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2004/10/19(火) モンスター
この映画を観るにあたって
まず心に留めておくべきは
何故売れっ子美人女優のシャリーズ・セロンが
13キロも増量して特殊メイクして
ブヨブヨの腹を晒して「イメージ下がるよ」と
まわりに心配されるのも構わずに
この役を演じることを選んだのか、という点だ。

二コール・キッドマンが「めぐりあう時間たち」で
やはり特殊メイクで別人のようになって
作家ヴァージニア・ウルフを演じて
アカデミー賞主演女優賞を獲ったから?

確かに、シャリーズ・セロンも同じ賞を獲った。
しかし、それは単なる結果だ。

授賞式でのスピーチは、こうだ。
「この世界で私の夢をかなえるために、
いつも多くのことを犠牲にしてくれたお母さん、
言葉にできないくらい愛しているわ。本当にありがとう」

彼女・シャリーズが15歳の時、
アルコール依存症の父親が自宅で銃を乱射し、
娘のベッドルームを破壊するという事件が起こる。
「お前たちを殺す」とわめく彼が本気であると見た母親は、
自ら銃を取り、娘の目の前で夫を撃ち殺してしまう。

裁判では、母親の正当防衛が認められたが
夫をわが手で殺してしまった母親の心には
深い傷が刻まれたに違いない。
そして、娘シャリーズの心にも。

このことを胸に、映画を、
シャリーズの鬼気迫る演技を見ていると
そして、上記の授賞式でのスピーチを思い出すと
もうこれは映画なのかなんなのか分からない。
少なくとも、彼女が自分自身を重ねるのに
この役がこれまでで最もふさわしかったのは、間違いない。

2004/10/18(月) WALK ABOUT
デヴィッド・ボウイ主演の映画
「地球に落ちてきた男」の
ニコラス・ローグ監督、幻の最高傑作。

これが宣伝文句。
何それ?幻?ローグ?
という声も聞こえてきそうだが
予告編の圧倒的な美しさに誘われて出かけた。

映画の中で、何かが起こっている。
久し振りに、そんな映画を観た。

劇映画というのはつまり、
カメラの前で「芝居」をやっているわけで
「現実」を映しているドキュメンタリーとは違う。
違うはずなのだが、その「芝居」が
虚構を超えて「現実」と化していくような
奇跡的な映画が、時折出現する。

例えば、コッポラの「地獄の黙示録」
あるいは、ヘルツォークの「フィツカラルド」

ほとんど狂気ともいえる執念に憑かれた監督が
もはや虚構とは言えない撮影現場を作り出して
そこにいる全ての人間が、
その中に取り込まれてしまう。
その様子が、フィルムに収められてしまっている。

上記の2本はたぶん、そういう映画だ。
「WALK ABOUT」の監督は
たぶん狂気に憑かれてはいないだろうけれど
色んな要素がこの映画を特別なものにしている。
少なくとも、私にはそう思える。

CGが入り込んだ映画では
絶対にこういうことは起こりえない。
映画の中で、何かが起こっているような映画。
それは、
あの時代だからこそ可能だったのかもしれない。

2004/10/17(日) 維新派、ちょっと復活。
私にとっての維新派の最高傑作は
1998年の
ヂャンヂャン★オペラ「王國」である。

この作品は、
王國三部作の第一作として上演された。

大規模な野外劇場とセットで
他に類を見ない維新派が3年連続で
三部作をやる、という意気込みが
この作品に込められていた。

維新派の公演では
とにかく巨大なものが出てくる。

普通、芝居だと
セットは建て込まれて動かず
その中を役者が動き回る。

しかし、維新派の場合
セット=静的、パフォーマー=動的
という対比が逆転する。

パフォーマーの動きと台詞は
ミニマルでむしろ単調でさえある。
しかしそれは逆に、
動く巨大セットを際立たせる。

「王國」では
この巨大セットの質と量が
それ以前と比べて飛躍的に向上した。

街の全景、遠くに沈む夕日。
ビルの屋上から、非常階段を伝って
マンホールを抜けて都市の地下へ。

動く機械、流れる煙
現れては消える巨大なオブジェたち。
とにかくもう次から次へと
途切れることの無いイメージの連続で
怒涛のような作品だった。

が、あれが頂点だった。
それ以降、お金がなくなったのか
セットはシンプルかつ小規模となり
だんだん見ていて寂しくなってきた。

その後は、大阪を離れて
風景自体がセットと言える場所で
公演したりしていた。
お金がないので借景いくのか、と思った。

で、久し振りの大阪である。
期待半分、どうかな?半分で観に行った。
これがなかなか良かった。どこが良かったか?
お金が無くても見せる工夫が良かった。

「王國」では、本当に次から次へと
いろんな場所のセットが出てきたんだけど
「キートン」では、巨大なセットは2つしかない。
巨大な斜面と、回る左右二つの巨大な輪である。

