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2004/10/05(火)
やればできる
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「やればできる」とゆう言葉には、2種類の反応があると思う。 ひとつは、「ホントにそうだよなあ」とゆう反応。 もうひとつは、「一種の気休め」「ある種の励まし」「単なるおまじない」とゆうものだ。
心のなかで強く願わないことには、願いごとが叶うはずもない。 が、願ったことの全てが必ず叶うかとゆうと、そうではない。 したがって、「やればできるなんて、気休め☆励まし♪おまじない」とする反応は、ごもっともだといえる。 冷静に考えたら、そっちのほうが理(物事の道筋、道理)にかなってる!
現在のぼくは、物書きとしてまだまだ未熟だ。 過去についても、会社勤めに適応できなかったし、仕事も勉強も恋も…何もかも中途半端で済ませてきた。 だから、「やればできる」って言葉に込められた真実が見えない。 「やればできる」といえるだけの成果を残したことがないから。
けれども、理にばかりこだわって下す判断とか生き方は、理を超えることはない。 理の檻のなかに自分を閉じ込めるわけだから、そこから足を踏み出せないんだ。
二流(三流かも?)大学卒のサラリーマンが、ぼくが書いた文章をバカにする。 言葉使いがガキっぽい、幼稚な考え方、論理性がない、青くさい、メール文に毛が生えた程度、カギカッコが多い、[?][!][…][っ]の乱用、たしか人間愛に欠ける?ってのもあったよなあ(…笑) 冷静に考えたら、彼らがゆうことは理にかなってる! 文語体の檻のなかから理に沿って眺めれば、ぼくの文章は日本語をナメているように感じることだろう。
しかし、日々のくだらない出来事、たとえば「サディスティック法律事務所事件」「下着ルック女事件」「恋と病のぜんそく物語」「熱い戦い―朝礼―」「天使と悪魔」なんかを、彼らが活写できるか? できねーだろ! それは彼ら自身が認めてる。 これが何を意味するのか? ぼくが今の日記エッセイにかける意気込みとか、「皆伝!秘密情報」の頃から集積してきたパワーが、表面的な整合性を上回ることもある! そうゆうことだ。
ぼくら若者は、意気込みとパワーで理を打ち破れるとゆうことを体験として知ることがあまりない。 年齢を重ねるごとに実感するものなのかもしれない。 いや、ホントは体験してるのに気づかないだけなんだよ。
だから、ぼくは「やればできる」とゆう言葉を信じてチャレンジし続けたい! 理の檻に閉じこもったヤツらには負けねーぞ!
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