【青春交差点】
 
いつもどんなときも。ぼくはぼくらしく。
 
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2004/06/30(水) 何かがしたいと思うなら、そんな自分の状態に満足しよう
 
あぁ〜しんどかった。
今日は昼も夜もフル稼働。
肉体労働だけに、虚弱体質のぼくにとって週休1日はキツイ。
まだ水曜日か…。

お中元の荷物が一挙に増えてきて、宅急便の仕事が絶望的なほど忙しくなってきた。
今から盆休みまで、昼間のドライバーから夜配ドライバーへの「リレー方式」は通用しない。
同じ地区を2台で走らなければ、山積みされた荷物を消化できない。
もうすぐそれでも追い着かなくなる。
繁忙期だけの傭車を早く用意してくれ!

◇ ◇ ◇ ◇

今、ぼくのプライベートは“鎖国状態”で、誰とも友だち付き合いをしていない。
友だちと会ったり、電話をしたりする時間が全くないから、今のところはそのほうがいいと思っている。
一生鎖国状態を貫くわけじゃないから、別にかまわない。
去年はそれなりに友だちとも交流があって、そういえば、ぼくの顔を見るたび「何かおもしろいことはないか?」と聞いてくるヤツがいた。
何十回も聞いてくるからジャマくさくなり、ケータイサイトのつくり方を教えてやった。
すると、アダルト画像サイトの運営に見事にハマってしまい、今度はぼくの都合などおかまいなしで、昼に夜に電話で質問をしてきて、よけいにウザかったことを思い出す。
結局そいつは3ヶ月ぐらいでサイト運営を諦めたようだ。

「何かをしたいけど、何をやったらいいかわからない」
「どうやって生き甲斐を見つけたらいいの?」
そんなことを考えている人が案外多い。
いや、多すぎるとゆうべきか。

そして、思い悩んで誰かに相談する。
「趣味を持ちなさい」
「人生には目的が必要です」
たいていこんなふうな答えが返ってくる。
そういわれると、相談者は動揺し、ますます不安になり、自分で思いついたことや他人に勧められたことに手を出してみる。
けれども、おそらくは長続きしない。
こんなんでいいのか?

「何かがしたい」とゆう状態は、要するに「改めて何かをする必要がない状態にある」とゆうことだ。
それならば、そんな自分の状態に満足したらいいじゃないか。
役に立たない話を聞かされて右往左往するより、そのほうがよっぽどいいと思う。
人生長いんだから、焦ることはない。
そのうち何かが見つかるよ。
 

2004/06/29(火) どうにもならないことは放っておくのが一番!
 
夕方、事務所の中で涼んでいたら、30歳ぐらいの女が「飛び込みセールス」にやってきた。
「電動ハサミと小型ラジオ、それにキーホルダーをセットにして1100円で買ってください」という。
「安いじゃん」とは思ったが、「悪いけどいらねーよ」と断わった。
態度が悪かったからだ。

「あと5セットしかないから、全部買ってよ」
「シャレで1セットでもいいからさ」
「みんな一つは買ってくれるよ」
などとずいぶん馴れ馴れしい口をきくから、だんだん腹が立ってきたんだ。
ホントは「それが初めて会った人にモノを買ってもらおうとする態度か!」といってやりたかったけど…、やめた。
礼儀をわきまえない者にそんなことをゆうだけムダなことだ。

案の定、その女は「いらねー」と聞いたとたん、「おじゃましました」とも何ともいわず、ドアをバタンと閉めて出て行った。
もう少しかわいくすればいいものを…哀れなヤツ。

◇ ◇ ◇ ◇

人間のストレスの原因になっているモノ、いわゆる「悩みのタネ」の代表は、それぞれの人間が抱えているいろんな「問題」だ。
この「問題」は二種類に分けられる。
一つは、解決するために「考える必要がある問題」であり、もう一つは考え抜いても全く解決する見込みがない、つまり「考えても得にならない問題」だ。

「今度のデートは映画を観に行くか、それとも遊園地に行くか」
「明日の日曜日、何をやってすごそうか」
このように将来の希望や予定に対して準備を進めるときには、「考える必要がある問題」が発生する。

これに対して、「考える必要がない問題」とはどんなものか。
「あのときあんなことをしなければ、今ごろはもっと幸せになっていたかもしれない」
「25歳になったのに恋人の一人もできやしないけど、将来結婚できるんだろうか」
過去の悔やまれる出来事や将来の不安を思い悩んだところで、問題の解決に結びつくことはない。
人間が実体験できるのは、永遠に「今現在」だけだ。
過去に戻って人生をやり直すことはできないし、未来へ飛んで行くこともできない。

過去や未来については頭の中で思うことしかできないし、考えたところで何の解決にもできないわけだから、考える必要なんてない。
大事なのは、「今」を充実して前向きに生きることなんじゃないか。
「今」の連続が未来なんだ。

だから、どうにもならないことは放っておくのが一番!

病気以外の悩みのタネ(=問題)が、ぼくに向かって突進してきて、直接危害を加えたりはしない。
ひき殺したり、刺し殺したりすることはないんだ。
お気楽主義だといわれても、ぼくはそう思いたい。
 

2004/06/28(月) あえて流行の先端を追わず
 
気温は軽く30℃を突破。
4日連続の雨がウソのような晴天だった。
未明に大雨が降ったらしいが、ラジオのニュースで聞くまで全然知らなかった。
奄美地方は既に先週梅雨明けしたそうで、ぼくの住んでいるところでも真夏のにおいがする。
セミの鳴き声が加われば、もう夏本番。

今日、直径110pもある大型トラック用のタイヤの上に乗り、棚の上段にある軽四用のタイヤを取ろうとしたとき、不意にタイヤが転がりだした。
格好としては、サーカスのピエロがやる「球ころがし」みたいな状態だ。
しかし、体勢を整える間もなくズッコケてしまった。
トンマなことをやってしまった。
近くに脚立があったというのに。

イラクに主権が委譲されたけど、200人の外国人顧問のうち150人がアメリカ人。
国連主導といいながら、事実上アメリカ主導であることに変わりはない。
反米勢力の抵抗はますます激しくなっていることだし、7月4日のアメリカ独立記念日には何かが起きるぞ。

◇ ◇ ◇ ◇

去年の2月頃、知り合いに「ケータイサイトの運営を始めた」とゆうと、「ほうっ、すごいやん」といわれたもんだけど、今じゃ珍しくもなんともない。
ぼくとしては時代の先端を走っていた“つもり”が、当たり前のことになってしまった。
自分の意思で始めたことだから、担がれていたとは思いたくない。
けど、所属グループ内で「すばらしいサイトですね」とか、「新人の手本にさせてもらっています」といわれて、ある程度いい気になっていたのは事実だ。

考えてみると、これは恐ろしいことだ。
グループの先頭を走っているつもりが、実は走らされているのであって、明日には捨てられる運命だったのかもしれない。
ちょっと悪いほうに考えすぎかもしれないけれども、ずっとそんな気がしていた。
そして、このことが13万アクセスを超えた大御所サイトの活動を休止した理由のひとつでもある。

世の中の流行についても、同じことがいえるんじゃないかと思う。
時代の最先端をゆくモノは、古くなるのも早い。
ファッション、芸術、思想など。
流行が変われば、見向きもされない。

どんな場面でも、トップに立とうとする人は引きずりおろされる。
もちろん、ぼくがトップに立ったなどとは考えていない。
「おれが、おれが…」としゃしゃり出る人を、世間が最後まで担ぎきることはないとゆうことだ。
そんなことを考えているうちに、ここは一度身を引き原点に戻ろう。
まずは、人様に読んでもらえる日記を書いてみようと思ったんだ。
これも活動休止の理由のひとつ。

焦らず、じっくり歩きましょう!
 

2004/06/27(日) 参議院議員選挙の公示と同時多発事件
 
参議院議員選挙(7月11日投票)の公示にタイミングを合わせたかのように、『同時多発事件』が起きている。
かつて日本は世界で一番治安の良い国といわれたのに、今の体たらくぶりはどうだ。
大げさだが、日を追うごとに治安が悪化していることを感じる。
支持率急落中の小泉(首相)に、天が追い討ちをかけているのだろう。
小泉としては、なんとしても投票日までは国民をだまし通したいところ。
「どうかこれ以上事件が起きませんように」と祈っているにちがいない。

東京渋谷のド真ん中で銃がぶっ放され、田園調布では朝鮮人の強盗団が老婆を襲い、逃走後に警官と銃撃戦を展開した。
警察は反省をして、きちんと謝罪をしろ!
警察組織が極道たちとつるんで、成績をあげるためだけの談合銃器狩りを続けてきたから、こういう事件が起きたんだ!