巨大な斜面は計三回出てくるが
最初は斜めに電信柱が並んでいて
2回目は何も無い斜面を縦横無尽に人が歩き
最後は斜面のあちこちに穴が開いていて
そこから人が次々に現れては斜面を滑り落ちていく。
巨大な斜面の合間には巨大な輪が登場し
最後には全てが同時に登場して豪華な感じになる。

要は、一つのセットにいくつもの表情を持たせて
何回も使えるようにしているのである。
これは考えたな!と思った。
本当に、工夫次第で色んな見せ方が可能なのだ。

そのことを学び、スキルアップした維新派は
これからまたしばらく面白いのではないか?
と思った。また来年の10月が楽しみだ。

2004/10/16(土) 夜回り先生
録画してあった「ちゅらさん3」の
最終回を観ようと思ってテレビをつけたら
画面の中で男の人が真剣に喋っていた。

その、目が凄かった。
ただならぬ様子が漂い、
何事かと思って耳を傾けているうち
結局最後まで見てしまった。

水谷修、通称「夜回り先生」
その噂は、以前から耳にしていた。

定時制高校の先生だというが、
何の教科を担当しているのかは分からない。
番組で紹介されているのは、
ドラッグに溺れた子ども
リストカットする子ども
彼ら彼女達に全身全霊で関わっていく
凄まじい日々の記録であった。

関わった子どものうち、
20人が結局死んでしまったという。
「私が殺した」と淡々と語る目が凄い。
まずいことが起こるとすぐに隠してしまう
学校の体質と対極にある姿勢である。

物凄いエネルギーで動いている。
いつ寝ているのか分からない。
真夜中でもどんどん電話がかかってくる。
ドラッグの知識が豊富で、
緊急事態の際のアドバイスも的確だ。

土日は講演のために全国を飛び回る。
ドラッグに関わると
どんな悲惨が待っているのか。
その具体的事例が強烈で、
聴いてるうちに泣き出す生徒が続出する。

現代の金八先生だろうか。
だが、その笑顔は武田鉄矢とは違い
常に目が潤んで、少し血走っている。
深い悲しみが、瞳の奥に沈んで消えない。

「人が人を救うことなどできないのさ」
そうしたり顔でつぶやいて
日々の快楽に興じるのは至極簡単だ。

水谷氏の場合、最初に関わった生徒が
死んでしまったことが、全ての始まりだという。

具体的な誰かに関わってしまう。
助けたいと、強く思う。でも助けられない。
それでも、永遠に、不可能な試みを繰り返す。
生活のすべてを捧げて、まるで殉教者である。
ふと、オウム真理教の林郁夫を思い出した。

最近は作風が変わってしまったが
北野武の初期の作品が、私は大好きである。

どの映画にも登場する
たけし自身のキャラクターについて
「傷ついている女を愛するのに
 自分はそれ以上に傷ついてみせる」
と誰かが書いていた。

「女」を「生徒」に置き換えると
すっかり水谷氏に当てはまる言葉だ。

今夜も、夜回り先生は
夜の街を徘徊しているのだろう。
その背中が映し出されて、番組は終った。

2004/10/15(金) ポツドール
東京の劇団で、
以前から観たいと思っていたのが
シベリア少女鉄道と
このポツドールである。

なんだか舞台上で役者が
ギリギリの状態になるということで、
ああそれは楽しそうだと
期待して出かけた。

ちなみに、今回の公演は
大阪・日本橋の電気屋街に
新しくできた「independent-2nd」
という劇場の落としシリーズの1本
なんだけど、この劇場がいい!

