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2006/09/30(土) コンサ−ト練習
 昨晩は野焼きで、今晩は月あかりコンサ−ト用の練習。だいぶ固まってきた。最後はクソ度胸のぶっつけ本番みたいなもの。帰りは12時ごろになる。野焼きと違い、なぜだかこういうことは疲れない。やはり根が好きなのだろう。音楽は楽しい。音を楽しむと書いて音楽。
 ところで以前リペアの真似事をムラマサ氏と二人でやった12弦ギタ−、練習に使ってみた。チュ−ニングが少し難しいが、これは使える。まさに腐っても12弦ギタ−である。たぶん本番でも使うことになるだろう。30年以上眠っていたジャンクギタ−がヒノキ舞台に立つのだ。そう、これはドラマだ(笑)。

2006/09/29(金) 土器野焼き
 3つたまった土器を野焼きをした。というのは、あさって中条小の子供達が笹山縄文市で土器鍋をしたいということなので、なじょもんの学芸員との都合をあわせると今晩しかないという結論である。
 結果はひとつひびが入ったが二つは成功。いつもながら緊張を伴う。夏と違い外気が冷たいためにいっそう気を使う。つまりそれだけゆっくりと温度を上げなくてはいけない。ところが自然の摂理でなかなかそう都合よく行ってくれない。火という物は付きにくく、かつ勢いが付くとコントロ−ルできない。
 すっかり消火して家に帰ったのが10時過ぎである。まぁこれは早いほうである。12時になるのを覚悟して出かけているのだから。疲れた。焼酎をぐっとあおりバタンキュ−である。

2006/09/28(木) 茶碗
 陶芸の世界で茶碗と言えば抹茶茶碗のことをさす。一般の人の急須でお茶を飲む容器は湯のみという。また煎茶の本格的なものは汲み出し椀というらしい。御飯を食べる茶碗は飯茶碗という。
 そこで、茶碗であるが、これほど一般の人になじみの薄いものはない。楽焼の長次郎茶碗や加藤唐九朗や荒川豊蔵の志野茶碗などは時価1000万などがある。まぁ庶民には縁のない代物ではあるが。
 好きなのは井戸茶碗である。この井戸という名前はどこからきているかで意見のわかれるところらしい。井戸は朝鮮の地名から来ているという説と、見込み(深さ)が井戸のように深いと言う説といろいろとある。好きな理由は作りにスピ−ド感があるということ。これは技術が伴わないとむりである。一説によると朝鮮の陶工が生活に困り、とにかく作って早く売らないと明日の米さえ手に入らなかったと言うことから、スピ−ディなつくりになったと言う説があり、僕はこの「生活のために」という部分に惹かれる。無名の陶工は技術はすごくあるのに、無名のために安く大量に作らなくてはならなかったという悲哀を感じもし、かつ尊敬の念が沸く。
 茶碗もたまには作る。一応お茶もたてる。しかし、お茶といっても作法も何もない。戦国時代の武将が度重なる戦の暇に飲んだという程度のあわただしいお茶にも劣るが。
 一般人の一番いい茶碗の使い方は何だろうと考えると、僕のお勧めはお茶漬けである。市販されている永谷園の「お茶漬のり」は普通の御飯茶碗だと少し量が多い。そこで茶碗の登場である。これに御飯を少なめに盛り、永谷園を入れてお湯を7分目くらいに注ぐとちょうどいいしょっぱさで、そこそこにさくさく感があり、まことに具合がいい。
 ま、僕の作る茶碗はその程度である。駄作の連続。初期の茶碗などは自宅で植木鉢の水遣りの際の受け皿になっている(笑)。

2006/09/27(水) コンサ−ト
 月あかりコンサ−トが近づいてきた。このコンサ−ト、基本的にはアコ−スティック系である。今年はフル−トを中心とした3人組、影絵による民話のグル−プ、オカリナのグル−プ、そして和太鼓、それから我々のアコギでやる昔のフォ−クグル−プである。
 当初、クラプトンの「Tears Heaven」をやろうとしていたけど、あまりにも場違いなため変更した。それとこの曲、比較的コピ−しやすいためにあちこちのコンサ−トで歌われている。あのフレ−ズをやるたびに、またか・・という思いを抱かれる恐れがある。
 さて、昔のフォ−クソングと言ってもいろいろある。どうせなら団塊の世代のフォ−クソングということで「竹田の子守唄」「遠い世界に」を取り入れた。あとは好きな曲ということでいろいろ各自にまかせた。個人的に選んだ曲は甲斐バンドの「薔薇色の人生」である。真っ暗な歌だが退廃的な雰囲気が好きでよく唄う。
 昨夜実行委員会があり、具体的なことまで決めた。一応僕が実行委員長なのである。しかし、僕は出演者もかねている。だから僕自身が動かなくてもいいように企画書を作った。僕自身がいなくても事が運ぶようにである。
 あ・・・今日はもしかして自分の誕生日では・・。めでたくもなしというところ。
 そういえば娘のためにアコギのハ−ドケ−スを買ってやったものが本日届いた。ヤフオク、新品展示品、チョイ傷ありというものである。希望落札価格6300円、送料とかで合計7800円もかかってしまった。自分の誕生日どころではないのだ(笑)。
 「タイヨウのうた」にだいぶかぶれているみたいで、そういえばあの映画やTVドラマはハ−ドケ−スからアコギを取り出すシ−ンが何回も出てくる。
 ケ−スが欲しいというので、そのうち買ってあげるよと安請け合いしたのが事の始まり。3000円くらいで買えると思ったら、とんでもない結構いい値段がするのだ。いまさらソフトケ−スとも言えず、これも予定外の出費である。トホホ・・・。