入国管理局は何をやっている?
中国と南北朝鮮人の密入国者に対して甘すぎる。
フィリピン人などには異様なほど冷酷なクセに、反日三国民にはコビを売っている。
それが政府からの指示だから仕方がないのか?
はっきりさせろ!
低レベルな強盗どもが入国できるぐらいだから、北朝鮮と中国の工作員、それにアルカイダのメンバーが潜入することなどいとも簡単だ。
このままでは、もっと恐ろしいことが起きても不思議じゃない。

それと、マスコミがこいつらを『武装スリ集団』と呼ぶのはなぜだ?
武器を持っていて脅すんだから、どう見ても『強盗団』じゃないか。
朝鮮人かわいさのあまり、頭がイカれたとしかいいようがない。
外国人スリによる被害の8割以上が不法入国の韓国人だとゆう事実を報道せよ。
『冬のソナタ』ブームなんかで朝鮮人を美化するな。
日本国民の安全を脅かす外国人は、徹底的に差別しろ。
ここは日本だ!

また、高田馬場では、5歳の男児がマレーシア帰りの『札付き少女』に突き落とされるとゆう、異邦人の子ども同士(被害者の父親が中国人、加害者の母親がマレーシア人)の事件も起きた。
これも「治安の悪化」とか「教育の無策」などの問題と、全く無関係とはいえない。

なぜか迷宮入り殺人事件が多発する茨城で、今度は16歳の女子高生が殺された。
家庭環境に恵まれず親に愛情を注いでもらえなかった子であることは、葬儀写真が口を半開きにしているものだったことから容易に想像がつく。
ぼく自身、15歳のときに両親が離婚し、間もなくそれぞれ別の人と再婚(事実婚?)して居場所を失った経験があるから、この少女に同情したい気持ちもある。
が、不法滞在のスリランカ人のオッサン(35歳)と付き合っていたようじゃ、とても普通の女子高生とはいえない。
死者にムチ打つつもりはないけど、どうも被害者とゆうことで報道されない影の部分もあるようで、後日もっとすごい事実が明らかになるかもしれない。

とゆうことで、今度の参議院選挙。
ぼくは、『治安の回復』とか『教育問題』に焦点を当てて投票したい。
ところが、それらのことを最重要課題として選挙公約に掲げている政党とか候補者は…。
???
ぼくがいつも批判している共産党とか社民党は、なかなか理想的なことをゆう。
けれども、中国や北朝鮮にコビを売る政党は、その根性が許せない。
かといって、自分の年金不正問題を「人生いろいろ」なんて言葉ですませた小泉に大打撃を与えたい。
民主党には元共産主義者がたくさんいる。
うーん、これは究極の選択だ。
 

2004/06/26(土) 人間百まで説教忘れず
 
とある「お局(つぼね)」が今月いっぱいで退職することになり、今夜、送別会に参加してほしいと頼まれた。
が、「部外者だから気が進まない」といって、キッパリ断わった。
先週は新入社員歓迎会、今週はお局送別会…。
2週連続で断わったから、次からは誘われることもなくなるだろう。
部外者の下請け業者が、たった一人シラフで宴会に参加したって、おもしろくもおかしくもない。
もっとも、先方は良かれと思って誘ってくれるのであって、そのことについて悪くはいえない。

それと、ぼくはここ1年以上も酒を絶っている。
もともと酒は好きだったが、一度体を壊して入院してから全然飲まなくなった。
今は欲しいとも思わない。

さてさて。
その「お局」が新人女子社員に、社内事情をこと細かく教えこんでいる。
女子内勤社員としての仕事内容に関することならいいけど、上司や同僚の悪口もさんざん吹きこんでいる。
まあ、ぼくは社員じゃないから気楽なもので、それはそれで「まーいっか」と思っている。
「じゃあ書くなよ」といわれたらそれまでだけど、せっかくだからもう少し。

この「お局」に限らず、世の中には『教え魔』が多い。
こちらが聞きもしないのに、「うまい店はここで、安い店はここ」、「部長は…」、「あの人は…」などと得意顔で話す同僚や先輩、友だち…。
会社にもクラスにも必ずいる。
けれども、残念ながら、こうゆう教え魔たちは本人が思っているほど「大した人間」じゃないことのほうが多い。
モノを見る目もしっかりしているとはいえない。
しかも、「自分のゆうことに間違いはない」とゆうふうな態度で教えるから、聞かされるほうとしては迷惑なのだ。
ところが、教え魔たちは鈍感で、そうと気づかない。

人間の最後の欲望は「人にモノを教えたがることだ」とゆう説がある。
【人間百まで説教忘れず】とはそのことなのか。
とゆうことは、オヤジやオバサンが「近ごろの若い者は…」とか、「このごろの人は…」といいだしたら、それは百歳になるまでモノを教えたがる人間の性か。
こうゆう人たちは、「あんたが知らないことを自分は知ってるんだよ」と、満足感に浸っている。
教え魔の自己満足のために、今日もナマ返事を繰り返しつつ聞くことに徹している若者たちよ。
そうゆうときこそいってやれ!
「うざってーんだよ」と。

≪注≫

「はりら」さんより指摘あり。
ロンメル将軍さまは百まで説教しつづけると思ってらっしゃいます?
文面がそう読み取れたので…。
あの意味は、百才になっても人の説教は聞くべきだよ、という教えですよ。

だって!トホホ…。
ぼくもバカだよね。
 

2004/06/25(金) 幸福なんて…特別必要じゃない!
 
「滝のような」とゆうべきか、「バケツの水をひっくり返したような」とゆうべきか…。
午前中から夜にかけて、断続的な大雨が降り続いた。
いくら速乾性素材のユニフォームでも、これでは乾くヒマがない。
昼間は『戦艦大和』状態でラクができたけど、夜の宅急便は最悪だった。
デリバンから降りたくはないけど、降りなければインターホンが鳴らせず、仕事は一歩も進まない。
また、インターホンを鳴らしても、応答があるまで待っていられない。

そこで、昨日の日記に下記文言を追記する。
「ただし、大雨の場合はこの限りにあらず」と。

今日はぼんやりと『幸福』について考えてみた。

ぼくの身長は162pほどしかない。
チビであることにコンプレックスを感じているつもりはないけれども、「あと5p高かったら…」と思うことがある。
だから、「チビな自分も好きだ」なんてことをいっても、心の片隅で負い目を感じているのだ。
まあ、身長はともかくとして、世の中には「お金がほしい」とゆう人たちが多い。
現実に自由になるお金がないクセに、お金を必要としている人たちだ。

だけど、健康な人が「健康になりたい」とは思わないように、幸福に飢えている人は、どこか幸福状態に欠けるところがある。
ということは、幸福状態のレベルを高く望むことが「不幸のはじまり」だといえる。
いつも不満を感じていて不幸だとゆう人は、高望みをしている人なのだ。

ぼくは会社員じゃなく、しかも朝から深夜までけっこうキツイ仕事をしているから、他人の目にはとても幸福そうには映らない。
「なんで?」とか、「もうちょっとマシな仕事があるでしょ」とバカにされるのは、たぶん不幸そうに見えるからだ。
が、余計なおせっかいはやめてもらいたい。
今現在、ぼくは精一杯生きているし、充実している!
配達の仕事も、今宵も無事に日記を書いていることも楽しい。
日々に感謝しているし、何より皆伝読者を誇りに思う。
したがって、ぼくはあえて幸福を求めなくても、幸福な状態を生きているのだ。

今現在を充実させよう!
そうすれば、何ごとにも満足できるし、生きていることに感謝できるはず。
顔が明るくなり、人相までもよくなってくる。
態度がおだやかになり、自信が溢れてくる。
周囲の人たちからの評判もよくなり、信頼もされる。
きっと人生の歯車が快適な音を立てて回りはじめることだろう。
 

