈夫だから、やるだけのことはやってあげなよ」
「ありがとう」

 僕は布団から出ると子供たちの朝食の支度を始めた。昨日はハムエッグだったので今朝は納豆である。支度をしながら考えた、面白い夢を見たものだと。
 子供たちを送り出すと僕も仕事の支度を始めた。まてよ、まさか。僕は屋根裏に上がるとパソコンを起動した。パソコンは素直に起動した。やはり夢だったんだと安心した矢先だった、突然パソコンのディスプレイが真っ黒になった。そして次の文字が浮かび上がった。

「オハヨウ」

 やはり夢ではなかった。これは現実である。僕もキ−ボ−ドを叩いた。

「オハヨウ、ヤハリユメデハナカッタンダネ、キミハホントウニソコニイルノカ?」
「マダウタグッテイルノカ、ボクハコレカラドウシタライイ?」
「ココニイタライイ、タブンエイガヤテレビナラ、イズレキミヲムカエニクルダロウ」
「ホントウニキテクレルダロウカ」
「タブン」
「タブン・・・・・?」
「ボクハコレカラシゴトダ、ヨルマデマッテイテクレ」
「ワカッタ」

 僕は階下に降りると仕事に出かけた。車の中で考えた。もはや疑うべきものは何もない。ないが、もしかしたらいたずらでからかっているのではないかとも再び考えた。しかし、それはない。なぜなら電源が昨夜からつながっていないはずだ。電源コ−ドは今朝も入れていない。

つづく

2006/06/22(木) ともだち 4
 僕は夢をみているのではないかと思った。これと同じような夢を子供の頃にみたことがある。落ち着かなくてはと思い、横にあった焼酎の水割りを飲んだ。するとかたかたと隣のキ−ボ−ドが音を立てた。

「イマクチニイレタモノハナンダ」
「ショウチュウダ」
「ソレハナンダ」
「アルコ−ルのハイッタヤスイノミモノダ」
「ヤスイトハドウイウイミダ」
「キミニオシエルノハムズカシイ、コノホシノキマリノナカデテニイレヤスイノミモノダ」
「ワカッタヨウデワカラナイ」

 僕はだんだん恐怖が消えて、おかしくなってきた。宇宙人に向かって焼酎の説明は難しい。僕はそんなことよりも本当に彼が隣にいるのかを確かめてみたくなった。

「コノノミモノヲセツメイスルノハムズカシイ、ソレヨリホントウニキミガソコニイルコトヲショウメイシテミセテクレ」

 すると、パソコンの隣の柱に下がっているデジカメ用のケ−ブルがかたかたとゆれ始めた。

「キミガソコニイルコハワカッタ、シカシキミハコレカラドウスル、ジブンノホシニカエレナクナッタノダロウ」
「コマッテイル、シバラクハココデカンガエサセテクレ」
「ワカッタ」

 僕はこれからどうしたらいいのかを考えた。こんな話は誰も信じてはくれない。僕はこれが夢ならこれで終わりだと思い、わけのわからない宇宙人に別れを告げると布団の中に入って眠った。これからみる夢が現実なんだろうなぁと思いながら。

つづく

2006/06/21(水) ともだち 3
 返ってきた文字を見て僕はびっくりした。間違いなく誰かがアクセスしてきている。僕は再びキ−ボ−ドの叩いた。そしてしばらくはやり取りが続いた。

「キミハナニヲモクテキニアクセスシテキタ?」
「ボクニモクテキハナイ、ボクハコマッテイル」
「ナニニコマッテイル?」
「ボクハカエレナクナッタ」
「ドコニカエルノダ?キミハドコカラアクセスシテキテイル?」
「シツモンハヒトツニシテホシイ、カイセキガムズカシイ」
「ヒトツズツシツモンスル、キミハイマドコニイル?」
「トナリニイル」

 僕はのけぞりそうになった。同時に全身が寒気がした。つまり今となりでキ−ボ−ドを叩いているというのか。恐る恐る右側を見た。しかし誰もいない。しかし、そこに誰かがいるという事になる。しばらくしてから僕はまたキ−ボ−ドを叩いた。

「コチラカラハキミハミエナイ?ナゼダ?」
「コノホシノヒカリのハチョウデハボクハミエナイ」
「トイウコトハ、キミハウチュウカラキタトイウノカ?」
「ソウイウコトニナル、ボクハトツゼンコノホシニヒキヨセラレタ、キガツイタラココニイタ」
「コチラモヨクワカラナイコトダラケダ、ナゼコノパソコンヲツカイコウシンガデキルノダ」
「サキホド、コノパソコンノナカヲカイセキシタ、ムズカシイゲンゴがオオイ、ワカッタノハコノゲンゴダケダ」