2006/09/26(火) 同級生の息子の死
 なんともやるせない気分である。昨夜交通事故で同級生の息子が亡くなった。このお宅は先日チロを世話してくれた家なのである。女房同士は友達で、親父は同級生同士である。
 その一報が届けられたとき、僕はパソコンの中に保存してあるロイ・ブキャナンのFive String Bluesを聴いていた。猫の泣き声のようなブキャナンのフレ−ズにやるせない思いを重ねてしまった。
 こんなときどうやって声をかけたらいいのだろう。言葉がみつからないというのが本当のところだ。そこのお宅の奥さんと僕の女房は昔の仲間で久しぶりに集まり、飲み会を計画していた。そしてその帰りにチロの元気な姿を見に、我が家へ寄ることになっていたらしい。たぶん飲み会は中止となるだろう。
 なんだかブル−な気分である。今夜は「月あかりコンサ−ト」の実行委員会の会議である。僕は実行委員長なので行かなくてはいけないが、早めに会議を済ませてチロと一緒にこちらでも通夜をしてあげよう。それくらいしか・・・・。

2006/09/25(月) 通学路
 僕が小学校、中学校と通った通学路は約2Kmくらいあり、通称「わっくり坂」という坂が通学路の途中にある。長い坂で200mくらいはあるだらだら坂である。この坂は中学のときのマラソンコ−スにも含まれていて、俗言う心臓破りの坂であった。
 この坂の下の平は今はほとんど田んぼになっているが、小学校の頃は大林と言って一面林で覆われていた。その林の中を割るように一本の細い道があり、夕方薄暗くなるとお化けでも出そうなさびしい道だった。
 子ども達の噂では、わっくり坂をおりたところのカ−ブになっている脇に白樺のような木があり、その下に死体が埋まっていることになっていた。そのせいかそのあたりが一番暗くて寂しい場所であった。後に年寄りから聞いた話では、死体は死体でも、それは牛馬の死体であり、年老いて死んだ農耕馬や牛を葬ったということである。
 この通学路はもちろん今の子ども達も通っているわけだが、明るくて広い道になっている。外灯も少ない本数ながら何本か立っていて、わっくり坂を下りてすぐのところにきのこ工場が建っている。だから昔のような薄気味の悪さはまったくない。
 小学校4年生のときだろうか、突然大便がしたくなり、林の中をいい場所がないかと物色していると、ここがいいと決め、くぼ地のところへ行くと・・なんと先客があり、すでに排泄物がそこに存在して、しかも白い紙がその上に乗っていて、金蝿が喜んで舞っていたりした。人の考えることは同じであると子供心に感心したのを思い出す。
 一度もう我慢ができなくて、重いお腹をかかえて走っていると、同級生のお母さんが声をかけてくれた。こちらは恥ずかしいので黙って走りすぎようとしたら、
「おまえ、くそでもでたいんだろう」
と大きな声で笑われた。自分では隠しているつもりでも、走り方で分かるものらしい。あの時は恥ずかしかったなぁ(笑)。
 
 今この道は町の大型店舗に行くときの近道として車でよく走るが、この道を歩くことは全く無くなった。子どもだったあの頃を思い出すと、なんだか切ない思い出と共に必ずこの「わっくり坂」が登場してくる。それは今の開けた明るい道ではなく、昔の林に覆われたトトロでも登場しそうなあのさびしい長い道なのである。

 

2006/09/24(日) チロの恩返し
 世の中は稲刈りの時期である。一応我が家も農家、しかしほとんど人任せ。もちろん稲刈りも例外ではなく、大農家に毎年頼んでいる。ところが今年は依頼しておいた農家の家が、奥さんが体の具合が悪いと言うことで断られた。さて、こうなると困る。
 ということで農機具屋さんに紹介してくれるよう頼んでいたのだが、なかなかみつからなかった。そしてやっとみつかって、本日いきなり稲刈り、すべて終った。
 ここで不思議なことがあった。これは親父が稲刈りの休憩のときに聞いた話だが、稲刈りにきてくれた農家の人はなんと野良猫だったチロを紹介してくれた家のとなりの家の人である。朝起きると食事をおねだりに来るチロに毎朝食事を与えていたと言うのだ。最近朝早くから猫が来ないのを不思議に思っていたらしい。その人も、この偶然に驚いていた。
 もしかしたらチロが困っている我が家を見て、面倒をみてくれたのかもしれない。こういうことは他の猫のときにもよくあったが、これほどはっきりとした偶然ははじめてである。
 もしかしたら我が家の招き猫なのかもしれない。大事に育てなくてはいけない。チロ、ありがとう(涙)。
 

2006/09/23(土) Zeppelin
 息子がなにやら聞き覚えのある曲を聴いている。これは・・ハ−トブレイクダウン、うぅ・・なつかしい。どうしたのかと聞くと友人からベスト盤を借りてきたという。息子に言わせるとなかなかいいという。そりゃそうだろうと思う。あれから30年、Zeppelinもまた一世代回ったわけである。
 息子が「天国への階段」をやってくれ、「胸いっぱいの愛」をやってくれと言うので、ちょっと昔を思い出して弾く。ま、これで一ヶ月もすれば息子のほうがうまくなるだろう。世代交代である。
 そこでふと思い出しZwppelinのコピ−CDをがさかざと数あるCDの中から探し出す。これを息子に上げるとびっくりしていた。名盤、イギリスBBCのライブCDである。これは数年前友人から借りたもの。即座にコピ−させていただいた。この友人、実は昔のバンド仲間で、僕の所属する写真グル−プの会長である。CDはどれくらい持っているのかわからないが、僕がリクエストするCDは必ず持っている。レコ-ドの復刻版も含めてかなりの数を持っていると思うが、いつも探すのに時間がかかるみたいで、即座に借りてくることはできない(笑)。