なんか、ちゃんと闇が深い黒い空間で
タッパ(天井の高さ)もあって
ちょっと扇町ミュージアムスクエアを
思い出した。気持ちよかった。

現存する関西の小劇場では
最良の空間かもしれない。

で、ポツドール。

始まった瞬間から大音量のHIPHOP。
ラジカセから流れているという設定で
本当に大音量で流れ続けるので
役者の台詞はほとんど聞こえない。ずっと。

この、ずっと、という徹底性に
大川興業の全編完全暗転芝居に通じる
強い意志を感じた。台詞の内容は聞かせず
役者のテンションと演出だけで、見せる。

役者もまた、役者に見えないというか
みんな本当にチーマーヤンキーチンピラ風で
マジでガラ悪そうで芝居関係者に見えないし
男優の一人は、いきなり下半身丸出しだ。

ガラの悪そうなダミ声怒鳴り系の
HIPHOPがドカドカ鳴り響く中、
8人ほどの男優はみんな目つき悪くて、
その中に胸と目が大きい紅一点の女優がいて
その女優がいつ襲われるかも含めて
何が起こってもおかしくない不穏な空気、
緊張感がずっと最後まで持続する。

なんか、ものすごく怖い演出家が
役者を追い込んで殺伐とした空気を
意図的に作り出しているのが凄いと思った。

演出家の三浦氏を見かけたがやはり、
静かな意志を秘めた、怖い目をしていた。
やるなぁポツドール。
やっぱり徹底してるところは良い!

2004/10/11(月) 劇場の話をしよう。
@

扇町ミュージアムスクエア
スペースゼロ
近鉄劇場・小劇場・アート館

バブル期にできた劇場が
相次いで閉鎖されていった。
関西の演劇は、危機的状況だ。
そんな言い方をよく見かけた。

「挟み込みするところが少なくていいや」
という気持ちもあったが、
不謹慎と取られるだろうから黙っていた。

最近、色んなところから
新劇場オープン!のメールが届く。

ピエロハーバー、えびす座
アリス零番館、in→dependent 2nd
そして公立の精華小学校・・・
なんだか、どんどん出来てるじゃん!

近鉄小劇場でやってたところは
ドラマシティとかワッハ上方へ。
ミュージアムでやってたところは
HEPホール、AIホール、一心寺へ。

もうなんか凄い十二分に
劇場は揃ったんじゃないか?とか思う。

A

私は演劇をやるのも好きだが
観るのもすごく好きで、冒頭に書いた
消えた劇場たちには数限りなく足を運んだ。
どこかにも書いたが、多分、かなりの金を
観劇につぎ込んできたと思う。

そんな私が、劇場が消えていく時
「当然の流れ」だと感じたのは事実だ。
だって、観客どんどん減ってたから。
観客が減ったから、劇場は消えたのだ。

それが今、また劇場が増えてきた。
じゃあ観客は?増えたのか?
観客が戻ってきたからハコを増やすのか?
これが私の最大の疑問だ。

B

演劇には夢が無い。
以前はあったが、今や失われてしまった。

善人会議(現在の扉座)の横内謙介氏が、
「我々に必要なのは、演劇論ではなく
 サクセスストーリーだ」という
挑発的名言を吐いたのは、80年代だった。

さあ、80年代に活躍していた
色んな劇団の現在を見てみよう。
あの「小劇場ブーム」の
中心にいた人たちのことだ。

劇団が売れていく時
一番仕事が舞い込むのは作・演出家だ。
役者にはなかなか仕事が来ない。
作・演出家が手をまわしても、来ない。

逆に、花形役者を失った劇団は
潰れるか、もはや以前と同じ劇団ではない。

今、
シチュエーションコメディの劇団が多いのは
三谷幸喜氏の成功がモデルとしてあるからだ。
サンシャインボーイズの役者も、何人か売れたし
あそこを目指せばなんとかなる、と思えるからだ。

こう言ってしまうとストレートすぎるが、
みんな売れたいのだ。それで食べていきたいのだ。
「ゆず」が最初にあれだけ売れたから
夜の街でギターかき鳴らす若者が増えたのだ。

音楽にはまだ、夢がある。
映画にも、アイドルにも、美術にだって。

演劇はどうだ?