2004/06/24(木) テレフォン人生相談
 
昼過ぎから雨が降り出した。
天気予報によれば、来週火曜日あたりまで晴れの日はなさそうで、やっと梅雨らしい天気になりそうだ。
スーツを着て仕事をしていた頃だと、雨の日は猛烈にイヤだったけど、今はそれほど苦にならない。
濡れても平気な服装でいるからだろう。
どういう格好をしているかというと、昼間はモータースポーツ仕様のハデな「ツナギ服」で、夜は宅急便の制服だ。
どちらも速乾性の素材を使っているから、びしょ濡れになっても、しばらくたてば完全に乾く。

本題に入ろう。
『テレフォン人生相談』という番組を毎日のように聴いている。
といっても、好んで聴いているわけじゃない。
ぼくの軽トラのラジオはFM放送が受信できないから、唯一受信できる民放AM放送にセットしているだけのことだ。

相談内容は…というと。
借金の保証人になり、本人が行方不明になったから、代わりに払わされている。
美容整形をしているから、生まれてくる子どもの顔がどうなるか、非常に怖い。
息子がいるけど、自分の子どもではないと疑っている。
配偶者が不倫をしている。
子どもが不登校、あるいは仕事に行かなくなった。
などなど…聴取者からいろんな悩みの相談がある。

録音番組だから、回答者の弁護士や専門家は、あらかじめ質問内容を知っていて、時間内にアドバイスをする。
だが、質問のなかには、たとえば「結婚したけれども、昔の恋人が忘れられないのです。どうしたらいいでしょう」といった質問もある。
回答者としては、社会道徳上「早く忘れなさい」というしかない。
案の定、相談者は「やっぱりそうですよね」と答える。

こんなふうに最初から答えがわかっているのに、それでも質問をしてくる人がけっこういる。
それは、相談者が自分の体験や悩みを聞いてもらいたいからだ。
回答を期待しているわけじゃない。
自分が語ることこそが目的なのだ。
だから、人生相談の場合、そういう場を提供することに意義があるといえる。

もちろん、相談者が自分なりに出している答えを確認したいとか、専門家の言葉からヒントを得たいという気持ちはあるだろう。
しかし、「とにかく聞いてもらいたい」という気持ちがわかっていない回答者は、チンケな道徳論を振りかざす。
相談者の言葉をさえぎってまで演説しまくるから、相談者が欲求不満ぎみのまま終わってしまうこともある。

あくまで一般的に…だが、悩みを打ち明けてくる人に対しては、こんこんと説教をするよりも、話したいことを全部聞いてあげることのほうが大事なのだ。
そんな気がする。
 

2004/06/23(水) 仕事に必要な時間は、与えられた時間により変化する
 
ついに真夏日!
昨日以上に暑い一日だった。
今日も異臭を伴なう「腐敗した空気」を大量に吸い込んだせいで、またもやラリってしまった。
まだ後頭部が痛い。
それでも配達の仕事は昼夜ともに絶好調で、今月では最高のできだったような気がする。

ところで、今週はこれまでのところ順調に新情報を追加している。
これにはカラクリがあって、日曜日のうちに原稿を書き溜めているからだ。
「なぁ〜んだ」と思う人がいるかもしれないが、そうでもしなければ、毎日23時ごろ部屋に帰ってきてから寝るまでのわずかな時間で、原稿を書き上げることはできない。
日記を書くのがやっとだ。
先週が全然ダメだったから、いちおう努力と工夫をしているのだ。

物書きの端くれとしては、「なぜ原稿が書けるのか」と聞かれると、「締め切りがあるからだ」と答えるしかない。
ぼくの場合だと、毎晩遅くとも午前2時までに日記を書き上げるという「締め切り」がなければ、何にも書けない。
日曜日のように時間がありすぎると、ただぼんやりとパソコンの前に座っているだけで、時間だけがすぎてゆく。
「今日中に絶対6話書くぞ」と心に決めていなければ、キーボードを打つことができない。

そして、こういうことは普通の会社での仕事や勉強にも当てはまる。
本当は1時間でできる仕事や勉強なのに、2時間のうちにやればいいとなると、サラリーマンもOLも学生も、きっちり2時間をかける。
【仕事に必要な時間は、与えられた時間により変化する】

時は金なり。
会社のためじゃなく、親のためでもなく、自分のために時間を大切に!
 

2004/06/22(火) 人にも職業にも貴賤なし
 
あっつぅい!
強烈な陽射しが脳天へ降り注ぐ。
古タイヤが発するゴムが焼けたようなにおい。
そのなかに溜まった雨水の腐ったにおい。
トラックの幌のなかに充満している「腐敗した空気」を思いっきり吸い込んでしまうと、ラリってクラクラしそうだ。
倉庫の2階も暑い。
サウナ状態だ。
ほんの数分作業をしただけで汗が噴き出し、床にしたたり落ちる。

ぼくは、なぜこんな仕事をしているんだろう。
ついそんなことを考えてしまう。

「人間に貴賤なし」
「職業に貴賤なし」
とはいうものの、自分自身のことや自分の職業を自ら賤しめる人がいる。
ぼくもそうだ。

生まれや育ちが悪い。
顔や体形が悪い。
大学を出たのに、こんな仕事をしている。
自分は、なんて不幸な人間なんだろう。
生きていることに意味がないように思える。

人さまざまだが、コンプレックスもここまでくると、前向きに生きてゆくことができなくなる。

そうかと思えば、自分を偉い人間だと信じている人がいる。
他人が自分に頭を下げるのが当然だと思っているから、意見が対立したときにも、相手が譲るものだと決めつけて、自分の意見を無理やり押し通そうとする。

「上に弱い人は、下に強い」という。
会社の上司を見ろ。
担任の先生を見ろ。
部下(生徒)に対しては偉そうなことをいうが、上司の前では必要以上にペコペコしまくる。

そして、自らを卑下する人は、自分がバカにできる人を見つけると、徹底的にその人をバカにする。
サディストのようで実はマゾヒストなのだが、そのことに気づいている人は非常に少ない。

逆境や社会からの不当な評価は、ときに人を萎縮させ、自らを卑下する結果を生む。
しかし、そこを突き抜け克服すると、威張ることも卑下することもなくなる。
「他人は他人、自分は自分なんだ」
その境地に達してこそ、はじめて「人にも職業にも貴賤なし」ということができるんじゃないか。

そう考えたら、やっぱりぼくは未熟だ。
そこまでの境地にはなかなか達することができない。
 

2004/06/21(月) 「生きる」とはどういうことか
 
「生きる」とはどういうことなのでしょうか。
未熟者ですが、ぼくなりに一生懸命考えてみました。

人それぞれいろんな答えがあると思うけど、ぼくは『自分が持っている可能性を形にすること』だと考えています。
ひと言でいえば『自己実現』という言葉になるのでしょうか?
そして、人はその過程を経験することによって、自分自身を見出すことができるのだと思います。

たとえば、野に咲く花は、見てくれる人がいなくても、また、ほめちぎられるようなきれいな花ではなくても、そのことをひがんだり嘆き悲しんだりはしません。
天から与えられた能力(=可能性)のなかで、ただ精一杯咲くだけです。
「生きる」とはそういうことだと思います。

自分が持っている可能性が最大限に実現されている瞬間、人はもっとも美しく輝きます。
これは死ぬまで変わらない法則というか、原理というべきものではないでしょうか。
そして、この原理は、その人の社会的地位や年齢、能力によって左右されることはありません。
なぜかというと、最大限に発揮された可能性への評価というものは、自分自身のなかにおける『絶対評価』でなければならず、他人との比較による『相対評価』であってはならないからです。

さて、自己実現などという言葉を大上段に振りかざすと、「他人より優れた能力だけを伸ばすことだ」と思われがちですが、決してそうではありません。
たとえ他人より劣った能力であっても、人間として生きてゆくために必要なものであれば、伸ばしてゆかなければなりません。
たとえば、読書が苦手だからといって全く読書をしない人は、人間としての主体性を失ってしまっています。
人より劣っていたとしても、自分にはその能力しかないのです。
それさえも放棄するということは、読書によって得られる人間性(心の豊かさ)を永遠に身に着けることができないということです。
苦手であっても、自分ができる範囲で読書をすれば、必ずその分だけ自分の世界が広がるはずなのに…。
たとえがよくないかもしれないし、自分の大好きな読書を引き合いに出すこと自体が卑怯かもしれません。
けれども、「よりよく生きる」とはそういうことをいうのではないかと、ぼくは確信しています。