 数年前に、このZepplinのライブを借りてきて居間にあるNS1000Mででかい音で聞いていたら子供も含めて家族のひんしゅくを買った。それが今は息子が同じ事をしている。僕がやると女房に怒られるのに息子が同じ事をやっても女房は怒らない。なぜだろう(笑)。
 
 

2006/09/22(金) 古いノ−トパソコン
 98の時代の古いノ−トパソコンをもらってきた。またまたという感じだが、実は目的がある。2.5インチのHDDを取り出してUSBの外付けHDDにしようという計画である。ケ-スは中国製の新品をを500円で手に入れた。
 さて分解。次から次へとビスをはずしやっとHDDを取り出す。取り出してから気が付いた、ばらさなくても簡単に外れることを(笑)。
 しなくてもいい苦労をして取り出したHDD、さてケ-スに入れようとしたら、なんと昔の2.5インチHDD、微妙に厚みがありケ-スに入らない(笑)。これは参ったなぁ。仕方ないので頭だけ取り付けて裸でUSBでパソコンにつなぐ。簡単に認識した。こういうときXPは楽である。
 フォ−マットして使える状態にしてと。ただし容量2G。動画を入れるにはちょっと苦しい。これはもう音楽しかない。MP3の出番である。古い昔の歌謡曲を保存することにしよう。でもこの古い歌謡曲、集めたのはいいが、それほど聴かない。まぁこれもまたコレクションというところか(笑)。

2006/09/21(木) チロという猫
 チロが我が家に来て約3週間、やっとこの家を我が家と思うようになったのか、とにかくよく寝る。午後から11時ごろまで眠っていて、その後起きて飯を食い終ると、遊んでくれとせがむ。仕方ないので遊んでやる。とにかくじゃれ盛りである。おかけで昨夜も寝たのが一時である。やれやれ・・・。

2006/09/20(水) ベンチャ−ズ
 今ベンチャ−ズを聞きながらキ−ボ−ドを叩いている。十番街の殺人、なつかしい。これを初めて聞いたのは中学一年の春、ダイヤモンドヘッドのシングル版のB面だったような気がする。
 あの頃、ギタ−のコ−ドを覚え始めたばかり、でもなぜか「禁じられた遊び」ある程度弾けた。今思えばいわゆる耳コピというやつなんだろう。
 家には兄の大切にしているナショナルのパ−ソナルステレオがあり、レコ−ドが終ると自動的に針が戻るオ−トリタ−ン式というもので当時のオ−ディオの最先端だった。本体はとっくに壊れたが、スピ−カ−は今でも大切にしてある。まぁ箱鳴りスピ−カ−であり、後に僕の買うヤマハのNS1000Mとは比べ物にはならないのだが、あの頃ずいぶんお世話になったものを壊れてもいないのにそんなに簡単には捨てられないのだ。
 さて、ベンチャ−ズをなぜ聞いているかと言うと、息子がウォ−クドントランをエレキで弾いていたからである。当時ベンチャ−ズが弾ければ羨望のまなざしで見られたが、ビ−トルズ、スト−ンズが世の潮流になると、ベンチャ−ズみたいなインストルメンタルバンドはバカにされ始めた。後の世にYMOが売れ始めたときに、僕はそれを知らず友人に質問したら、
「まぁベンチャ−ズみたいなものかな・・・」
と説明してくれた。なるほどと納得したものである。
 ベンチャ−ズで一番好きな曲は「キャラバン」で、後にジャズに狂っていたときには、やはりキャラバンを真っ先に買ったものである。エリントンのオリジナルであり、ベンチャ−ズとはあまりにかけ離れた演奏に夢中になったものである。そしてその後にあれほど好きだったベンチャ−ズのキャラバンをバカにするようになるのである。しかしである、今思うとベンチャ−ズはやはりすばらしいのだ。
 ベンチャ−ズの一番の功績は日本にエレキギタ−を普及させたことだと思う。モズライトというギタ−は当時のギタ−少年にとってはあこがれのギタ−だったのだと思う。思う・・と書くのは僕の時代にはすでにフェンダ−、ギブソンが主流であり、モズライトは古臭かったからである。モズライトというと、あぁベンチャ−ズがよく使っていたエレキね、と片付けられていた。
 かく言う僕の息子も最初ベンチャ−ズを一生懸命練習していた。パイプラインなどをやっていたが、友人とバンドを組んだ途端にベンチャ−ズをバカにする口ぶりとなった。それでいながらも結局最近はまたベンチャ−ズを弾いている。どうもベンチャ−ズにはそういうところがあるようだ。要するに基本中の基本なのである。馬鹿にするのならきちんと弾いてみろと言いたいところであるが、インストロメンタルの悲しいところで、主義主張がいまいち薄いのである。
 ベンチャ−ズ、たぶん永久に残るバンドであろう。ベンチャ−ズに始まりベンチャ−ズに終る。釣りで言えば鮒釣りのようなものである。
 

