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2007/01/20(土)
階段と赤サビのドアの記憶
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あれは僕が幾つくらいのときだったのでろう。母に連れられて飯山線という田舎の単線列車に乗って、長野市に行った記憶がある。兄妹3人の中の僕だけを連れて行ったのだから、恐らく僕が小学校に上がる前の頃だったのだろう。兄と姉はたぶん学校があったのだと思う。自分だけが特別扱いをされたようで嬉しかった。
列車で一時間半くらいだろうか。滅多なことでは遠くに連れて行ったもらえなかった頃なので、嬉しくて仕方がなかったのを覚えている。 目的は後で後で知ったことだが、長野市の病院に入院している母の弟、つまり僕の叔父のお見舞いに行くことであった。その頃はまだ当たり前のように蒸気機関車が走っていて、途中戸狩という駅で乗換えをしなくてはいけない。その間の待時間は結構長かったのを覚えている。 病院につき、病室に入ったときの叔父の神経質そうな顔は、今でもよく覚えている。そして、それが叔父に会った最初で最後であった。 何かの事情で、帰り際、病院の外で待たされていたのだと思う。随分長い時間だった。病院の正面玄関に飽きた僕は、病院の西側にまわり退屈さを紛らわせていた。そこには少し汚れた白い壁があり、その中央にへばりつくように階段が付いていて、そこに鉄製の赤いドアが付いていた。その赤いドアはさび付いていて、妙に僕の心を不安にさせた。今思えばムンクの絵のような記憶として残っている。言葉で言い表せない不安、もしかしてこのまま母は迎えにこないのではないかという思いもあったのかもしれない。 やがて西日がそのドアに当たる頃、僕はそのドアに付いている丸い取っ手に気がついた。夢遊病者のように階段を登りそのドアに近づくと、その取っ手を引いてみた。ギィ−っさび付いたような音がしてそのドアは少し開いた。 その時、後ろで母の声がした。僕が振り返ると、そのドアは自重でバタ−ンという音をさせてまた閉じた。僕は母のところに夢中で駆け出していた。たぶん泣いていたのだろう。
記憶というメカニズムがどうなっているのかは知らないが、あの時のさびたドアの閉じるときの音とは今でも鮮明に思い出すことが出来る。後にそのことを母に尋ねたことがある。母は笑いながら、長野の病院に連れて行ったことは覚えているけど、そんな事は覚えていないと笑っていた。 しかし、母はちょっと気になるとことを言った。たぶんお前が開けようとしたドアは結核病棟の場所じゃないかと。その頃は、ストマイなどが出てきて、結核などは不治の病では無くなっていたのだが、結核患者は沢山いて、その病棟の裏口はたぶん、亡くなった人を運び出す場所だったんじゃないかと。 記憶、それは匂いであったり、光景であったり、音であったりと、人間五感のすべてがあてはまるものらしい。特に匂いは、脳の別の場所に中枢があり、他の四感に比べていつまでも記憶にとどまるらしい。 写真などを見ていると、それはつまらない写真なんだけど、妙に心に引っかかるということがよくある。そしてそれに匂いが漂うことがある。そんなとき、もしかしたらこれが僕の心の中にある原風景なのかと考えてしまう。 今でも時々あの頃の夢を見ることがある。どこかへ連れて行かれるような不安感の夢と、もうひとつははっきりと色の付いたあのドアの夢である。どういうときにその夢を見るのかはわからないが、寝酒をしないときのような気がする。 この、なんともいえない不安感であるが、ムンクの「橋の上の少女達」という絵を見たときに、同じように感じるのである。有名なムンクの「叫び」では何も感じない。 ムンクの絵の中には、似たように橋の上に少女たちが立っている絵は何枚かあるが、たった一枚、一人だけ後ろ向きに立っている絵がある。この絵である。この絵だけが僕を不安にさせる。
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