社会的に評価されるものを求めて生きようとするから、生きてゆくことが苦しいのです。
社会的と書くと何やら社会人の世界に限定されてしまいそうなので、学校内、学級内、仲間内とか置き換えるとよいでしょう。
他人に評価されることを考えるより先に、自分の持っている可能性を自分なりにより高いレベルで形にしてゆきましょう。
たとえバカにされようとも、一人の人間として必要なものは絶対に捨ててはいけません。
これが「生きることの基礎」になるのではないでしょうか。

では、一人の人間として必要なものとは、いったい何でしょう?
それは『心』と『体』です。

哲学的な分野については無知なので、意味不明な文章になってしまいました。
ずいぶん偉そうなことを書いたけれども、ぼくはこういうふうに考えています。
 

2004/06/20(日) 自由、平等、博愛
 
「自由、平等、博愛」はフランス革命のスローガンで、近代市民主義の旗印となっていた。
今でも「自由、平等、博愛」を叫ぶ人たちがいて、この錦の御旗を振りかざせば、世の中を渡ってゆけると考えているようだ。

が、「自由、平等、博愛」のスローガンには重大な矛盾点がある。
博愛はよしとしても、自由であれば平等にはならないし、逆に平等であれば自由がないのだ。
しかし、多くの人たちが「自由=平等」だとカン違いをしている。

一昨日ぼくは、下請けをしている会社の「新入社員歓迎会」に誘われた。
幹事が、社員同然に仕事をしてもらっている仲間として、ぜひ参加をしてほしいといってきたのだ。
けれども、ぼくは「行きたくありません」といって断わった。

下請け業者はあくまで下請けにすぎない。
配送を請け負っている会社の業績が悪化すれば、まっ先に切られる存在であって、会社に忠誠を誓って行動すれば“ある程度”守ってもらえる社員とは一線を画すべきだ。
ましてや飲み会の席で、「杯を交わしたから、これからはキミも仲間だ」とか「準社員のつもりでがんばってくれたまえ」とかいわれるのは、まっぴらゴメンだ。

準社員として“平等”に扱うからといわれてその気になり、馴れ合いになったらどういうことになるか。
仕事がやりやすくなるという面は多少あるかもしれないが、それは気分的なものだけだ。
仕事内容でトクをするということはまずない。
本来社員がすべき仕事が当たり前のように回ってきたり、社員並みに無報酬で残業をさせられたりするのがオチなのだ。

このぼくの考え方は世間一般からみれば、まちがっていると思われるかもしれない。
しかし、今のところぼくが毎日の過酷な労働に耐えられるのは、自営業(フリーターと変わらないが)の自由さが心のよりどころとしてあるからだ。
これを放棄すると、たぶんマトモに生きてはゆけない。

さてと、「自由=平等」がカン違いであることは、経済体制の上でも証明されている。
『資本主義』とは平等より自由が好きだという人たちがつくった体制であり、『共産主義』とは自由よりも平等のほうが好きな人たちがつくった体制なのだ。
共産主義国家の北朝鮮では、特権階級で搾取が行なわれているが、ほとんどの国民は絶望的な貧困と飢餓の恐怖を平等に味わっている。
一方で資本主義の日本やアメリカでは、一部の大企業と資産家に富が集中し、金持ちと貧乏人の格差がどんどん拡大している。
自己資本(お金)を使って自由に金儲けができる国には、貧富の差という問題が存在しても当然なのだ。

そうかといって、いまの内閣が推進している大企業優遇政策を見逃し続けると、多くの国民の生活が立ち行かなくなるのは確実だ。
いかに日本が資本主義体制であっても、悪用は阻止しなければならない。
資本(自由)主義、共産主義に代わる経済体制を考案したいけど、ぼくにはそこまでの能力はない。

今日のところはとりあえず…
【少年よ、自由と平等は両立しない】ということにしておこう。
 

2004/06/19(土) やりたい事とやりたくねえ事とが、思い通りにいかなくて
 
運転をしていると、平井堅の『瞳をとじて』がラジオからガンガン流れてくる。
けれども、気がついたらふと口ずさんでいる唄は、相変わらずI WiSHの『明日への扉』であり、直太朗の『さくら』なのだ。

今日の日記の長いタイトルは、長渕の『Myself』という曲の歌詞の一部。
1990年に発売されたアルバム『JEEP』のラストを飾る名曲だ。

♪ ♪ ♪ ♪

やりたい事と
やりたくねえ事とが
おもいどうりにいかなくて

「夢はなんですか?」と
聞かれることが
この世で一番辛く思えた

だから
まっすぐ まっすぐ
もっとまっすぐ生きてえ

恥ずかしそうにしてる
お前が好きだ

だから
まっすぐ まっすぐ
もっとまっすぐ生きてえ

寂しさに涙するのは
お前だけじゃねえ

♪ ♪ ♪ ♪

自分を見失いそうになったとき、ぼくはこの唄を口にする。
やりたいことを目指すといいながら、現実にやっていることといったら…。
そのギャップの大きさに悩む日もある。
 

2004/06/18(金) 女子高生はお好きですか?
 
植草(43歳)の「女子高生手鏡のぞき事件」の初公判が話題になっている。
東大卒の秀才、元早大大学院教授で経済評論家。
テレビのコメンテーターとしても活躍していた人物だから、一般庶民であれば単なる「変態オヤジ」か「女子高生狂」ですむことでも、大きく取り上げられてしまう。
こういうハレンチ教授が再起不能なまでに叩きのめされるのは、まさに自業自得であり大いにけっこうだ。

それにしても、このところ教育関係者の変態性欲事件があとを絶たない。
5月には長野で33歳の中学校教諭が女子高生を強姦して逮捕され、その後別の女性も強姦していたことがわかった。
三重では49歳の小学校教諭が、教え子だった女子中生の自宅に止めてあった父親のクルマのボンネットに「必ずレイプしてやる」「レイプビデオを撮ってやる」などと落書き。
横浜でも31歳の小学校教諭が、CDショップ内で女子高生のスカートの中を15分間もデジカメで撮影。
など、変態教師が起こした事件を集めるだけで、ひとつの情報サイトが成り立つほどだ。
このほかにも役人、警察官、自衛官など公務員の不祥事が多発しているが、ぼく自身が教師志望だったから、教育関係者の事件にどうしても目がゆく。

ところで、去年の年末近くのこと、ぼくはある会社の入社試験を受けた。
大学受験用の教材を扱う会社で、教育産業界では最大手に君臨する企業の100%子会社だ。
簡単な試験のあとで、営業所長の面接を受けたのだが、そのときの質問がイカれていた。
「ロンメルさん、女子高生はお好きですか?」
唐突にそんな質問をぶつけてきたのだ。
ニヤニヤしながら聞いてきたから、性的関心があるかどうかという意味だろう。

それより前に、給与体系の説明を受けて、超ぼったくりだとわかっていたし、姑息な方法で入手した生徒名簿を見て、無作為に電話をかけまくって勧誘する仕事内容も気に入らなかった。
つまり、入社試験をパスしても入社する意思はなかった。
「どうでもええわ」
ぼくはそう思っていたから、面接官のエッチな質問に対して正直に答えた。
「はい」
すると、そいつはゴキブリみたいな顔で微笑んだ。
「この仕事は高校生が好きな人に向いています」
まさか女子高生とよろしくヤレる…という意味ではないだろうが、理性というタガが外れているのは、どうやら教師だけじゃなく、広く教育産業界にも及んでいるような気がした。

今年に入ってから合格通知が届いたけど、ぼくが辞退したのはいうまでもない。

なお、これはぼくの個人的な体験談であって、こういう会社の存在自体を否定するものではない。
なぜこんなことをぼくが書くかというと、この一文を書き添えてなければ、「教材販売の会社すべてを愚弄している」と抗議のメールが必ず届くからだ。
 

2004/06/17(木) 不愉快なもの、急いでいるときに散々長話をするヤツ
 
ぼくの仕事は17時30分までがタイヤの配送、約20分間の移動時間を挟み、速攻で宅急便に変身する。
タイヤの仕事については超過時間分の運賃を請求することができないけど、宅急便のほうは10分刻みの時給制。
こういう事情なら、17時30分でタイヤの仕事をきっちり終えて、お金になるほうへ走りたいのが人情というものだ。

