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2004/12/18(土)
レアやらなんやらで一喜一憂する意義
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久々に大物レアが出ました!
混乱8を通過中、適当に叩いたキリキアたちから
つ剣闘士兜 つ90メイス
剣闘士兜は1131の最低補正。。。 90メイスはほぼ需要なしと思われます。
微妙・・・。
その他にはサンタからレッドハーブなどをもらいました。
いい加減にしておくれ!(ノ`△´)ノ
サンタ帽集めるの大変なのにこれかいorz。。。とついなるものの、ゲームでの努力など、余暇の時間に、楽しいからという理由だけで、あえて自分が選択してやっているのでなければ、まったく意味がありませんので、夢を見ながら、ユキダルマンを追いかけることが虚しいと感じたら、諦めるべきなのでしょう;
ネトゲそのものにも言えますが、ネトゲに費やす時間とは、人生の中でもっとも無駄で馬鹿げたことであることに間違いはなく、それだけに退廃的な楽しさがあるわけですが、楽しくなかったり無理しなくてはいけなかったら、意味がないし、その手の努力はもっと建設的なことに向けるべき;
ゲームとは決して誉められたことではないけれど、やっていて楽しくてたまらないから、結果的に自発的に努力してしまうものであって、まず努力ありきではないってことなんでしょうね。
でもまあ仮想の中で、レアが出たの出ないの、勝ったの負けたのだなんてことで、一喜一憂できるっていうのは、実はすごい贅沢なことではないかと思います。
ネトゲで味わう喜怒哀楽のすべてが、人生の余剰分である贅沢にすぎる感情なのです。
アイスクリームの歌に「おとぎ話の王子でも昔はとても食べられない」なんてフレーズがあるんですが、昔は王侯貴族でもこんな娯楽は味わえなかったに違いありませんから。
されど、「1974年のピンボール」の作者でもある村上春樹が、1本の歯ブラシにさえ哲学を見出すことはできるとエッセイで書いていたのと同じことが、ゲームにも言えるかもしれません。 (上記の例ではちょっと皮肉混じりだったんだけど、肯定的な意味でもね)。
※「1974年のピンボール」は青年期の理想と現実の狭間にある鬱屈した感情とディスコミュニケーションを、ゲーム(ピンボール)をモチーフに描いたある種、白日夢的な構成の作品。 ノーベル文学賞を受賞をした大江健三郎の「万延元年のフットボール」のアンサー的な作品でもあると思われる。 (日本文学専攻みかんの独断と偏見による豆知識より;)
とりあえず、ネトゲを存分に遊べる環境にいる今の自分に感謝★
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