2006/09/19(火) 感動するということ
 最近は感動するということが少なくなった。昔はいろいろなことに感動したものである。映画、小説、詩、短歌、すべてにおいて、いろいろな人が評価して認められてきたものに感動した。ところがどうしてだろう、先が見えるというのか、手の内が読めるというのか、こうなってこうなって結果はこうだろうというのが見えてしまうのである。
 娘の影響なのか「タイヨウのうた」の映画バ−ジョンとTVの録画をすべて見た。見たといってもビデオなどは拾い読み、じゃなくて拾い見とでもいうのか、さ−っとではあるが。
 感じたのは映画とTVがまるで違うということ。かたや2時間、かたや45分の10回シリ−ズ、違ってくるのは当たり前だが、両者ともに次の展開が見えてしまうのである。これはある意味不幸である。ちょうど自分の寿命がみえてしまうようである。
 さて、映画のほうのエレアコのギタ−はタカミネかな??TVのほうは間違いなくフェンダ−のサンバ−ストのエレアコである。息子と二人で共通して感じたことは、エレアコなのにヘッドがストラトのヘッドなのでどうもいやだなぁということ。やはりエレアコの場合ペグは左右3個ずつ付いていてほしい。
 とはいえなんだかんだといいながらもTVのほうの「タイヨウのうた」を覚えてしまった。ギタ−を持ち出し娘と一緒にやってみる。
「お父さん、そこ違う!!」
と言われて、ありゃやっぱしという感じで唄う。どうも唄い回しが昔と違うのだ。覚えたつもりでも、細かい部分はダメみたいである。でもこの歌はYUIの歌よりも覚えやすいし、挿入歌だけありいい曲である。そうだなぁ少しは感動したのかなぁという気分である。
 感動が少ないこと、これはイコ−ルで早い話が年をとったことなのだろう。恋愛というものがないわけで、あったら不倫で困るわけだし、だんだんそういうときめきというものがない自分に気が付く。そのくせ趣味的なものだけは人より多いわけで、本来ならば、ビ−ルでも飲みながら毎晩巨人のナイタ−試合を見ている親父連中よりも感動は多いと思うのだが(僕はアンチ巨人です)笑。
 たぶんこれから僕にまっているのは、悲しみという感情だけなのかもれない。憂愁とか無常とか、人生がある程度見えてくる年代になるとそういうものしか見えなくなるのが怖い気がする。

2006/09/18(月) 暑くてだるい一日
 暑い・・・フェ−ン現象か・・。チロもだるそうにしている。冷房をいれてあげる。初体験だぁ・・。一番涼しい場所に陣取る。猫のいる場所にに行けば一番いい環境の場所にありつけるという。納得。
 息子は夕方、バンドの打ち上げということで一杯飲みに・・じゃなくて仲間と夕食に出かける。
 
 僕がバンドというものを組んだのは中学3年の夏、当時地元の青年会の人が古いドラムセットをただでくれるというので、喜んでバンド仲間とでかけた。たしかParlのバレンシアという当時一番安いドラムセットだと思う。
 ドラムス担当は喜んだが、まだ原付バイクの免許もない年である。どうやって運んだかというと、なんとリヤカ−である。リヤカ−にドラムセットを積んでほぼ3Km近い道のりをみんなで押していった。うれしかった。これでバンドが組める。
 次に悩んだのはエレキギタ−とギタ−アンプである。エレキはたしか同級生から通販のトマソンのエレキを借りた。ボ-カルはアコギ、僕がリ−ドでエレキ、ベ-スは無しである。3人でなんとかバンドを組んだ。バンド名はスパロ−ズ。すずめである。まぁふさわしい名前だったと思う。アンプはラジカセにつないで最高音量でやった。のちにそのラジカセは壊れることになるが、兄がエレキを始めてエルクだかの30Wアンプを買うまではそれを使っていた。
 そして、その秋、地元中学での最初で最後の文化祭バンド出演。たった一曲だけという約束で学校から許可が下りた。吹奏楽担当の社会科の堀先生が学校側を説得して許可を出してくれた。この先生、クラシック音楽に造詣が深く、社会科の授業にいきなり音楽の話をしてくれる。その先生から付けられた我々のバンドの点数は30点である。今思うと妥当な点数だったと思う(笑)。とにかく下手だった。その後の中学ではバンドという声もないそうである。
 演奏した曲は吉田拓郎の「人間なんて」。やっとハイコ-ドを覚えたばかりで、Bmのコ-ドを7フレットでやった。たまにリ−ドを入れたが、これはまぁおまけ程度。それでも反響はあった。何しろ下校するとき女の子からサインを求められたりした。正直嬉しかった。ガキだったなぁ(笑)。まぁ当時バンドなどをやっていれば、理屈抜きにもてた。目立つからである。
 当時僕は反抗期真っ盛り。ただ家族に対する反抗というものはまるでなかった。社会に対する反抗とでもいうのだろうか、兄や姉がいたので、ある意味耳年寄りだったわけだ。若かったよなぁ。今では反抗する元気もない(笑)。

 

2006/09/17(日) 文化祭
 息子の初ステ−ジを見に高校の文化祭に出かける。入り口でパンフレットをもらう。それに案内図が書いてあるのだが見るのが面倒くさい。視聴覚室でやるということは分かっているので適当に3階のほうにいく。たいがい視聴覚室というものは3Fにあるものである。勘はあたった、バンドのベ-スの音が聞こえてくる。音のするほうに向かっていくと、すぐ場所がわかった。
 自主バンドは一年から三年まで7団体くらいあり、一年生から順番みたいである。息子達のバンドは3番目。どんな演奏をするのかと待っていると、始まった。
 うん、まぁまぁか。始めて一年もたたないのによくここまで演奏できるようになったとほめてやりたい。親ばかもあると思うけど(笑)。
 感じたことは、ドラムスが女の子のせいか、他のバンドにくらべて迫力に欠ける。彼女は小学校の頃から知っているが、ブラバン出身である。ご存知のとおりブラバンのパ−カッションは面白くない。たぶんそれでバンドに転身したのだと思う。
 早い話が、息子のギタ−とボ−カル以外はすべて女の子である。うまい、下手は別としてどうも迫力がないというのが今回の感想。
 会場は熱気でムンムンである。青春だなぁと古臭い感想をもらしつつ会場を後にする。帰りに娘にアコギの雑誌「ゴ−ゴ−ギタ−」を買いにあちこちの大きな本屋に立ち寄るが売り切れでどこにもない。YUIの「タイヨウのうた」の影響なのか一気にアコギが流行っているみたいである。もちろん我が家のバカ娘も影響を受けている(笑)。受験生だというのに勉強もろくにせず、ギタ−に夢中である。もっとも親の背中を見て子供は育つというから無理もないか(笑)。