毎日17時前後に行くことになっている得意先がある。
ここの社長はケタ外れの偏屈ジジイで、機嫌が悪いときには「まいど」という挨拶さえ返さない。
が、機嫌がいいときにはトメドなくしゃべりまくる。
楽しい話題ならいいが、たいてい次のような枕詞(まくらことば)から演説が始まる。
「下請け業者のあんたにゆうても、しゃーないけどなあ…」
その後は、ぼくが配送をしているメーカーを罵倒、誹謗中傷。
とにかく、これでもかというくらいにケナしまくる。

その間、ぼくはといえば、時計を気にしながら、「はぁ」「ひぃ〜」「ふーん」「へぇー」「ホント?」などと調子よく合いの手を入れるだけだ。
「このアホ、まだやめんのかいな」
「そんなにいいたいことがあるんやったら、社員に直接いえや!」
なんてことを考えながら、決してマトモには聞かない。

そのうちに、ぼくのケータイの着信音が鳴り響く。
いや、正確には着信音じゃない。
あらかじめセットしておいたアラーム音だ。
ぼくは電話に出るフリをして、ひとり芝居をする。
「急ぎの配達?今すぐはムリやねえ」
「えっ?ぼくしかおらんの?わかった」

こうしてぼくは、『自作自演』で急ぎの配達をデッチあげ、『偏屈王』には有無をいわさず外に出る。
「社長、ゴメンなさい」
「話の途中やけど、続きはまた明日ゆうことで。ありがとうございます」
といいつつ、心のなかで舌を出しながら…。

【にくきもの、急ぐことある折に来て長言をする客人】
これは平安時代の女流作家、清少納言の名言。
ちょっとシチュエーションがちがうけれども、17時30分直前のぼくの心理状態にピタリとはまっている。
 

2004/06/16(水) 男を磨くと、いい顔に変わってゆく
 
ずっと晴天が続いている。
気象庁は一度「梅雨明け宣言」をすべきだったのに、その機会を逸したようだ。
雨が続きそうになれば、「もどり梅雨」だといえばいいのに。
だが、天気予報がハズレただけで抗議の電話が殺到するらしいから、慎重にならざるを得ないのだろう。
農林水産業に従事している人たちは大自然とマトモに戦っているわけで、そのぶん天気予報も大事なのだ。
常にクルマに守られているぼくなど比べようもない。

今週に入ってから御中元の荷物が増えてきて、宅急便の夜配の仕事がキツくなってきた。
23時ごろじゃないと帰宅できない。
昨日、今日、たぶん明日も、日記を書くのがやっとのありさまだ。
毎日楽しみにしてくれている仲間が多いというのに、なんとも情けない。
新着情報をストックしていれば問題ないことだけど、これがなかなか…。
あ〜あ、とうとう弱音を吐いてしまったぞ。

さて、掲示板には新しいスレも立ち、盛り上がりを見せている「ブサイク論争」だが、今宵はちょっとちがう視点で書いてみよう。
「男を磨くと、いい顔に変わってゆく」
夢とかロマンを追い求める男は、ただぼんやりと過ごす男より「いい顔」をしている。

医者を例にとってみよう。
不便な孤島の自然のなかで、医者がいなくてどうしようもなく困っている人たちを助けるのは、Dr.コトーの世界。
金儲けだけが目的の医者には絶対に務まらないのだが、「ぼくがやらねば…」という正義感を持ってやれば、こんなに有意義な人生はない。
全島民の生命と健康を守ることが使命だから、責任は重いけれども、やり甲斐がある。
毎日いろんな症状の人間(患者)と接するから、飽きることがない。
こうして医者は人間的に成長し、顔つきも「いい顔」へと変わってくるのだ。

学校の教師や会社の上司も同様。
「波風立てずにいれば、チョロい仕事だ」と思っている人もいれば、「この生徒(部下)たちの人生の道標になってやる」と使命感に燃えている人もいる。
どちらが「いい顔」をしているかはいうまでもない。

夢やロマンなどと大げさに構えなくてもいい。
明確な“目的”とそれを実現するための“目標”を持って前進する男の眼には、力がみなぎっている。
けっこう男前なのにモテないのは、眼に力がないからだ。
逆にいうと、眼に力があればブ男でもカッコよく見えるということだ。
さあ、眼ヂカラを!
今日から努力してみよう。

書かなくてもいいことだけど、ガンを飛ばせということじゃねえよ。
 

2004/06/15(火) 戦艦大和な一日
 
大東亜戦争末期、水上特攻隊の旗艦として沖縄突入を目指し、壮烈な最期を遂げた戦艦大和。
日本の誇りであり、沈没後59年を経てもなお人類史上最大最強の戦艦といえば大和!
こう書くとカッコいいのだが、超巨大戦艦がその真価を発揮することは一度もなかった。
ハワイ真珠湾攻撃、ミッドウェイ海戦、マリアナ沖海戦、フィリピン沖海戦など大海戦に参加はしているが、いつも後衛部隊か前衛部隊にいたため、心ゆくまで巨砲をぶっ放したことがない。
いつも遠くから戦況を眺めていただけなのだ。
唯一フィリピン沖海戦のときにはチャンスが訪れたが、臆病者の栗田司令長官が敵を目前にして反転したため、巨砲の威力を見せつけることはできなかった。
ひと言でいえば、「宝の持ち腐れ」で終わったわけだ。

ところで、ぼくが配送の下請けをしている会社は、基本的には営業マン自身が配達をすることになっている。
ということは、早い話、ぼくは緊急時のための配達要員だ。
が、なかには「ちょっと遠い」だとか、「行きづらい」とかの理由で、営業マンが行きたがらない客もある。
そういうときもぼくの出番だ。
緊急出動とみんなが行きたがらない客への配達件数が退屈しない程度にあればいいけど、極端に受注がない日もある。
すると、ぼくは近代日本史の本を読みながら、出番を待ってずっと待機している。
ほかには何もすることがない。
せっかくの戦力も「宝の持ち腐れ」なのだ。

だから、午前中一度も出番がなかったとか、午後は夕方一回出ただけだったとか、そういうヒマな時間を過ごしたとき、ぼくはその日を「戦艦大和な一日」と呼んでいる。

ちなみに、ぼくはというと、日割りで運賃契約をしているから、「戦艦大和な一日」が多ければ多いほどトクをする。
「こうヒマだと一日が長いですよねえ」などと偽善なことをいいながら、実は大歓迎なのだ。

【教訓】
「飾ること」が目的ではなくて、「つかうこと」が目的で買ったモノならば、惜しむことなくつかいましょう!
 

2004/06/14(月) かわいい女のコなら、何をやっても許される?
 
大手掲示板サイトをのぞいていたら、「小6女児殺人事件」に関するスレがいくつかあったので、ちょっとのぞいてみた。
多くの人たちが殺人少女の顔を「かわいい」といっている。
そんなことより、「かわいい女のコなら何をやっても許される」という書き込みがあって、賛同している人がけっこういるのが気になる。
悪ふざけなのか、本心なのか、それはわからないが、たぶん半々なのだろう。

そういうふうな考え方をしている男のコが、将来、風采の上がらない自分の容姿と比較して分不相応なほどに美しいけど、ダンナのことを愛していない女のコと結婚したらどうなるのか。
「よその男と浮気をしたけど、美人だから仕方ねーよな」
「家事や育児が一切ダメだけど、顔がきれいだから…まあいっか」
「妻と不倫相手の間にできた子どもだけど、美人を妻にしたんだから、こういうリスクも覚悟のうえさ」
そういうことになるかもしれない。
こんなんで楽しいだろうか?

