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2004/06/11(金)
少年時代Part5
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シーアイランド・サミットが終了。 記念撮影で小泉首相が中央の位置をゲットし、日本の首相としては快挙だとして騒がれている。 再選不可能と見られているブッシュ大統領に気に入られても仕方がない。 そんなことより、日本が強く主張した「北朝鮮による拉致問題」が、前回サミットに続き議長声明に盛り込まれたことに意義がある。 小泉首相は会見でも、「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」と明言した。 さらに国内では、細田官房長官が「政府としては国交正常化交渉に朝鮮総連が参加することを了承していない」と発言。 北朝鮮に対し、急に強気の構えを見せている。 ブッシュ親分との間で何かの「密約」ができたんじゃないか?
どうせなら、もうひと言欲しかった。 「拉致被害者とその子どもたち全員の即時帰国を実現しない限り、米と医薬品の援助の話はなかったことにする」 もう崩壊寸前の北朝鮮は焦りまくるはずだ。 金豚に一矢報いるどころか、一気に追い込むことができたはずなのに。
≪続き≫
だが、これにて一件落着とはいかなかった。 ついに積年の恨みを晴らしたぼくは、イジメられることがなくなった代わりに孤独になった。 集団登校や下校のとき、みんなから徹底的に無視をされたのだ。 もちろん大沢親分の指示だ。 当然ながら、“野球のメッカ”だった「ハゲ山球場」に、ぼくが姿をあらわすことは二度となかった。
針のムシロを歩いて通うわが子を不びんに思ったヤンママは、今度は学校と話をつけて、毎日ぼくをクルマで送迎してくれた。 クラス内で浮き上がらなかったことが幸いだった。 隣の町に住む友だちが一人いたことと、担任が孤立させないよう気配りをしてくれたおかげだ。
そして、4年生の3学期の途中、突然ぼくの家は引っ越しをした。 転校するためじゃない。 虚弱なぼくを“再起”させるため、同じ校区内で2qほど離れた別の町へ引っ越したのだ。 これはぼくにとってありがたかった。 新しい友だちもできたし、好きな野球もすぐに再開できた。 驚いたことに、そこでは上級生を含めても野球が一番うまいのがぼくだといわれた。
その頃の思い出は、校区内13町の小学生による「町別対抗ソフトボール大会」だ。 引っ越し後間もない5年生の春、ぼくは1番ショートで出場し、チームの準優勝に大きく貢献した。 以前住んでいた町とは準決勝で激突して、7対5で打ち勝った。 ダントツの優勝候補を倒しておきながら、決勝で敗れてしまったことは残念だったが、ぼくがその人生のなかで初めて目立った出来事だった。 大沢は既に中学生になっていたから関係なかったが、ぼくをイジメた“大沢の子分たち”が、「アイツがこっちにおったらなあ…」と漏らしていたことを伝え聞いて、「ザマァ見ろ」と思ったものだ。
「母親に守られていることを強く感じたことによって、自分に自信を持てた」 ぼくはそう信じている。
≪完≫
だが、15歳のとき、とんでもない不幸がぼくを襲った。 そのことについては、また次の機会に。
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