2006/09/16(土) バンド練習
 仕事から自宅に戻ると倅がまだ帰っていない。明日の文化祭のバント練習で遅くなっているみたいである。僕は夕食を食べてすぐにバンドの練習にいく。出がけに女房から絶対にお酒を飲んだらだめだよと念を押される。わかっている、飲酒運転をしたら一生がパァである。最近はすごい事になっている。連日連夜飲酒運転のNEWSである。
 さて、久しぶりの練習、メンバ−はすっかり以前のパ−トを忘れている。終わりごろになりやっと調子が出てくるという始末である。無理もない、僕もギタ−を毎日手にしているがバンド用の練習は何もしていなかったのだから。
 さて、帰り、近くの遅くまでやっているス−パ−でチロのおみやげのためにかわはぎの乾き物を買いに行くと、女子高生だろうか、バイクに乗っているところを警察に尋問されていた。笑っているところを見るとたいしたことはないみたいである。
 家に帰ってチロと一緒にカワハギを肴に焼酎をあおる。11時ごろ帰ってきた僕を待っていたのはチロだけであった(笑)。

2006/09/15(金) グヤト−ン再生プロジェクト
 やっとグヤト−ンのパテ埋めと一次塗装が終わった。本来裏もサンパ−スト仕様なのだが、残念ながらパテ埋めがあるので裏面真っ黒である。
 ピックガ−ドもシンナ−中毒になりつつもなんとかきれいにすることが出来た。染み込んだようなところがあるので全体に平均にサンドペ−パ−で削り、細かい傷をコンパウンドをかけてつやをある程度は出すことが出来た。
 こういうことに一生懸命になれるところが、あぁ、まだ若いよなぁと自分をほめてしまう。もっとも誰もほめてはくれないからだから(笑)。
 一番近くにある唯一の楽器屋さんでボリュ−ムとト−ンのノブ、ネックのナット、ストラップ用のビスを調達してきた。あとはサドルとブリッジだが、これが一番高い。サドルが2800円、トレモロア−ム付きブリッジが4000円くらいである。フェンダ−のジャガ−用である。
 フレットはなんとかフレットワイヤ−を打ち付けたし、まずまず順調というところ。
 明日は透明のクリアラッカ−を全体に吹き付けてからしばらく乾燥まで休止である。そのあとコンパウンドがけをすればとりあえず今月はそこまで。
 なにしろ小遣いがなくなった。来月の予算でブリッジとサドルを購入しよう。ゆっくりとやればやるほど楽しみも多いというもの。
 そこでふと考えたが、このグヤト−ンを誰が使うのか。自分か倅か娘か・・・。こういうギタ−はギブソンとは対極にある別の意味で家宝になるのかも。まぁ親父の場合はベンチャ−ズ専用エレキというところか(笑)。
 

2006/09/14(木) 煙突
 僕の部屋から煙突が見える。この町に唯一ある造り酒屋の煙突である。この煙突は僕の子どもの頃からある。しかし煙が出ているのは見たことが無い。
 子どもの頃、小学校にあがるくらいまでは僕は病弱でよく入院した。病院からこの煙突をよく見ていたのである。病室にはあの頃はやりのソニ−のトランジスタ−ラジオが壁に下がっていて、それをよく聞いていたものである。
 ラジオから流れる様々な歌は今となってはよく覚えていないが、たぶん美空ひばり、伊藤ゆかり、江里ちえみなどを聞いていたのだろう。なぜそう言えるかというと、どういうわけかギタ−を持って唄えるのである。それらの歌は懐かしさを伴ってつい唄ってしまうのである。
 あの頃の歌謡曲というものは、外国の曲の和製バ−ジョンが多い。和製ジャズというものがあり、それはジャズから遠くはなれていて、それでいながら見事に歌謡曲に昇華されている。これはこれでいいものである。
 ロカビリ−などはあまり聞いた覚えが無い。たぶんラジオのチャンネルはNHKだったのではと推測している。

 煙突というものは町に必ず一本はなくてはならないというのは僕の定義だが、煙突のある町も少なくなった。昔はこの町にも銭湯があったと聞くが、今はもうない。銭湯の代わりにあるのは温泉である。右を向いても左に行っても温泉がある。この町の温泉は銭湯と違って情緒が無い。松之山温泉や野沢温泉のように歴史があるならともかく、工事をしていたらたまたまお湯が出たとか、人工的に800Mも掘ってやっと温泉がでたとかいうのでは情緒が無いのも無理はないが。
 旅行などで温泉に行くと、別に珍しくもなくなっているので、ついた日の夜一回、翌朝二日酔い治しに一回くらいはいれば沢山である。ご馳走も最近は口が贅沢なのでそれほど食べたいとも思わない。
 今の時代に一番の贅沢なことはたぶん時間をもてあますことだと思う。カメラでも持ってぶらぶらと。これが本当の旅行だと思う。もちろんその町には必ず煙突がなくてはいけない。

