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2004/06/20(日)
自由、平等、博愛
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「自由、平等、博愛」はフランス革命のスローガンで、近代市民主義の旗印となっていた。 今でも「自由、平等、博愛」を叫ぶ人たちがいて、この錦の御旗を振りかざせば、世の中を渡ってゆけると考えているようだ。
が、「自由、平等、博愛」のスローガンには重大な矛盾点がある。 博愛はよしとしても、自由であれば平等にはならないし、逆に平等であれば自由がないのだ。 しかし、多くの人たちが「自由=平等」だとカン違いをしている。
一昨日ぼくは、下請けをしている会社の「新入社員歓迎会」に誘われた。 幹事が、社員同然に仕事をしてもらっている仲間として、ぜひ参加をしてほしいといってきたのだ。 けれども、ぼくは「行きたくありません」といって断わった。
下請け業者はあくまで下請けにすぎない。 配送を請け負っている会社の業績が悪化すれば、まっ先に切られる存在であって、会社に忠誠を誓って行動すれば“ある程度”守ってもらえる社員とは一線を画すべきだ。 ましてや飲み会の席で、「杯を交わしたから、これからはキミも仲間だ」とか「準社員のつもりでがんばってくれたまえ」とかいわれるのは、まっぴらゴメンだ。
準社員として“平等”に扱うからといわれてその気になり、馴れ合いになったらどういうことになるか。 仕事がやりやすくなるという面は多少あるかもしれないが、それは気分的なものだけだ。 仕事内容でトクをするということはまずない。 本来社員がすべき仕事が当たり前のように回ってきたり、社員並みに無報酬で残業をさせられたりするのがオチなのだ。
このぼくの考え方は世間一般からみれば、まちがっていると思われるかもしれない。 しかし、今のところぼくが毎日の過酷な労働に耐えられるのは、自営業(フリーターと変わらないが)の自由さが心のよりどころとしてあるからだ。 これを放棄すると、たぶんマトモに生きてはゆけない。
さてと、「自由=平等」がカン違いであることは、経済体制の上でも証明されている。 『資本主義』とは平等より自由が好きだという人たちがつくった体制であり、『共産主義』とは自由よりも平等のほうが好きな人たちがつくった体制なのだ。 共産主義国家の北朝鮮では、特権階級で搾取が行なわれているが、ほとんどの国民は絶望的な貧困と飢餓の恐怖を平等に味わっている。 一方で資本主義の日本やアメリカでは、一部の大企業と資産家に富が集中し、金持ちと貧乏人の格差がどんどん拡大している。 自己資本(お金)を使って自由に金儲けができる国には、貧富の差という問題が存在しても当然なのだ。
そうかといって、いまの内閣が推進している大企業優遇政策を見逃し続けると、多くの国民の生活が立ち行かなくなるのは確実だ。 いかに日本が資本主義体制であっても、悪用は阻止しなければならない。 資本(自由)主義、共産主義に代わる経済体制を考案したいけど、ぼくにはそこまでの能力はない。
今日のところはとりあえず… 【少年よ、自由と平等は両立しない】ということにしておこう。
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