 僕は頭の中がまたまた混乱した。しばらくは交信をやめて頭の中を整理した。つまり宇宙にいた宇宙人が、何かの拍子に地球という星に引き寄せられ、かみなりをきっかけにここに間違ってきてしまったということになる。

つづく

2006/06/20(火) ともだち 2
 それは5分ほど続いた。あぁ3台のパソコンがこれでみんな壊れたと落胆したが、コンセントが抜いてあるのになぜパソコンは起動と終了を繰り返すのだろう、ありえないことである。充電式のノ−トパソコンならわかるが、ディスクトップである。
 階下の子供たちが下から声をかけてきた。
「お父さん、大丈夫!!」
「大丈夫だけど、パソコンが壊れたみたいだ」
 やがてパソコンはちょうど充電がきれたみたいにぷつんときれた。しばらくは呆然としていた。とりあえず子供たちのパソコンは大丈夫かと僕は下に下りた。子供たちのパソコンはまつたく何もなかった。それがせめてもの幸いかと思い、ふたたび屋根裏に上がってみると、切れたはずのパソコンが3台ともまた起動している。なんなんだ???僕はもうあきれてしまった。
 なるようになれとふて腐れて寝転がると、なんだかカタカタと右側のパソコンのキ−ボ−ドが動いている。なんだか気持ちが悪くなった。さらによく見ると、中央のパソコンに文字が打たれている。だんだん頭が冷静になってきた。つまり右側のパソコンのキ−ボ−ドで打たれた文字が中央のパソコンのディスプレイに表示されているのだ。
 中央のパソコンに打ち出された文字は、アルファベットの羅列である。英語でもフランス語でもドイツ語でもない。それはスクロ−ルをしながら次から次へと打ち出されていく。それが3分ほど続くと今度は漢字が羅列された。これまた意味不明である。そして次にひらがなである。次々に打たれる文字はまったく意味をなしていない。さらにそれはカタカナに変わった。またまた意味をなさないカタカナの羅列、これが一番長かった。10分ほどそれを繰りかえした。
 これがパソコンの暴走というやつかなと漠然と考えていると、いきなりパソコンの画面が真っ黒になった。いよいよ終わりかとディスプレイを眺めていると、また右側のパソコンのキ−ボ−ドがかたかたと動き始めた。今度はゆっくりである。
 最初の文字は「カ」。
次に「イ」、次に「セ」、「キ」、「シ」、「ユ」、「ウ」、「リ」、「ヨ」、「ウ」。
 カイセキシュウリョウ?わけのわからない僕は次の文字が打たれるの待った。しかし、右側のキ−ボ−ドはカタリとも音がしない。
 僕は、もしかしたら誰かがこのパソコンにアクセスしてきているのだと理解した。そして恐る恐る中央のキ−ボ−ドを打ってみた。・・・君は誰だ・・・だが中央のパソコンには何も表示されていない。ふと右側のパソコンのディスプレイを見ると、そこに僕の打った文字がカタカナで表示されていた。

「キミハダレダ」

 しばらくは何も反応がなかった。やがて今度は僕の目の前の中央のディスプレイに文字が表示されはじめた。右側のキ−ボ−ドがかたかたと動いている。打たれた文字にはこう表示されていた。

「ボクハマヌ−タ」


つづく
 

2006/06/19(月) ともだち 1
 さて、ずいぶんサボったので、穴を埋めるためにまたつまらない短編小説でも書こう。


 仕事から帰ると、流しの中に山ほど積まれた食器、これは朝食の時の食器である。僕はまずこの山から片付ける。食器用洗剤をスポンジにつけるともくもくと洗い始めた。
 女房のおふくろさんが糖尿病性の昏睡で倒れてから、女房が看病でずっと付いている。ここ一週間はこんな生活が続いている。 岡林信康の山谷ブル−スを歌いながら次にベランダの洗濯物を取り込みたたみ始めた。高校生の息子と中学生の娘が二人いるが、帰りは部活などが忙しくて、僕よりも遅い。
 さて、今日の晩飯はなんにしようかと考えていると、息子が帰ってきた。ただいまというなり自分の部屋に入る。次に娘が帰ってきた。洗濯物をたたんでいる父親を見ると、黙って手伝ってくれた。