C

というわけで、
演劇をやる人、観る人が
これから増えていくのかどうかは疑問だ。

80年代には、夢の遊眠社とか第三舞台とか
ものすごい客を集めて、メジャーになって
これで食っていけるんじゃないかという
夢を見させてくれていた。

が、今や野田秀樹氏も鴻上尚史氏も
小劇場出身ではないメジャーな役者
をメインにして芝居を作っている。
新感線だって、主演は常に芸能人だ。

関西では未だに稽古場不足である。
劇場がこれだけできても、「芝居の稽古」
を締め出そうとする公立施設もまた増えている。

メジャーどころか、稽古場確保でさえ一苦労だ。
挟み込みの不合理なルールもなかなか改善されない。

劇場がいくらできても
関西の状況には夢を感じない。
劇場より稽古場を、タタキ場を、倉庫を、
ポスターハリスカンパニーを作ってほしいと願う。

それを自分たちでなんとかしろと言うのなら
劇場をいくつ作っても、そのうち潰れていくだろう。

D

売れる売れないに関係なく好きなことができる。
それが小劇場のシンプルにして最高の価値だと思う。
売れる方向を目指さなければ潰れていくしかないような
そんな状況が続く限り、夢も希望もないと思うのだ。

エンタメと称して、既に作られたもの・どこかで
観たことあるものへの追随を正当化するのもいい。
賞を取るために、選考委員を打ち上げに招待して
接待して気に入られようとするのもいいだろう。

けれど、私が小劇場演劇を愛したのは
そういったものから最も遠い場所で繰り広げられる
そこでしか体験することのできない快楽を知ったからだ。

それは、劇場の問題ではない。
あくまで、演劇に関わる「人間」の問題なのだ。

2004/10/10(日) 大川興業
チラシを見てすごく気になっていた。
ほぼ黒一色のシンプルな画面の紙が
月食の後に再び現れた月の輪郭のように
細く鋭いラインで切り抜かれている。

裏を見ると「1時間半以上、暗転が続く」
などと、不穏なことが書いてある。

大川興業は、扇町ミュージアムスクエア
でやっていた頃は必ず観に行っていた。
初めて観た時、「大川豊は天才だ」と思った。

オープニングのビジュアル、キャラクターの造形、
物語でなくイメージの強度で持っていく腕力。
そしてとにかく、おかしくておかしくて
笑いが止まらなくて死にそうになるシーンの連続。

けれど、その後大きな会場に移って
客層も、大して面白くもないのにエヘエヘ笑う
マニアみたいな男どもが増えてきたので
「もう潮時だな」と思って観に行くのをやめた。

だから、ものすごく久し振りだった。
会場は神戸アートビレッジセンター。
恐ろしく客席を小さくして、
数十人しか座れないようにしてある。

本当にずっと真っ暗闇だった。
台詞と、動く音と、気配のみ。

これが滅茶苦茶面白かった。
普通、暗闇が続くとどうしても眠くなってくるが
設定の巧みさと役者の素晴らしいテンションで
全く飽きることが無く最後まで笑い転げたり
泣きそうになったりした。

今月に入ってから、面白い芝居が続いている。
気がついたら三回連続で芝居のことを書いている。
これって今まで無かったかも。凄く珍しいことだ。

実は、やっぱり芝居ってすごく面白いのかも!ああ
なんだか今すぐにでも、芝居がやりたくなってきた!

2004/10/05(火) キリンバズウカ
芝居の世界というのは
特に小劇場の世界というのは
若手、がすぐに若手でなくなる。

20代前半で劇団など作って
20代後半で作品世界を確立して
30代に入って一人辞め、二人辞めして解散。

まあ、こういうパターンを繰り返しながら
いくつもの劇団が栄枯盛衰生成消滅して
また新たな若手、が登場してくる。

今知っている中で一番の若手が
このキリンバズウカ。
作・演出の登米君は
4月のニュートラルの打ち上げに来てたし
クロムモリブデンの打ち上げにもいた。

どうやら、色んな劇団と
お友達になろうとしているようである。
旗揚げからいきなりHEPホールで公演したりと
色々と妙な頑張りを見せているさわやか青年である。

そんな登米君の新作は
前回初めて見た、わりと観やすい感じの歴史モノ
エンターテイメントとは打って変わって
フェチ全開!意味不明てんこ盛りの異色作!
これが、サイコーに面白かった。

主人公の女の子の台詞の半分は「ハイ」
この「ハイ」が怖い。そして震えるほど良い!
前作では上手い書き手という印象だったが、
実はとんでもない天才かも知れない登米裕一!

現在、私の中では関西若手の最注目株である。
行け!行け行け!もっと行け!と応援するぞ!

