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2004/11/17(水)
臓器移植
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本日は、大学の課題で臓器移植についてレポートを書いていました。 皆様、臓器移植をどう思われますでしょうか。 特に、脳死における臓器移植です。 ちなみに私は、臓器移植賛成派でした。 しかし、様々な資料を読むうちに賛成とも言い切れなくなっています。 脳死は、確実な個人の死だと思います。 そもそも人の本質はというのは情報で、生きてきた記憶の差異そのものが個体の区切りだと思っています。 だからこそ、遺伝子が同じでもクローンは同一人物たり得ないのでしょう。 ですから私は、死後の体が利用されるのは単純に良い事だと思っていたのです。 動植物を殺して利用しておいて、死んだ人間を利用しないのはおかしい。 呼吸し体温があっても死体は死体、執着する理由も無い。 体というのは、動く仕組みを持つ有機的な機械だと思っていたのです。 けれど、自分でも割り切れていない部分に気付いたのです。
それは、長期的な脳死体の保存についての構想でした。 体を生かしておいて血液を採取したり、実験に使うという構想です。 確かに新鮮な血液が手に入り、無駄な動物実験の解決にも繋がるでしょう。 しかし、これには感覚的に追いつけません。 どうしても、生理的に恐怖を感じます。 自分の体や知人の体が、死んでもずっと保存され利用される。 それは、体が完全に物資として利用されるということです。 映画MATRIXで見た、栽培される果実の様な人間の姿が思い浮かびました。 死体は物質です。 しかし、不気味だと感じる以上私自身も割り切れていないのです。 多分、死体は朽ちるのが自然だからでしょう。 誰かの生命が失われたら、その人の体は朽ちて失われる。 そして徐々に縁者が消える中で、個人が完全に消えていく。 それが生命の自然な姿なのです。 体だけが残っているのは不自然で、だからこんなに違和感があるのでしょう。 しかしそれを言えば、臓器移植によって死すべき人が助かるのもまた不自然なのです。 ‘体’は、どこまで‘物’として扱われるべきなのでしょう。 これはとても興味のある問題です。
「死線同盟」←一番明確なはずなのに、曖昧でしかない境界 http://homepage3.nifty.com/believeisvanity/doumei.htm
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