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2004/05/16(日)
永井秀樹
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永井秀樹という男を覚えているだろうか。Jリーグ元年から当時のヴェルディー川崎の中心メンバーとして活躍していた攻撃的なMFの選手である。日本代表候補に入った事もある永井は横浜時代の99年には年俸は5000万を越えていた。そんな永井は2001年に古巣ヴェルディーに復帰するも、若手主体の体制に切り替えていたチームの中で出場機会も少なく活躍できないまま、2002年11月に屈辱の戦力外通告を受けた。永井の実績から数チームのオファーはあったものの結局は入団には至らなかった。永井は引退は考えず、そこから浪人生活が始まった。どこのチームにも属さず収入がないため、サッカー関係のイベントでなんとか食いつなぎ、孤独な練習を続けた。そして2004年2月、あるチームの入団テストを受ける事になる。永井の地元である大分トリニータだ。地元大分では永井は中学時代、全国大会決勝で2ゴールを挙げて日本一を経験している。高校では親元を離れ名門国見高校へ進学した。両親はその時永井が残したありがとうと書かれた手紙を見ると今でも涙が出てくるという。入団テストで一番の課題は一年のブランクとスタミナとなる。年令的にも33才の永井にはスタミナ不足が懸念されていた。そして迎えた入団テストを兼ねた練習試合ではアシストを決めるなど、素晴らしいプレーだったが、後半にスタミナ切れした。そのため、永井に合格は通達されず、テスト継続となった。合格できず複雑な中、永井は2月中旬、サガン鳥栖との練習試合が最後のチャンスとなった。サッカー人生をかけたこの試合で、永井はトップ下で先発して、アシストはないものの何度も決定的なパスを供給した。問題のスタミナ面も後半に足が止まる事はなかった。あとは結果を聞くだけ。その夜、永井は大分の実家で両親と一緒に連絡を待った。両親は言った。やるだけの事はやった。そして運命の電話が鳴った。結果は合格だった。ようやく笑みがこぼれた。永井は5月9日鹿島アントラーズ戦の後半から出場して、一年半ぶりにJのピッチに戻ってきた。一時は5000万を越えていた永井の今季の年俸は600万。しかしお金だけではない。また永井のサッカーが始まったのだ。同じ九州の人間として彼の活躍を期待している。
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