 「今日の晩飯は何が食いたい?」
 「もちろん、肉」
 「肉は昨日食べたじゃないか」
 僕があきれて聞くと、毎日でもいいという。さすがに毎日肉はこちらが参ってしまう。見るのもいやだ。
 「それじゃ今日は寿司でも握るか」
というと賛成とい言いながら自分の部屋に入った。
 イカとタコとマグロだけの寿司を食べ終わると、宿題があるといいながら二人の子供はまた部屋に閉じこもる。さて、これからがやっと自分の時間である。
 僕は屋根裏の物置兼自分の部屋に上がると、パソコンに向かった。もちろん左手には焼酎の瓶が置いてあり、ちびちびとやりながらパソコンで文字を打つ。疲れてくるとギタ−を持ち出し昔の歌を唄う。
 背中には昔からの蔵書がびっしりと並び、左手にはビデオ専用のTVが置いてある。ここは僕にとって自分を解放できる空間である。家族から嫌われるタバコもここではノ−プレブレムである。パソコンは3台あり、メインは真ん中のやつだが、趣味で始めたデジカメの写真は左手のパソコンに入れてある。
 今日もやっと一日が終わったかと思い、寝転がりタバコをふかしていると、遠くで雷が鳴り始めた。梅雨もそろそろ明けるのかと思っていると、雷はだんだん近づいてきた。雨も激しくなってきた。
 この分だと近くに落ちるなと心配する間もなく、突然ピカッと光ったかと思うと、ゴロゴロとものすごい音がした。こりゃぁ間違いなく近くに落ちたなと思った。
 ところがである、起動中のパソコンが突然うなりだした。な、なんだ、これは。パソコンが起動と終了を繰り返しはじめたのである。それだけならいいが、残りの2台も同じく起動と終了を繰り返しはじめた。これはまずいとばかりに起動ボタンを押しっぱなしで強制終了をしてみた。ダメである。パソコンは同じことを繰り返している。最後の手段とばかりパソコンの電源コンセントを抜いた。え・・・・パソコンは終了しない、なぜだ?

つづく

 

2006/06/18(日) 陶芸教室
 本日は陶芸教室の講師である。子供たちはいろいろと面白いものを作る。しかし、やきものというものはいろいろと制約が多い。だから、どこまで自由にやらせるかということが難しい。
 これから素焼きをして施釉でまた子供たちを集めることになる。大変だが、子供たちの笑顔を見ていると、こちらも楽しくなってくる。純粋ということはいいことである。子供たちからパワ−をもらった一日であった。

2006/06/17(土) 卒業
 この日曜日、「なじょもん友の会」の総会をもって僕は広報部を卒業する。任期2年、実質2年半、広報部としてだけでなく影でいろいろな協力をしてきた。
 昨日、友の会の入会案内を作った。これが最後の大仕事になるだろう。そのほかに総会用の資料、看板などもすべてパソコンで作った。デ−タをCDに焼いてある。これで来年も少しの手直しで総会資料が作れるだろう。
 この2年間、町役場の体制、なじょもんのできるまでの推移などをじっくりと観察してきた結果、職員内部の温度差がひどいことに気がついた。まぁそのことはここでは書くまいと思うが、自立の町としてスタ−トしても職員の意識改革はまったく変わっていないということである。
 さて、卒業後だがやっと自分の思い通りのことができると喜んでいる。写真、陶芸ももちろんだが、ほかにもやりたいことがある。たぶん今後のライフワ−クとなるだろうと思う。それもここでは書かない(笑)。
 この2年間でずいぶんとパソコンの使い方を覚えた。これは一生のうちでの大きな財産である。何かの目的があってパソコンを使う、これが理想的な使い方である。そして使いこなすたびに新しいことを発見して覚えていく、そのたびに喜びもまた感じる。
 ところが世の中の人々はだいたいそうではない。これから役に立つからとか、覚えておけばいずれは役に立つだろうとかでパソコンに向かうのだ。だから覚えられない。覚えたとしても忘れてしまうだろう。そんなものである。

2006/06/16(金) 会議
 毎晩毎晩、会議、会議会議。忙しい。しかし本日の会議は最低、予算、決算がめちゃくちゃ。今までこれでよくやってきたものだと不思議である。
 この会議、ほぼ町民全戸からお金を半強制的に集めている。だからこんな予算決算ではおかしい。今までの役員はこれを認めていたのだろうか。まったく不思議だ。