2006/09/13(水) フレッド打ち
 さて、ロ−レンスのブラッキ−ストラトは完成に近づいている。ピックガ−ド等のパ−ツを取り付け、本日ハンダ付けをして出来上がりなのだが、、音が出るんだろうなぁと一抹の不安を抱いている。というのは、配線が2本切れていたので、あいているところにハンダ付けしたからだ。電気が全く駄目なのでこういうときには・・・・。
 で、同時に次のグヤト−ンのストラトもどきのペイントをしている。ボディはやすりがけ等々、2回目なので、前回よりはうまくなった。問題はフレッド打ちである。カワイのアコギはまぁなんとかなったが、今度はワイヤ−で買ったものを付けなくてはいけない。フレッドすり合わせはかなりの熟練を必要とする。
 昨晩どうしてもフレッドワイヤ−が必要となった。というのは息子の安いフォトジェニックのストラト、まだ新品で一ヶ月たたないというのに、なんとフレッド減りで5弦の3フレットでビビリがでるのだ。
「おとうさん、これどうしよう・・・」
と持ってきたので良く見るとフレッド減りである。材質が悪いのだろうか、3フレッドが減っているために4フレットに弦が当たりピピルのだ。信じられないことだがこれ事実。さすがフォトジェニックである。それともこのストラトだけはずれだったのか(汗)。

 息子は練習にギブソンのSGを持っていった。できれば文化祭のコンサ−トにビルロ−レンスを使わせてあげたいのだが。本当はまだ乾燥が間に合っていないのだが・・・最低一ヶ月と考えていたが(笑)。緊急事態である。

2006/09/12(火) 縄文の里
 この町の縄文遺跡は考古学の世界では有名である。大学の考古学テキストの最初のところに津南町、沖の原遺跡が登場する。しかし、地元の人はそんなことは全く知らない。子どもの頃から土器には親しんできた地域である。土器など珍しくも無いのである。子どもの頃小川の中に手を突っ込めば沢山の小石と共に土器のかけらが混じっていたし、畑を耕せば、こつんという音がするので石だと思い、よくよく見るとそれは土器のかけらだったりした。
 今自分が土器のにせもの(笑)などを作っているのはちょっと変なのだが、どうしてこうなったのかもよくわからない。作るのは実は陶芸をやっているので簡単なのだが、このあと半乾きで磨きをかける、これが大変である。なんかギタ−に磨きをかけている作業と似ている(笑)。
 画像は現在進行形の3個目の土器である。今年はこれで最後にしようかなと思う。また雪が降って仕事が暇になったらこつこつと作ろうと思う。

2006/09/11(月) 文化祭
 高校の文化祭の次期である。息子がやたらと貸スタジオに通っていると思ったら、どうやらステ-ジに立つらしい。ところが親父にはまるで教えない(笑)。
 今夜も夜に練習に行ってきたらしい。いつやるのかと聞いたら、やっぱり教えてくれない。ビルロ−レンスのストラトをくれないぞと脅したら
「下手だから・・・」
と白状した。下手は分かっている。みんな最初は下手である。だけど、仲間でバンドをやって終わった後の充実感はなんともいえない。大人になると当然打ち上げで一杯飲むことになる。この酒が実にうまい。最終的にこの酒のためにステ-ジに立つようになる。大人は困ったものである。
 昔はロックバンドをやっていると不良だというイメ−ジがあった。でも今はそんなことはない。おぼっちゃま、おじょうちゃまである。

2006/09/10(日) 大地の芸術祭
 女房がどうしても見たい物があるというので仕方がなく大地の芸術祭を見に行く。見たいというのは十日町市中平地区にある作品。ぶな林の中にビ−ズで作った花を二万本だったかな?を挿したもの。実に根気のいることである。そういうところも撮影したが、その裏にある村の神社、こちらのほうが興味があって、撮影枚数は当然多い。
 さて、そこから山道を行くこと5分、十日町市の鉢というところの有名な石仏群を見に行く。ここにも前回の大地の芸術祭の作品がある。しかし、それよりも本来の大地の芸術はやはり鉢の石仏群であろう。見事である。
 この場所には思い出がある。高校一年生のとき、つまりちょうど今の息子の年齢であるが、ここに遠足で来たことがある。何かレクレ−ションということで、歌を歌ったりすることに決めたらしい。でも遠足、適当な伴奏楽器がない。そこでギタ−の登場である。誰かに弾いてもらおうということになり、当然のように僕に白羽の矢が当たったわけである。
 当時、僕は多分学校で一番ギタ−がうまかったと思う。いや自慢ではなく、本当である。音楽クラブの3年生でさえかぶとを脱いだという話は後から聞いたのだが。まぁしかし僕がうまかったというより、ほかの人たちが下手だった・・とういうのが本当なのだが(おっと、これはもっと失礼か)。
 さて何を歌ったのかはあまり覚えていないが、3曲くらいやった気がする。陽水の「東へ西へ」だけはよく覚えている。

 あれからひと世代まわったか・・と石仏群に手を合わせた。神も仏もないものと普段思うが、こういうところへ来ると、先代の人たちの苦労を思いなぜか敬虔な気持ちになる。そして自然な気持ちで手を合わせてしまう。これはやはり信仰なのかもしれない。

2006/09/09(土) チロがチョロチョロ
 チロが我が家に来て約1週間が過ぎた。もうすっかり我が家の家族である。ほとんど家の中は探検した。
 さて、チロの写真を撮ってくれと女房に言われてデジカメで簡単撮影。ブリンタ−で5枚くらい印刷した。これをもって女房は職場へ。どうして写真が必要かというと、職場での猫自慢である。
「うちの猫はかわいいよ〜」
「うちの猫もカワイイヨ〜、昨日なんてさ〜・・・」
ということで話の花が咲くらしい。
 さて、写真を持っていくと職場のみんながかわいい、かわいいと言ってくれた。その中の一人がじっくりと写真を見て、かわいいわねぇとしみじみ。でもその後で思い返したように
「でも、やっばりうちの猫のほうがかわいいなぁ」
と一言。