2004/10/04(月) 少年王者館
最近、
芝居を観て衝撃を受ける、ということが無い。

「おお、やるなぁ!」とか、
「そう来たか!」とか感心する事はあっても、
衝撃というのはなかなか無い。

週末に、少年王者館の芝居があった。
関西での公演は欠かさず観ていて
私にとっては「頼みの綱」の一つだ。

観ていて疲れるばかりのしんどい芝居が続いたので、
このままではいかん!また芝居が嫌いになってしまう!
頼む!芝居を、芝居の面白さを信じさせてくれ!
というすがるような気持ちで、観に行った。

正解だった。やっぱり王者館は凄い。天野天街は天才だ。

王者館は、オリジナルすぎて参考にはならない。
ただ、自分とは全く違う構造と回路を持った天才がいることの
気持ち良さを、その天才を支える役者とスタッフのエネルギーを
舞台から放射される絶え間なく変化する虹のシャワーのように、
ただひたすら感じるのみである。

確かに、いつもの王者館のパターンである。
時々複数の作品のシーンが、頭の中でこんがらがるくらい
どの芝居にも似たようなシーンがある。
しかし、「パターン分かったから、あんな芝居を作ろう」
と思ってみても、そうそう作れるものではない。

王者館を見ると、いつもゴダールを思い出す。
誰もゴダールにはなれない。

何故だかヨーロッパ企画が全員来ていた。
上田誠君が、食い入るような目で観ていた。
デス電も来ていた。清花也さんも来ていた。
関西圏の上昇中の若手が集まってる感じだった。

そう言えば、最初に芝居が嫌いになり始めた頃
ピナ・バウシュやフィリップ・ジャンティを
観に行きはじめて、客席に見かけた関西小劇場の
人間は、当時上昇気流に乗っていた新感線の
いのうえひでのり氏とか南河内の内藤裕敬氏とかで
ダムタイプを最初に観た時も、すぐそばの客席に
確かモダンチョキチョキズに入ったばかりの
濱田マリが座っていた。

自分の芝居の客になってもらわないと困るので
面白いとは思っていない友人の芝居を観に行く
というのはやっぱり哀しい。

面白いことをやってる人間が
面白いことをやってる奴らのところへ集まる。
他ジャンルだろうが観に行く。

やっぱそうでなくちゃ、と思う。

天野天街は来年、
しりあがり寿・作「真夜中の弥次さん喜多さん」
の舞台化を手掛けるそうである。
確かあの宮藤官九郎も、この作品の映画化で
監督デビューするはずである。

しりあがり寿が好きな演劇人は多いんだな〜
と思うと同時に、リスペクトする人の作品にだけ
関わっていたいものだと思う。

というわけで、クロムモリブデンに出演します。
東京公演のみです。
今度の年末年始は、帝都・東京で過ごします。

2004/10/03(日) この世の果てB
で、「この世の果て」に戻るが
もう一つのカップルとして登場するのが
野島三部作のミューズ・桜井幸子と
顔にケロイドを負った大浦龍宇一である。

顔にケロイド、である。
ゴールデンタイムのドラマとしては
タブーすれすれの表現だったと思う。
その大浦龍宇一に、
盲目の桜井幸子が恋をする。
この設定だけで、ため息が出てくる。

この頃の野島ドラマは、抗議の投書を
呼び込むかようなスレスレ感が
他のドラマと一線を画していたように思う。
ただ、次第にそれがわざとらしく
ただのテクニックに見えてきてしまうのだが。

さらには、
サディステッィクな悪魔・横山めぐみ。
彼女がそういう役を初めてやったのが
このドラマだった。

確か、言葉が上手く喋れないけれど
彼女の言うことならなんでもきく
怪力の男を使って、相当ひどいことを
やってた記憶がある。
怖かった、横山めぐみ。

「北の国から・初恋」では、
彼女は可憐なヒロインだった。
毛糸の手ぶくろで
そっとほっぺたに触れるシーンは
永遠にドラマ史に残るとさえ思った。
その横山めぐみが・・・。

つかこうへいが
「風とともに去りぬ」の
スカーレット・オハラを演じたビビアン・リーが、
時を経て意地悪ばばあ役で映画に出ていて
ショックを受けた、という話を思い出した。

ただし、サディスティックな横山めぐみは
可憐さこそ失われつつも、なお美しかったのだが。

その他にも、吉行和子、清水紘治、高木澪と
癖のある役者さんが色々と出ていた。

ドラマとしては、いろんな意味で破綻していて
大丈夫か?野島伸司、と思ったものだが
破綻していたからこそ、細部に魅力があった。

この世の果てのイメージは、やはり浜辺だと思う。
主人公の二人の配役を変えて、浜辺のイメージが
出てくれば、「この世の果て」も、名作と呼べる
ドラマになったかもしれない。(おしまい)

10月絵日記の続き


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