さて、皆伝掲示板では「ブサイク論争」が起きている。
「顔が人生を左右する」のか、それとも「人間、顔だけじゃない」のか。

去年の夏から宅急便の仕事をしていて、1万人を軽く超える人たちと会ってきた。
ハッとするほど美しい女性もいれば、不美人もいる。
男前もたまにはいるけど、ブ男のほうがやっぱり多い。
外観は豪邸だが一歩入ればゴミ屋敷という家もあるし、隅々まで掃除がゆき届いているアバラ屋もある。
容姿の問題とは関係ないか…。

きれいごとだといわれようとも、ぼくが「この人っていいよなあ」と思うのは、容姿が美しい人じゃない。
宅急便ドライバーに対してもバカにせず、きちんと挨拶をしてくれる人であり、過酷な労働に従事する者への感謝といたわりの気持ちを持ってくれている人だ。
その点、日本の老人は全体的に礼儀正しく、人間愛に満ちているから、それだけで美しく見える。

学生時代には誰もが、アイドルやミュージシャンなど、外見の美しい人にあこがれを抱く。
その人の内面が、実は性悪者かもしれないというのに…。
これは、自分とは何者なのか自信が持てないうちは、確固たる人間の価値というものを容姿の美しさだけにしか見い出すことができないからだ。
しかし、人間というものは必ず年老いてゆくから、若く美しい時代ばかりではない。
このことを知っておかなければならない。
学生時代に熱をあげたアイドルが、加齢とともに落ちぶれてゆく様を見るにつけ、ただ美しいだけでは生きてゆけないことに気づくことだろう。

さて、「美しさ」を信奉する学生に、こういうことを今すぐ理解せよ、といってもたぶん無理だ。
だけど、やがて社会人になり、数年たてばわかってくる。
仕事のできる男がモテるということも、カッコいい男よりもやさしくてマメな男が好かれるということも。

ぼくは、「自分を愛することができなければ、誰かを愛することはできない」と思っている。
好きな女のコができたとき…
「ぼくは自分のことが嫌いでたまらないんだけど、キミはぼくのことを愛してほしいんだ」
と、こんなことがいえるか?
これは何も恋愛だけに当てはまることじゃない。
「自分のことが嫌いだけど、仕事(勉強)はがんばろう!」とは思えないはずだ。

まずは、自分を好きになることから始めよう。
そうしなければ、一歩も前に進めないのだ。
 

2004/06/13(日) 今さら「自己責任論」
 
今日は雲ひとつない快晴だが、気温はあまり上がらなかった。
吹く風もさわやかで、まるで秋を思わせるような一日だった。
窓から見える海はおだやかで、小さな漁船が立てる白波以外に波頭は見当たらない。

しかし、ぼくは今日の休日も、部屋の外へ出かけることは一度もなかった。
かといって、それが苦痛ではなく、気にしているわけでもない。
眠くなれば寝て、起きていればパソコンに向かって文章を書き綴る。
もしぼくがサイトの運営をしていなければ、更新のために費やしているけっこうな時間をどうやってすごすのだろうか。
たぶん読書ということになるのだろう。

昨夜から今日にかけて『イラクの中心で?アカをさけぶ』の続きを書いていた。
今さら…という気がしないでもないが、この春大流行した「自己責任」の意味について、明快な答えが出せたのでここに書いておこう。

イラク事件の人質に対して、国民から「自己責任」という言葉が突きつけられた。
このとき、人質擁護派は「自己責任=救出に要した費用の自己負担」、あるいは「邦人救出義務の放棄を認めるつもりか」と考え、強い拒否反応を示した。
けれども、それは論点のすりかえだ。
自己責任論者の一人としていうのだが、お金のことで自己責任をとれといったわけじゃない。
政府に無許可で勝手に危険地域に入った者については、見棄てたらいいということでもない。

日本政府が「行くな」といっている場所へ自分の意思で行ったのだから、たとえそこで危険な目に遭ったり、命を落とすような結果になったりしても、そのことを「日本のせいにするな」ということだ。
日本国内にいながら本人が望まないところへ無理やり連れて行かれた「北朝鮮による拉致被害者」とは根本的にちがうのだ。
だから、両者を一緒にして考えてはいけない。
 

2004/06/12(土) なりすましがいる!
 
「☆キキ☆」とか「オラフ」さんの名をかたり、掲示板に投稿している者がいる。
姑息なことをせず、自分のHNで堂々と投稿したらいいじゃないか!
本名を出すワケじゃあるまいし…不思議なことをするもんだ。

同時に「ブサイク論争」が起こっていて、ニセ者のキキが「将軍様何か言ってあげたら?」と書いている。
ぼくとしてはこのまま無視するつもりはない。
意見を述べようと思っているけど、絶望的に時間がない!
それだけのことだ。
書くべきときにはちゃんと書く。
というか、ニセ者よ、荒らし行為をやめろ!

全然騒がれてないけど、郡山総一郎が名古屋で講演して、イラクを再訪するといったそうだ。
懲りないヤツ。
こりゃ、「イラクの中心で、アカをさけぶ」を早く書いておかなくちゃ。
 

2004/06/11(金) 少年時代Part5
 
シーアイランド・サミットが終了。
記念撮影で小泉首相が中央の位置をゲットし、日本の首相としては快挙だとして騒がれている。
再選不可能と見られているブッシュ大統領に気に入られても仕方がない。
そんなことより、日本が強く主張した「北朝鮮による拉致問題」が、前回サミットに続き議長声明に盛り込まれたことに意義がある。
小泉首相は会見でも、「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」と明言した。
さらに国内では、細田官房長官が「政府としては国交正常化交渉に朝鮮総連が参加することを了承していない」と発言。
北朝鮮に対し、急に強気の構えを見せている。
ブッシュ親分との間で何かの「密約」ができたんじゃないか?

どうせなら、もうひと言欲しかった。
「拉致被害者とその子どもたち全員の即時帰国を実現しない限り、米と医薬品の援助の話はなかったことにする」
もう崩壊寸前の北朝鮮は焦りまくるはずだ。
金豚に一矢報いるどころか、一気に追い込むことができたはずなのに。

≪続き≫

だが、これにて一件落着とはいかなかった。
ついに積年の恨みを晴らしたぼくは、イジメられることがなくなった代わりに孤独になった。
集団登校や下校のとき、みんなから徹底的に無視をされたのだ。
もちろん大沢親分の指示だ。
当然ながら、“野球のメッカ”だった「ハゲ山球場」に、ぼくが姿をあらわすことは二度となかった。

針のムシロを歩いて通うわが子を不びんに思ったヤンママは、今度は学校と話をつけて、毎日ぼくをクルマで送迎してくれた。
クラス内で浮き上がらなかったことが幸いだった。
隣の町に住む友だちが一人いたことと、担任が孤立させないよう気配りをしてくれたおかげだ。

そして、4年生の3学期の途中、突然ぼくの家は引っ越しをした。
転校するためじゃない。
虚弱なぼくを“再起”させるため、同じ校区内で2qほど離れた別の町へ引っ越したのだ。
これはぼくにとってありがたかった。
新しい友だちもできたし、好きな野球もすぐに再開できた。
驚いたことに、そこでは上級生を含めても野球が一番うまいのがぼくだといわれた。

その頃の思い出は、校区内13町の小学生による「町別対抗ソフトボール大会」だ。
引っ越し後間もない5年生の春、ぼくは1番ショートで出場し、チームの準優勝に大きく貢献した。
以前住んでいた町とは準決勝で激突して、7対5で打ち勝った。
ダントツの優勝候補を倒しておきながら、決勝で敗れてしまったことは残念だったが、ぼくがその人生のなかで初めて目立った出来事だった。
大沢は既に中学生になっていたから関係なかったが、ぼくをイジメた“大沢の子分たち”が、「アイツがこっちにおったらなあ…」と漏らしていたことを伝え聞いて、「ザマァ見ろ」と思ったものだ。

「母親に守られていることを強く感じたことによって、自分に自信を持てた」
ぼくはそう信じている。

≪完≫

だが、15歳のとき、とんでもない不幸がぼくを襲った。
そのことについては、また次の機会に。
 

2004/06/10(木) 少年時代Part4&13万ヒット!
 