2006/06/15(木) 雪解けの頃の思い出 その4
 どざえもんを発見したことはその後の僕の人生にかなりの影響を与えている。まず第一に死という概念がはっきりしたことである。死ぬとどうなるのかということが観念や想像ではなく、具体的なイメ−ジとしてとらえることができたことである。それは同時に幽霊、おばけというものに恐怖を感じなくなったことでもある。その頃から僕は一人でお墓に行くことをなんとも思わなくなった。昔は土葬であったが、今は火葬である。骨しかないのだ。なにも恐くはない。
 次に世の無常を感じるようになった。僕が仏教に興味を持っていくのはここに原因がある。ただし、日本のお寺の仏教にはまったく興味がない。僕が考える仏教は原始仏教である。釈迦が何を考えていたかには興味がある。地獄も極楽もない仏教だ。
 死ぬことは恐くない、なんてことは間違っても言えない。死は恐怖である。しかし、間違いなく死ぬ。必ず死ぬ。ここからはどんなにお金持ちでも逃れることができない。この世の中で唯一の平等性といっていいだろう。しかし、現行のお寺の葬式仏教はここにまで不平等性を押し付けた。戒名である。お金で戒名が変わるのだ。こんな馬鹿なことがまかり通るのが今の仏教である。
 欲を捨てればいいという真理は確かにあると思う。でも捨てられない。捨てることは世を捨てることである。植物になれということに近いのかもしれない。僕はそんなことはできない。でもそれは真理である。欲がなければ悲しみも苦しみも生まれない。それを悟りというのなら僕にはとても無理だ。
 10歳の頃、どざえもんを発見したときに、もしかしたらそうした考えを少しは持っていたのかもしれない。でも今家族を持ち、子供の未来ということを考えると、それは無理であることに気がつく。つまり悟りを開くには家を捨てなければいけない。家を出ると書いてズバリ、出家である。だから妻帯してはいけないと小乗仏教は説く。
 いろいろな本を読んで気がつくことであるが、本来の仏陀の教えとずいぶんかけ離れた仏教が今の仏教である。日本の仏教は大乗仏教というのとも少し違う気がする。
 仏教はとにかくとしても、どざえもんは今も僕の心に大きな影を落としている。若いときから僕は老けている、落ち着いているといわれた。それもここに原因があるのかもしれない。

おわり

2006/06/14(水) 雪解けの頃の思い出 その3
 その日、夕方に家に帰ると兄や姉にどざえもんの事を話した。興奮気味に何度も話したような気がする。するとそれまで黙っていた祖父がいきなり怒り始めた。
「そんな話をするんじゃない!!黙っていろ」
 僕はなぜ怒られるのかよくわからなかったが、祖父の尋常ではない顔色で口をつぐんだ。翌朝親父はからかい半分に、夢の中にどざえもんは出なかったかと聞いてきた。僕は首を横に振ったが、そんなことより祖父が異常に怒ったわけを知りたかった。その答えは学校から帰ってきてからすぐに知ることになった。
 学校から帰ると何故か仕事に行っているはずの父がいた。どうしたのと聞くと、
「いや〜、まいったまいった、第一発見者ということになり警察に呼ばれてしまい、今日は一日仕事は休みだ」
 そのとき、初めて祖父が夕べ怒った意味がわかった。警察に呼ばれるということである。つまり知らん振りしているのが一番いいということである。
 これは最近他の地域の人から聞いた話だが、もう時効なのでここに記してもいいだろう。当時、僕の祖父はどざえもん流しの名人だったらしい。これも母から聞いた話だが、玄関で村の総代がきて、玄関でひそひそと話をしていると、祖父は竹の長い杖を持って出かけたらしい。その杖はどざえもんが信濃川に浮いていた場合に流してしまうためのものであった。
 どうしてそんなことをするのかは理由がある。つまり村にどざえもんがあがった場合は当時の慣例で村で仏の面倒を見なくてはいけなかったらしい。
 村では行方不明者の届出がなく無縁仏として警察が処理した場合、村で葬儀から埋葬まで面倒を見なくてはいけなかったらしい。だから、流してしまえというわけである。ただし、平然と流してしまうと問題がある。だからこちら岸へ手繰り寄せるふりをしながら、失敗したということで流してしまうのが一番いいのである。
 これは村の人に責任があるわけではない、当時の行政に問題があるのだ。そういう無縁仏を埋葬する場所も決まっていたらしい。また僕の村だけではなく、信濃川沿いの他の村でもそういうことをしていたらしい。

つづく

2006/06/13(火) 雪解けの頃の思い出 その2
 生まれて初めて見る人間の死体・・というよりそれは異様な物体だった。まるで人間とは別の物体である。大きな石の間に大の字になった状態で挟まれて、ちょうど魚の干物に近い状態であった。よく見ると腐った肉魂が下に落ちていて、異臭を放ち、そして蝿が群がっていた。
 ショックという言葉はふさわしくないだろう。むしろこんなものかという放心した状態といったほうがいい。人間にはあまりにもかけ離れたものだったからだろう。
 実は親父がこの死体を発見する前に僕は気がついていた。しかし、当時の信濃川は大水が出るたびにいろいろなものが流れてきた。当然水が引けた後には様々なものが信濃川にあった。ごみを川に捨てるのが当たり前だったこの時代、僕はマネキン人形が捨てられていたのだと思っていた。

