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2006/06/15(木) 雪解けの頃の思い出 その4
 どざえもんを発見したことはその後の僕の人生にかなりの影響を与えている。まず第一に死という概念がはっきりしたことである。死ぬとどうなるのかということが観念や想像ではなく、具体的なイメ−ジとしてとらえることができたことである。それは同時に幽霊、おばけというものに恐怖を感じなくなったことでもある。その頃から僕は一人でお墓に行くことをなんとも思わなくなった。昔は土葬であったが、今は火葬である。骨しかないのだ。なにも恐くはない。
 次に世の無常を感じるようになった。僕が仏教に興味を持っていくのはここに原因がある。ただし、日本のお寺の仏教にはまったく興味がない。僕が考える仏教は原始仏教である。釈迦が何を考えていたかには興味がある。地獄も極楽もない仏教だ。
 死ぬことは恐くない、なんてことは間違っても言えない。死は恐怖である。しかし、間違いなく死ぬ。必ず死ぬ。ここからはどんなにお金持ちでも逃れることができない。この世の中で唯一の平等性といっていいだろう。しかし、現行のお寺の葬式仏教はここにまで不平等性を押し付けた。戒名である。お金で戒名が変わるのだ。こんな馬鹿なことがまかり通るのが今の仏教である。
 欲を捨てればいいという真理は確かにあると思う。でも捨てられない。捨てることは世を捨てることである。植物になれということに近いのかもしれない。僕はそんなことはできない。でもそれは真理である。欲がなければ悲しみも苦しみも生まれない。それを悟りというのなら僕にはとても無理だ。
 10歳の頃、どざえもんを発見したときに、もしかしたらそうした考えを少しは持っていたのかもしれない。でも今家族を持ち、子供の未来ということを考えると、それは無理であることに気がつく。つまり悟りを開くには家を捨てなければいけない。家を出ると書いてズバリ、出家である。だから妻帯してはいけないと小乗仏教は説く。
 いろいろな本を読んで気がつくことであるが、本来の仏陀の教えとずいぶんかけ離れた仏教が今の仏教である。日本の仏教は大乗仏教というのとも少し違う気がする。
 仏教はとにかくとしても、どざえもんは今も僕の心に大きな影を落としている。若いときから僕は老けている、落ち着いているといわれた。それもここに原因があるのかもしれない。

おわり


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