 そういうものである。自分の家で飼っている猫が一番かわいいのである。だから猫自慢なのである。自分の家の猫より人の家の猫がかわいいと思ったら・・これも困る(笑)。

2006/09/08(金) 鳥塚しげきモデル
 ネットでいろいろとグヤト−ンを検索。必ず登場する成毛滋、いろいろと見ていたら彼は腱鞘炎が元で現在ギタ−が弾けなくなったということ。残念。

http://www.ne.jp/asahi/chelseas/terrace/DSA/menu.html

 このサイトでグレコのギタ−が出てくるが、かくいう僕も最初のエレキはグレコである。おまけについてきた教則本とカセットテ−プは僕も持っていた。これでずいぶん練習したものである。

 そこで結局グヤト−ンのエレキはストラトのコピ−とはいえピックアップがふたつしかなく、コントロ−ルもボリュ−ムとト−ンのダイヤルふたつ、そしてブリッジ周りはジャガ−タイプなのである。そして70年代のエレキで鳥塚しげきモデルのコピ−ということがわかった。
 鳥塚しげき??誰それ・・と言う人もかなり多いと思う。グル−プサウンズ時代の大御所バンド、ワイルドワンズのメンバ−である。すごいですねぇ・・クラプトンのブラッキ−ストラトに対抗して今度は鳥塚しげきのグヤト−ンコピ−です。。
 ワイルドワンズは僕が小学校5年生の頃が全盛時代、僕の姉が好きで「思い出の渚」のシングルド−ナッツ盤を持っていた。当時コンポなどは無く、あの頃の音響機材はプレイヤ−と呼ばれるもの。ソノシ−トという薄っぺらなものもあったなぁ。
 同時にベンチャ−ズも最先端で、日本に来日して、ついでに日本風の曲もたくさん作っていた。「京都の恋」「二人の銀座」などなど名曲が沢山ある。ビ−トルズは翌年くらいにはレット・イット・ビ−の最後のアルバムを残してすでに解散。
 当時日本は高度経済成長のピ−クだったのかもしれない。大阪万博がその象徴である。その後オイルショックなどで経済は混乱してくるのだが。

 さて、このグヤト−ン、表の塗装はサンバ−ストで結構きれいである。せっかくのグヤト−ンである、なるべく当時のままでリペアしたくなった。全塗装のほうがきれいになるのだが、それではビンテ−ジエレキでなくなる。裏がハゲチョビなので裏のみブラックにして(一本198円のバ−ゲンスプレ−ラッカ−がまだ2本余っている)、境目をうまくサンドペ−パ−でごまかし境目を無くしてから全体に透明ラッカ−をかける。
 ブリッジ等のパ−ツはジャガ−用のものを使えばいいが、当然ピックアップはオリジナルをなんとかしたい。とはいえ音が出るかどうかさえまだわからない。ピックガ−ドは、赤のへたくそなスプレ−がけを落して、本来の白にしたい。
 さっそく裏側バックの塗装はがし。スクレイパ−の登場。はがしていて気がついたが、大きいシ−ル、なぜかフェルナンデスのシ−ルが貼ってある。これをはがすと、なんとベニヤ板。見事合板である。つまりボロかくしにシ−ルが貼ってあったわけである。表はサンバ−ストなので見事なメイプル木目模様。しかも薄いスライスされたもの。よくまぁこんなに薄くと感心してしまった。ここは例によってパテ埋めの平面出し(またか・・・汗)。
 ブラッキ−ストラトが乾燥するまでにこちらをぼちぼちと・・。

2006/09/07(木) 本塗装
 いよいよ本塗装にとりかかった。ゆっくりとしつこく、たがこのしつこくがいけなかった。タレが・・・(汗)。
 乾燥、硬化後またサンドペ−パ−が待っている。うう・・・。

2006/09/06(水) 捨て塗装
 ネットで調べて捨てスプレ−をやってみた。あるある(笑)、でこぼこが。自分では平面だと思っていてもぜんぜん駄目である。結局またパテ埋めして平面をだした。今度は大丈夫だろう。あせらずゆっくり。