 どれくらい見ていたのだろう。山菜取りなどはもう忘れていた。たぶん一時間は見ていたのかもしれない。時を忘れるとはこういったことを言うのだろう。しばらくして親父に、行くぞと声をかけられるまでは放心状態だった。
 人は必ず死ぬという概念、そして死んだあとはただの物体であるということをこのとき学んだ。

つづく

2006/06/12(月) 雪解けの頃の思い出 その1
 昨年の春、信濃川の岸辺で女性の変死体が発見された。僕はその頃、ちょうど花見の宴会後の片づけを会の役員として手伝っていた。
 レスキュ−隊の車のサイレンに野次馬根性も手伝い、見に行くと遺体を引き上げるのに男性の方のお手伝いをお願いしますと言われ、遺体の引き上げを手伝った。
 あれから一年以上経過したわけだが、まだ身元は不明だという。不思議な事である。信濃川で水死体となった人を、俗にどざえもんという。子供に人気のあるキャラはどらえもんである。ちょっと似ている。

 信濃川の近くに僕の家はあり、川は我々の子供の頃は格好の遊び場であり、同時に非常に危険の伴う場所でもあった。あの頃川魚はうじゃうじゃいたし、それを捕まえるのもまた楽しい遊びのひとつだった。
 さて、時は僕が小学4年生になったばかりの春。雪解け水がごうごうと流れる時期もやや過ぎ、川の流れも落ち着きを取戻して来た頃、信濃川の崖に、山菜の「うど」を取りに親父と出かけた。崖から崩れた土がうどを隠して、そこから伸びたうどが芽を出す頃に採取するとちょうど茎の部分が白く、アクのない美味のうどが手に入るのだ。
 いつものように目的地に向かい、信濃川の川石をひょいひょいと慣れたもので、飛び越え飛び越え早足に歩いていくと、後ろから親父が大きな声を出した。
 「おい、こんなところにどざえもんがいるぞ」
 僕は何事かと思い、引き返してみると、なんだ、マネキン人形の腐ったものではないかと思い
 「とうちゃん、どざえもんって何?」
と質問してみた。
「何だ、どざえもんを知らないのか、川に流された死んだんぽだ」
と答えた。子供の頃から見慣れているのか当たり前の事のように言った。
 しんだんぼ・・・つまり、これは・・・。人間の死体 !!

つづく

2006/06/11(日) 運動会
 地域の運動会があった。今年僕は公民館委員、つまり運動会役員、朝の7時より準備、午後より親睦をかねた宴会、しこたま飲んで寝た。
 僕は何の役かというと、ゴ−ルテ−プを持つ役兼カメラマン、記録係。後半は撮影に夢中になりテ−プを持つことなど忘れていた。撮影枚数250枚。ただしデジカメ、630万画素ですべて撮る。プリントも可能というレベルで撮影。CFカ−ド、2Gを買っておいてよかったと思う。電池の予備も容易していたし。

 しかし、パソコンに取り込むのに思ったとおり時間がかかった。300万画素くらいでもよかったかと反省。
 いつのまにか終わってしまった日曜日、この分だとまた来年記録係かな(笑)。

2006/06/10(土) 絵本作家
 体験実習館なじょもんに絵本作家スズキコ−ジ氏が見えているということで、夜なんとなく会いに行く。いかにも作家という感じであった。
 ついでに大地の芸術祭のこの町に作る作家の大日方さんという女性とも会った。同じ焼き物という分野ではまぁ共通項はあるのだが、僕自身は芸術大学出身の芸術家という人たちはあまり好きではないので、まぁ適当にというところである。
 さて、ギタ−も持っていかないし、地元の歌を歌ってくれとせがまれて2曲くらい歌ったが、はては美空ひばり、三橋美智也などを歌い、ようやく気の合った所で解散。
 僕は車だったので珍しく酒は飲まずにみんなに合わせていた。この会合はなんと教育委員会である。でも裸になればみんな一緒だと思った。あたりまえか(笑)。