継続は力なり!
今日、皆伝の累計アクセス数が13万を超えた。
何度かやめようと思ったのに、今もって続けているのは、ひとえに読者のみんなの励ましがあったからだ。
さあ次は、めざせ20万ヒット!
今のペースでいけば、来年の3月あたりに20万ヒットに到達することになる。
だけど、そんな先のことは考えないことにする。
一日一日を大事にしていこう。

≪続き≫

こうして、ぼくのグラブは半ば大沢のものになった。
「ハゲ山球場」での試合中、ぼくが使うことは一度もなかった。
それどころか、大沢は「明日はクラスマッチでソフトボールがあるから」とか、「体育の授業でつかうから」などと理由をつけてはぼくのグラブを自宅へ持ち帰り、いつの間にか“我がモノ”にしていた。
今考えれば、既成事実を積み上げ、グラブの所有権を強引に認めさせようとしていたフシがある。
これは、中国が尖閣諸島を日本から奪おうとしているのと、基本的には同じやり方だ。

けれども、ぼくは、何とか取り返さなければいけないと思いながらも、自分ひとりではどうすることもできなかった。
そこで、ある日の夕方、母親にありのままを打ち明けた。
母親はぼくを16歳のときに産んだから、ぼくが小4(9歳)当時は25歳!
相当なヤンママだった。
ヤンママは驚いた様子だったが、予想以上に素早い行動にでた。
その夜、ぼくを連れて大沢の家に怒鳴り込んだのだ。
「あんたとこの子が、ウチの子の“グローブ”取ったゆうじゃないか。今すぐ返してや」

親同士ケンカになるのではないかという心配は取り越し苦労だった。
もともと相手が一方的に悪いのだから、大沢の親には反論の余地がなかった。
すぐに大沢本人がグラブを持ってあらわれた。
「ほかにもいろいろ聞いとるけど、今度ウチの子をイジメたら、こらえたもんじゃないで!」
ヤンママが小気味よくクギを刺した。
すると、大沢はいかにも無念そうな顔で、ぼくに向かい頭を下げた。
「ゴメンなさい。もう二度としません」

ヤンママが普段から一人っ子のぼくを溺愛していることはわかっていた。
が、こういう強さを持っているとは知らなかったわけで、お子ちゃまだったぼくにとっては十分に衝撃的だった。
後で「ヤンママの威を借るチビ」といわれることは確実だったが、ただ単純にうれしかった。

≪続く≫
 

2004/06/09(水) 少年時代Part3
 
梅雨の谷間の快晴というけど、梅雨入り後に雨らしい雨が降ったのはたった一日だけ。
これまでのところはカラ梅雨だ…といえばいいのに。

中国が東シナ海の日中境界、尖閣諸島付近に天然ガス採掘施設の建設を開始した。
中国としては、この海域に隠されている天然資源の独占、そして、尖閣諸島領有の既成事実化を狙っている。
当然、排他的経済水域も拡大することになる。
いち早く中川経産大臣が抗議をしたようだが、日本政府としては抗議を申し入れていない。
小泉は何をもたもたしている?早く怒鳴り込めよ!
この問題をどう解決するか、みんなで注目しておこう。

さて、【少年時代】を書き始めたのはいいが、日記コーナーに併記するエピソードとしては、ちょっと本格的すぎたかなあ。
どうせ時間をかけて書くのなら、最初から私小説として書けばよかったかも。
まあ、でも、乗りかけた船だから、もう少し続けてみよう。

≪続き≫

その翌日、ぼくは自転車のカゴに真新しいグラブを乗せて、「ハゲ山球場」へ向かった。
「ハゲ山球場」とは、ぼくらが毎日野球に打ち込んだ聖地のことで、町内にあったハゲ山を新興住宅地にするために切り開いた更地だ。
幅30メートル、長さ70メートルぐらいの長方形の“球場”だった。

ぼくが球場に着くと、すでに6年生の一人、巨漢の大沢が来ていて、ぼくのグラブを目ざとく見つけてニヤリと笑った。
「オニューじゃない!ちょっと触らしてくれや」
「えー!」
ぼくがいうより早く、大沢はグラブを手に取り、ボールをパンパンと叩きつけて感触を試した。
イヤーな予感が走り、寒気がした。

案の定。
「これええわい。おれ、今日からこれ使うでえ。おまえはこっち使えや」
そうというと、大沢はボロボロに使い古した自分のグラブをぼくの足元へ投げてよこした。
これは一大事!なんとか阻止しなければならない。
焦りまくったぼくは、勇気を振り絞っていった。
「かあちゃんが人に貸したらイカンゆうたけん、絶対貸せんけんね」

すると、大沢は大音響で怒鳴った。
「はあ?もう一回ゆうてみい、どチビ!」
「……」
「今までおれの(グラブ)を何回貸してやった思とんじゃ!偉そうなことぬかすな」
「あ、それは…はぃ…」

情けないことに、弱気なぼくは大沢親分の恫喝に屈し、あっさりと引き下がってしまった。

≪続く≫
 

2004/06/08(火) 少年時代Part2
 
宅急便の会社から携帯電話用の「イヤホン型ハンズフリー」が支給された。
自動着信に設定して使ってみたら、通話相手の声が聴き取りやすく、当然のことながら両手が自由で、なかなかよかった。
ケータイが発する電磁波の影響もイヤホンを使うことによって、わずか1/33に軽減されるらしい。
罰金の適用ルールが厳しくなることだし、明日からは昼間の仕事でも使うことにしよう。

≪昨日の続き≫

だが、たまには8人しか集まらない日もあって、そういうときは両方のチームのバッティング投手をする激務から解放されて、打席に立てることもあった。
たった4人のチームで1イニング3アウト制、ボールが見えなくなるまで延々続けるのだから、本当なら10回でも20回でも打席に立てるはずだ。
しかし、ぼくのバットが快音を発するのはせいぜい2〜3回。
空振り三振ばかり…という意味じゃない。
それにはカラクリがあった。
打順を待っている間は「球拾いをしろ」と命じられ、草むらの中を駆けずり回った。
必死で探してやっと戻ってみると、既に3アウトチェンジ。
「ジュースを買ってこい」といわれ、パシリをさせられている間にチェンジということもあった。
当然、イジメられっ子にジュースは支給されない。
まあ、そんなこんなで、卑怯なヤツらに打席を飛ばされたんだ。

それでも、野球が好きだったから、ぼくは休むことなく参加した。

そんなある日、両親が慎重に審議した結果、ぼくにグラブを買ってくれることになった。
生まれつき病弱だったわが子がスポーツに打ち込んでいることが、嬉しかったようだ。
それまで、ぼくはグラブを持っていなくて、攻撃側の人にいつも借りていたのだ。
「ヘタクソがうつる」とイヤミをいわれながら…であったことはいうまでもない。

隣町のチンケなスポーツ店で、ぼくは一番安いグラブを買ってもらった。
いいのが欲しかったけど、子ども心にもわが家の貧しさはわかっていたから、無理にねだることはしなかった。
もっとも今まで持ってなかったのだから、少々ガキっぽいグラブでも十分だった。
しかし、このグラブが後で大事件を引き起こす。

≪続く≫
 

2004/06/07(月) 少年時代Part1
 
晴れのち曇りのち雨のち曇りという移り気な天気だったが、とりあえず曇りということにしておこう。
ラッキーなことに、宅急便の夜配が休みになった!
おかげさまで「小6女児殺人事件」の評論を“ほぼ”書き終えることができた。
そのなかで『正しい愛情』という話(9日に発表予定)を書いていて、ふと自分自身の少年時代を思い出した。

小学3年〜4年の頃、ぼくは体が小さくて弱虫だった。
今も変わってないけど…。
近所の同級生に耳をかまれて泣かされたり、集団登校のときには、毎日のように上級生のカバンを何個も持たされた記憶がある。
結構イジメられていたんだ。

帰宅してからは、毎日ボールが見えなくなるまで野球に明け暮れた。
集まってくるのはたいてい9人。
リーダー格の6年生2人がじゃんけんをして、勝ったほうから交互に好きな子どもを選んでゆく。
ぼくはヘタクソだったから、どちらからも指名されなかった。
その代わり、両方のチームでピッチャーをした。
が、決して名誉なことじゃない。
人数が少ないから三角ベースの野球で、ストライク・ボールの判定もないから、ぼくはバッターが打ってくれるまで投げ続けなければならない。
要するに、両方のチームのバッティング投手であって、打席に入ることは一度もなかった。

続きは、また明日
 

2004/06/06(日) 人間は弱い生き物
 
今日の日曜日、一歩も外へ出なかった。
相変わらずヒッキーな休日だった。
ところで、ぼくはなぜヒッキーになったのか。

ぼくは人と付き合うとき、相手を100%信用することから始めていた。
友だち付き合い、ビジネス、恋愛など、いずれの場合もそうだった。
その結果、ほとんどの人たちに裏切られた。