2006/09/05(火) センチな気分
 久しぶりに昔さんざん聞いたクラプトンなどを聞いている。というのは息子が「いとしのレイラ」なんぞのフレ−ズを弾いていたからで、突然あの頃の思い出がよみがえってきたわけである。
 高校三年生の頃、毎日のようにクラプトン、ボブディランを聞いていた。聞きながらの読書、勉強などは自宅ではほとんどしない。学校ですべてを済ませていた(笑)。
 今、ディレク&ドミノスのアルバムを聞いていると本当になつかしい。不思議なのだが、当時の僕はツェッペリンにあこがれてジミ−ペイジのようにギタ−を弾きたいと考えていた。当時バンドもやっていたので、アドリブのフレ−ズは当然僕はペイジのフレ−ズに似ていた。ところがクラプトン好きの友人はクラプトンのフレ−ズに似ていた。でも今懐かしいと感じるのはクラプトンである。
 ブリティシュロックという言葉があり、当時のロックはほとんどがイギリス、ビ−トルズを生み出した国から次から次へとス−パ−ギタ−リストが登場した。
 僕はブル−スが好きだった。でも今思えばそれはブリティシュブル−スであり、本場アメリカの黒人ブル−スとはかけ離れたものだった。後にBB・KINGの泥臭いブル−スを聞いて驚嘆したものである。しかしその頃にはギタ−を弾ける環境にはなくてしばらくは遠ざかることになった。
 音楽といえばカラオケで日本の演歌ブル−スを唄うというおばかさんであった。東京にいたとき、何かというと「新潟ブル−ス」という歌を唄わされた。その時いつも心の隅でブル−スという言葉に違和感を抱いていた。
 そんな環境でも、たまに高校生がギタ−を持っていたりすると懐かしくて借りて弾いたものである。そのときに弾いたものはブギとかである。それでも高校生からは尊敬の目で見られた。もちろんアドリブである。ブル−ノ−トスケ−ルを使うだけのたいしたことはないものだが、適当に弾くと結局ブル−ノ−トになるのである。
 クラプトンが単なるブル−スギタリストではなかったことは最近の曲を聴けば明らかなのだが、クラプトンを懐かしいと感じる裏には、やはりポップスセンスが抜群だったことであろう。クラプトンのフレ−ズはメロディラインがすばらしいのである。
 黒人の泥臭いブル−スを初めてエレキギタ−でロックに載せたのはジミヘンであることは間違いないのだが、彼のサイケテリックサウンドは貧乏人の僕にはついていけなかった。自分自身の地味な性格もあるのだが、派手さを押し出すサウンドは憧れこそすれ、コピ−しようという気になれなかったのだ。性格的に惹かれたのはロイ・ブキャナンのようなギタ−リストである。彼の地味さは僕の性格に妙にフィットした。あの頃はテレキャスタ−が欲しかったになぁ(笑)。
 それから暫くするとフラメンコ系のギタ−リストにあこがれた。パコ・デ・ルシアなどは僕にとって今でも神様である。フレ−ズは当然スペイン風となる。当時パ−プルにいたリッチ−ブラックモアがレインボ−を結成したとき、そのフレ−ズがスパニッシュ調になっていたのが妙に気に入ってよく聞いたものである。
 あの頃何を考えていたのかよくわからないが、この年齢に達してみると、未来という時間がすべてを決めていたような気がする。自分の二人の子供がギタ−を弾き始めて、親父として何をしてあげられるのかを考えてみると、結局ギタ−を教えることではなく、せいぜい安い機材を揃えてあげることくらいなのに気がつく。ギタ−の弾き方にもカントリ−系の2フィンガ−3フィンガ−、カ−タ−ファミリ−ピッキングなどは今の子供たちにはあまり縁が無いみたいだし、せいぜいストロ−クの基本などを教える程度なのかもしれない。譜面もやたらとタブ譜があるし、我々の頃のように耳で聞いてコピ−しまくった時代はもはや終わっているのだろう。
 そういえば10月の初めに「月あかりコンサ−ト」に出演することになっている。バンドの練習をしなくてはいけない。センチになっている暇はないのだ。今だに現役なのだ(笑)。

2006/09/04(月) いとしのチロ
 チロはすっかり我が家の猫になった。じゃれるのが激しくなった。安心したのだろう。昼間はほとんど寝ている。だからねこと言うのだと思うが、夜になると遊んでくれとせがんでくる。
 チロは何でも食べる。今までに食べたもの、パン、寿司飯、枝豆、お刺身、赤飯、かぼちゃ、ちくわ、数え上げるときりがない。一番かわいい盛りである。

2006/09/03(日) 祭り
 本日は当地域のまつりである。カメラを持ち出す。どっこい銀塩ではない、デジカメである。情けないがデジカメは金がかからないという消極的理由である。
 さて、名物の青年会のみこしである。消防団とだぶっている人が多いので、消火栓の水の点検をかねてみこしが来ると水をかけられる。悪乗りで一般の人もびしょびょにされる。撮影するのも必死である。カメラを濡らさないように、つかまらないように逃げながらの撮影。それでも150枚くらいは撮影。これをチェックするのがまた大変である(笑)。

2006/09/02(土) 土器どき
 ギタ−のリペアと同時進行で作成している物がある。おなじみの土器である。ま、一般の人にはお馴染みでもないと思うが、体験実習館「なじょもん」より依頼されていたもの。

 もうひとつ、隣の十日町市、中条の小学校の先生より依頼されたものも作っている。この先生、若い女性であるが、なかなかパワフルな先生で、顔を30センチくらいまで近づけて「お願いします」と言われた。これはもう作るしかない(笑)。
 そこで、粘土さえあれば作れるよと言ったら、
「粘土ならあります。子供達の父兄に土建会社の人がいて、粘土なら持ってきてくれるそうです」
「それじゃトラックに一杯積んできてよ、2トン車くらいでこのへんにまけていって」
 と冗談に言ったら・・・・・本当に2トン車に積んで持ってきてくれた。これはもう作らないわけにはいかない。

 土器といっても観賞用なら簡単だが、実際に煮炊きできる使える土器である。これはかなり気合を入れなければいけない。つまり、磨きまでかけて、焼成後に目止めをしなくてはもれてしまうのである。二重、三重の手間がかかる。
 焼成,目止めが終わり、実際に水を入れてお湯が沸くまでというと気の長い話だが、10月の始めに子供達の体験で使いたいということなので、乾燥を考えるとぎりぎりである。うまく行ってくれればいいのだが・・・(汗)。

2006/09/01(金) パテ埋め
 さて、黒の塗装をすべて落とした。指を少し切ること3回、だんだんコツも分かってきて、平面の部分はペラペラと落とせたが、曲面、つまりネックの付け根あたりはかなり時間がかかった。
 次の処理、やたらとドリルだか何かで穴を開けてあるので、ここを木工用パテと混ぜながら爪楊枝をくまなく立てていく。こうして一日置いてからニッパで切り、そのあとサンドペ−パ−をかける予定である。
 


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