2006/06/09(金) ニコン党とキヤノン党
 世の中のカメラ好きにはニコン党とキヤノン党の人がいる。僕がいろいろと話を聞いてみると、ニコン党はキヤノンを眼の敵にするようである。その逆にキヤノン党はというと、それほどニコンを眼の敵として攻撃はしない。
 これは面白い現象で、キヤノンとニコンの歴史がそのまま現れている。もともとキヤノンはニコンから分家したようなものだし、レンズも最初期は供給を受けていた。それがキヤノンF−1で一気にニコンに攻撃をかけるのであり、プロ用カメラという地位を築くのにかなりあくどいことをやったという噂もある。
 それじゃあなたはと聞かれると、まぁこれはどうでもいいことである。どちらも好きである。しかし、キャノンのほうが若いイメ−ジは確かにある。CMなどでも派手に展開してきたし、普及期の出し方が非常にうまいので、商売としては圧倒的にキヤノンの勝ちである。
 さて、このキヤノン、面白がってデジカメと銀塩カメラを並べてみた。このキヤノンのロゴ、なんと35年前からまったく変わっていないのには驚いた。う〜ん、こうでなくてはいけない。ニコンは微妙に変わっているのだ。どうでもいいことなのだが、なんとなく書いてみたかった(笑)。

2006/06/08(木) 田植えのあとで
 この地域の田植えがほぼ終わったのではないかと思う。一週間くらいの遅れかな?よく話に出るが、あの大量の雪がよく消えたものだと言う。まったくである。今年は雪は消えないのではないかと心配してしまうのである。しかし、消える時期が来ればばたばたと消えていくのが自然の妙である。
 しかし・・・今月で一年の半分が終わる。いつのまにかである。早い・・・。あと数ヶ月でまた雪が降る。

 早いといえば、一生もまた短いと最近は痛感している。子供の教育が終わればやっと自分の人生と思いきや、それもあと数年に迫っている。恐らく人生で一番大変で苦しい時期をこれから迎えるわけである。季節にたとえれば今は初秋というところ。やがて厳しい冬を迎える。

 写真だカメラだと言って、もうその時期もピ−クを過ぎ、今は冷静にその世界を眺めてみると、芸術も何もあったものではない。最後に残るのは結局記念写真でしかないということを再認識してしまう。記念写真の究極は葬式用の肖像写真だと思うが、カメラというものが単に映像を記録する道具であることをいやでも認識するのは、デジカメの便利さを実感したときである。葬式写真の合成も、記念写真の文字入れも簡単にできてしまう。
 フィルムを使うカメラは、写真ができあがるまでに数々のプロセスを踏んで、最終完成品が写真となるわけだが、ここの過程で多くのドラマがあるからおもしろかったわけである。デジカメになり、便利この上ないが、おもしろさはまったくない。
 
 先日、なくなった同級生の女性のお姉さんに、プリントをスキャナ−したデ−タCDを渡した。彼女の作品のメモリアル展示をするためにいろいろとデジタル処理をしたわけだが、終了後にデ−タを削除するのももったいないと思い、デ−タCDに焼いたわけである。このとき、時代は変わったということをはっきりと認識したわけである。

 さて、この写真であるが右側、陶芸家の先生の右下にあるどんぶりに箸が2本ななめにあったのだが、これはまずいと思い箸を消してある。こんな加工もデジタルなら簡単にできる。
 この画像を載せるのに少し迷ったが、新聞にも掲載されたのでもういいだろうと思う。
 真理ちゃん、載せちゃうよ。天国から読んでね・・・・・・・。

2006/06/07(水) サンコニ
 サンコニ・・?なんだろうと思うかも知れないが、ジャンク3台で2台が完成したというカメラの話。実は修理を依頼されたジャンクカメラ、ヤフオクで一台またまたジャンクをゲットしたのだが、ニコイチの予定で組んでいた。と、そのとき、もしかしたらもう一台同形のジャンクがあったような気がすると思い出し、ガサゴソとジャンクボックスを探すと、あった!!キャノネットQL17、これはQL19と比べてボディは同じもの、レンズの明るさが違うだけである。つまりボディの部品は共用できるわけで、かくして3台のジャンクは2台の完動品が完成したわけである。
 それにしても最近は好むと好まざるにかかわらず、やたらとカメラが僕のほうに勝手に近づいてくる。これはどうしたことだろう(笑)。

2006/06/06(火) 夕立
 一雨来そうな夕方である。珍しく当日分のプログをつけているわけだが、よく考えたら雨が最近振っていない。花の苗でも買ってきて植えようかと柄にもないことを考えているのだが、少し土が湿ってもらわないと。
 そういえば恒例の朝顔もまた始めなくてはいけない。今年は少しは新しい種を追加しようと思う。

 夏の花の代表が朝顔とひまわりだが、僕は正直ひまわりはあまり好きではない。根が暗いのだろうか(笑)。派手に咲いているひまわりを見るとなぜかコンプレックスを感じる。朝ひっそりと咲き、お昼にはしぼんでいる朝顔のほうが好きだ。

 ひまわりは権力者の象徴のような気がする。小説でもそうだが、庶民のつつましい生活の中の中で一生懸命努力している生き様がいい。結果は失敗かもしれない。でも生きているということを感じられるのはそんな時ではないだろうか。