20万円近くもの金を貸したのに、返してくれなかったり。
気のおけない友人だと思っていたヤツが、実はぼくが敵対していた相手のスパイだったり。
こちらはお祝い事があるたび祝い金を贈っていたのに、相手からは何一つお返しがなく、それどころか「あの人(ぼくのこと)には何一つしてもらったことがない」と陰でいわれていたり。
高校時代からの貴重な親友から「金を貸してくれ」と頼まれ、断わったら音信不通になってしまったり。
ちなみに、そいつが大学生(こっちは社会人)当時のことで、今は小学校の教師をしている。

【ぼくはこんなにいい人なのに、周囲の人たちに恵まれていない】
そういうふうに自分を美化して考えることができたら、気分的に楽だろうと思う。
が、とても聖人君子にはなれないとわかっているから、自分を納得させてしまうには無理がある。
ぼく自身が他人の悪口を絶対にいわないかというと、そうではない。
たまには、ぼくを裏切ったヤツらの不幸を望んでいたりもする。
中途半端な言論活動をしているけど、ぼくも弱い人間なんだ。
ただ、他人を陥れるような行為をしたことがないのは救いかもしれない。

ということで、ぼくが仕事以外の用事では外出しない「半ヒッキー状態」になったのは、人間不信が原因なのだ。
 

2004/06/05(土) 人は鏡
 
気象庁の「梅雨入り宣言」は勇み足だったのか。
完璧な晴天が続いているぞ。
目くじら立てて批難するつもりはないけど。

さて、「人は鏡」とはよくいった言葉だ。
ぼくが快く思っていない人は、相手のほうもぼくのことを快く思っていない。
ぼくが信頼している人は、同じように相手もぼくのことを信頼してくれている。
恋愛関係では必ずしも「人は鏡」といいきれない面があるけど、職場での人間関係については、特に当てはまることが多いような気がする。

波長が合わない人に頼まれた配達に限って、渋滞に巻き込まれて相手が希望していた到着予定時刻に遅れたりするものだ。
また、ピッキング(品出し)の段階でまちがうのは珍しいことじゃない。
積み込む前に確認をするから、ぼくは今の仕事で誤配をしたことは一度もない。
しかし、ぼくのことを信頼していない人が倉庫に来ているときに限って、たまたまピッキングミスを発見したりするものなのだ。
不思議なことに…。
そして、「わしが見つけんかったら、誤配しとったよ」という。
「あんたにいわれんかっても大丈夫」といい返したいところだが、下請け業者としては、とりあえず笑ってごまかすしかない。
そこへ、「もっとしっかりせないかんで」と追い討ちをかけられたりすると、謙虚さのないぼくは「こいつ何様のつもりや」と思ってしまう。

こういう些細な出来事の積み重ねが、やがてお互いの大きな不信感、不快感へとつながってゆく。
どうしても必要なこと以外は会話をしなくなり、二人の仲は修復不可能なほどにこじれてしまう。
あるいは、職場での地位の近い者(たとえば平社員)同士であれば、互いに火花を散らし合うことになる。

責任者はきちんと観察していて、二人の対立に気づかなければならない。
みんなが気持ちよく仕事ができる環境や雰囲気をつくることこそが、責任者の使命なのだ。
けれども、当たり前のことができる責任者がいない。
だから、周囲の人と摩擦が起こらぬよう自分で努力をするしかない。

一般論として読んでもらえたら、ありがたいなあ。
 

2004/06/04(金) 異常殺人者を擁護するヤツらを信用するな
 
今月1日の日記で強気なことを書いておきながら、その舌の根も乾かぬうちに、ぼくは日記さえ書けないほどに衰弱してしまった。
全身全霊を捧げても、眠気に勝てない。
ショックで夜も眠れないどころか、気がついたらもう朝だ…。

さて、佐世保で起きた事件は「同級生殺人事件」ではなく、以後「小6女児殺人事件」と呼ぶことにしよう。
ノーテンキな評論家や専門家たちが、こういう事件が起きると毎回同じことをいっている。
「社会が悪いからだ」と。
そんな理屈がまかり通るなら、世の中は殺人者だらけになってしまう。
ぼくは、屁理屈をこねているヤツらのいうことを信用しない。

異常殺人者は徹底的に断罪されなければならない。
詳しくは評論作品のなかで書くことにする。
せっかく『イラクの中心で、アカをさけぶ』を書き始めたところだが、偏向報道を放置することはできない。
 

2004/06/03(木) 同級生殺人事件
 
1日に起きた小6の女子児童による「同級生殺人事件」について、専門家たちがいろんな分析をしている。

ネットの掲示板の書き込みで容姿をケナされたことが原因。
ネット心理ではサディスティックになる傾向がある。
ネットのバーチャル世界が引き起こした悲劇。
今の日本の学歴社会では、成績のよい子どもほど「何をやっても許される」と思い上がってしまう。
普通の家庭に育った普通の子。

なんでもかんでもパソコン(インターネット)のせいにするのは、いい加減やめにしてもらいたい!

では、こんな小悪魔があらわれたのは、腐った社会のせいか?
マトモな教育ができない学校のせいか?
親の責任なのか?

ぼくは、そんなことで殺人者に対して寛大な気持ちを抱くことはできない。
残酷な殺人を犯した者が、“運良く”小6の女子児童だったからといって、特別扱いをする必要はない。
腐った社会のなかに生きていて、道徳を知らない教師から指導を受け、愛情薄い親に養われているのは、みんな一緒だ。
それなのに、犯人の女児だけが殺人を犯した。
こいつは普通なんかじゃねえよ!
悪魔なんだよ!
 

2004/06/02(水) プロとアマのちがい
 
運転をしながら、プロとアマのちがいは何だろう、とぼんやり考えてみた。

「本当にやりたいこと」と「生きるためにすること」が同じであれば、その人はプロフェッショナルだといえる。
そうでない人はアマチュアなのだ。
たとえば、ぼくの場合、本当にやりたいことは作家の仕事。
生きるためにすること、つまり生活の糧となるカネを得ているのは、配達の仕事だ。
だから、しょせんはアマチュアでしかない。
当然ながら、プロの作家先生は文章を書きたいから書いているのであって、文筆活動によって生活の糧も得ている。
大げさに悟るまでもなく、両者は明らかに異なる。

また、スポーツについても全く同じことがいえる。
野球選手は好きな野球に打ち込みながら、同時に報酬を得ることができる。
しかし、“草野球”選手は報酬が得られない。
趣味の世界なのだ。

では、サラリーマンはどうか。
余計なおせっかいだけど、毎朝ストレスを感じつつ出勤し、好きでもない仕事をイヤイヤしている人たちが多いのではないか。
「報酬を得ている以上、キミたちはプロなんだ」
「プロに徹しろ」
というふうに、会社からは叱咤激励される。
が、本当にやりたいことを職業としていない人に対して、そんなことをいったところで無理な話だ。

「この会社を辞めると生活が立ちゆかなくなるから、仕方なく今日も…」
「給料をもらっている以上、ちゃんと仕事をしなければならない義務がある」
これではプロ根性を期待することはできない。

しかし、ひとつ大事なことは、全てのサラリーマンがこんなふうじゃないということだ。
「この仕事が好きだからこそ、がんばっている」という人もなかにはいる。
プロのサラリーマンと呼べる人たちだ。
そして、ほんのひと握りしかいないプロのサラリーマンになれたなら、烏合の衆を蹴落として出世するのはいとも簡単なこと。

まずは、今やっている仕事を好きになることから始めよう。
 

2004/06/01(火) ひと月の計は一日にあり
 
「一年の計は元旦にあり」というが、「ひと月の計は一日にあり」とはいわない。
しかし、実際には一年サイクルで物事を考えられる人など稀で、「その日暮らし」の人たちのほうが圧倒的に多い。
そこで、ぼくは月が変わると、「今月はこうして、ああして…」と考えるようにしている。
が、なかなか思うようにはいかないもので、結果的に「その日暮らし」になってしまう。
特に、朝から深夜まで外で働いている現在、執筆活動(というほどのものじゃないけど)は悲惨だ。
短時間で評論を書きあげようとするから、満足のゆく文章が書けない。

では、人様に読んでもらう文章をいい加減な気持ちで書いているのかというと、そんなことはない。
ぼくとしては全身全霊を込めているつもりだ。
そうでなければ、すぐにキーボードの上にヨダレを垂らして眠りこけてしまうはずだ。
ただし、強いはずの意志でも睡魔に勝てないときがある。
 


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