 若いとき、働きながら学校に行っていた僕は、いろいろな人にお世話になった。そのとき感じたことだが、お金持ちで成功した人よりも、貧乏でやっと暮らしている人の方が僕に親切だった。だから僕もがんばっている人の応援をしてあげたいと思う。できる範囲でしかできないが。

 貧乏人はいつまでたっても貧乏人というのは、単なる貧乏人の僻みだが、世の中がお金を中心に動いているのは紛れもない事実である。成功した人=お金持ち、というのも変なことだが、世の中の多くはこの方程式である。朝顔には成功のイメ−ジがない。だけど失敗作という花でもない。だから好きである。

 子供たちが小学生の頃、夏休みといえばラジオ体操に一緒に行き、朝顔の花を見て、それから庭にあるブル−ベリ−をつんで食べる毎日だった。今はブル−ベリ−をつんで食べる人もいなくなった。たまにつんではジャムにしている。これと自家製ヨ−グルトを混ぜるとすこぶる美味であるが。

 とにかく今の自分に必要なのは季節を楽しむことだと思う。今年こそは今年こそはと思い、たぶん一生が終わるのかもしれないが、意外とこれが人生の真理だったりする。そう考えると縄文人はとにかく万葉の人たちは今の我々よりも心が豊かだったのかもしれない。それは歌にたしかに表れている。
 もっとも源氏物語などは、あり余る時間をSEXに使っているわけで、このあたりの性欲の世界は今とあまり変わらない。フリ−セックスだった当時のことと違うのは、今は不倫ということになると思うが。
 

2006/06/05(月) ニコイチ
 またまたカメラの修理を依頼されている。キャノネットQL19最初期型である。バラしてみると絞り羽が2枚外れている。ここを分解するにはかなりしんどいので、ヤフオク、ジャンクで探して1800円でGET。経費はもちろん見てくれることになっている。
 さて、そのジャンクカメラが届き、固執したレンズのシャッタ−羽と絞り羽を丁寧に洗浄して、正常に戻す。つまりこのレンズ部分と元のカメラのボディ部分を合体させてニコイチとするわけである。
 合体前に、配線をすべて交換、露出計メ−タ−部分をチェックしなくてはいけないのだが、ここはなかなか半田付けなどで大変なので、もう少しいろいろなことが落ち着いてからと考えている。

2006/06/04(日) 日曜日
 ひょんなことから午後から時間ができた。来週は運動会だし、今だとばかりに庭木の剪定と草とり、花壇の整備などをやる。
 庭木はたいした本数はないのだが、今年の豪雪でやられたために悲惨な状態である。これは我が家だけでなく、この地区全体にいえるのだが、一時期にくるドカ雪だと枝に積もった雪がかなり負担になるらしい。休み休み積もる雪はそんなに負担にならないのだが。

 庭をいじりながら考えた。チンタのお墓をどこにしようかと。雪椿の木の下にしようかと考えているのだが、そばに電柱がある。こいつがどうも邪魔である。

 「百姓は草との戦いである」と言ったのは、信州出身の写真家であるが、まさに的を得ている言葉である。草がはえなければ畑作はかなり楽勝のはず。田んぼは除草剤のおかげでかなり楽になったが、その反動で、有機米、無農薬米というのが登場してきた。我が家は除草剤は初期にほんの少量使うだけなので心配ないが、自ら食べる米、野菜という観点になると使わないにこしたことはない。

 ひどい農家は、出荷用と自家用に分けて農薬を使い分けている。自家用はほとんど農薬を使わないくせに、出荷用はばんばん農薬を散布している。これはひどい。ただし、システムにも問題がある。形のいいものでなくては買い取ってくれないからだ。消費者も虫の穴のあいていないもの、形のいいものを選ぶ。ここに矛盾がある。どうして虫がたべるほど安全でおいしい野菜だという認識がもてないのだろう。消費者の意識が変わらない限りこの問題は解決しないと思う。「虫も食わない」とは悪い意味の言葉だということを考えて欲しいものである。

 草とりをしながら思い出す。去年は草むしりをしているとチンタが庭でのんびりと散歩していた。わずか一年前のことである。そして今はいない。不思議なことである。生あるものは必ず滅する、これは世の常であるが、心の中はそんなに簡単に割り切れない。そんなことを考えるたびに目頭が熱くなる。

 なんだかここ3年ばかりいろいろな事で忙しかった。今年はチンタを思い出しながら、季節の移ろいに眼を向けてみたい。花は必ず時期が来れば開き、秋には実をつけて冬を迎える・・そんなことをしっかりと見つめてみたいと思う。

2006/06/03(土) 古い歌
 古い歌を聴いている。いわゆるフォ−ク全盛時代の頃の歌である。マイ・ペ−スの「東京」を聴くと今でも胸がキュンとなる。中学から高校へと進学するとき、この歌が流行っていた。友達もぜんぜんいない高校へ進学した僕は、孤独さをまぎらすために毎日図書室へ通っていた。しまいには図書室の秘書のお姉さんとお友達になり、事務室でお茶までご馳走になるようになるのだが、その話は別の機会に・・・
 さて、そんな時期、いつも心の中で繰り返されていたのが「東京」である。恋人?いたようないないようなものだが、まだ本気で恋愛というものでもなかったし、でも地元の友達といつも会えないというのは結構つらかった。
 ほかに、とんぼちゃんという二人組みがあり、当時バンドを組んでいた女の子とよくやったものである。そうそう、真っ暗な歌ぱかり唄う山崎ハコという人もいた。本当に暗かったなぁ。中島みゆきが売れ始めた頃で、これもギタ−でコピ−したものである。あの頃いろいろなフォ−ク歌手がいたけど、最後まで残っているのは中島みゆきくらいだろう。
 それからしばらくするとフォ−クという言葉は消えて、ニュ−ミュ−ジックというものが台頭してきた。その代表は荒井由美、今の松任谷由美である。この人のポップスセンスは当時は斬新だった。
 今でもよく昔の歌を歌うが、今歌ってもいいと思うものと、駄目だと思うものとがはっきりしている。これが時代というふるいというものだろう。

2006/06/02(金) 物欲
 人間には欲というものがある。あれが欲しい、これが欲しい。あの女を抱きたい・・・というのは性欲か。そのための手段としてお金がある。お金はある程度のものはほとんどが手に入る。だから、あれが欲しい、これが欲しいという前に、お金が欲しいと言ってしまったほうが早い。
 過去に、世の中の多くの成功した人たち、つまりお金はありあまるほどある人たちが存在した。歴史がわりに好きなので、いろいろと考えるが、昔の人なので長寿を60歳以上と考えると、明治以前で頂点に立ち、60歳以上生きた人は意外と少ない。まず思い当たるのが秀吉と家康である。
 この二人の違いは大きい。秀吉は頂点に立って、金の茶室まで作ったが、子宝にめぐまれずに秀頼、秀頼といいながら世を去った。そしてなまじっかカネが沢山あったがゆえに秀頼は家康に取り潰される。カネがなければ秀頼は一大名としてなんとか子孫を残せたはずである。
 そこへいくと家康は違う。死後のことまで考えた。節訳家であり、まぁ好き嫌いはとにかく、人生こうあるべきだという見本である。
 戦国時代というのは、NHKの大河ドラマを持ち出すまでもなく、人生、人の生き様が凝縮しているのでとにかくおもしろい。信長、秀吉、家康、この3人が順番に続いたからよかったのである。 時々考える、もし順番が違っていたらと・・おっとこれは禁句であった(笑)。
 富と権力が手に入ると、次に考えるの欲は何か、、名誉欲である。自分を立派な人格者にしたいということ。もちろん長寿もあるがこれは限界がある。人は必ず死ぬものである。では名誉欲とは何か、つまり歴史に名前を残したい。金は死んでまで持っていいけない、ならばこの世に残せるもの、つまり名前である。あの人は偉かったというものを残したいと思うのだろう。だから大量の寄付をしたり、建築物を残したりする。
 ま、庶民には縁のない話だろう。どうでもいいか(笑)。名誉欲をくすぐる話だが、最近よく考えるのは、立身伝ということである。地方でも都市部でも、当然一代で会社を興し、そこそこの成功を収めた人たちが沢山いるわけで、僕はこの人たちに自伝を書いて欲しいと思うのである。どんなに小さい会社でも必ず人に言えない苦労があったわけで、そういうことを書いてもらえばかなりおもしろい読み物になると思うのである。

2006/06/01(木) 早くも・・
 もう6月である。毎日があわただしく通り過ぎていく。季節のうつろいを眺める余裕もなくただスケジュ−ルに追いまくられている。
 写真もいろいろ撮りたいのだが、その余裕がない。ほんとはあるのだろうけど、心の余裕がない、金の余裕がない。
 ネイチャ−写真は嫌いではない。ただ心の余裕がないのだ。泉谷しげるの歌そのままである。
 
 春を眺める余裕もなく
 夏を乗り切る力もなく
 秋の枯葉に・・・・

 まぁなるようになればいい、そんな気分である。しかし、この先と考えると不安・・でもなるようになるさという気楽さ、この二つが僕の中に同居している。つまりこの二つ、そのまま僕の両親の性格である。親に感謝(笑)。


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