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2004/06/21(月)
「生きる」とはどういうことか
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「生きる」とはどういうことなのでしょうか。 未熟者ですが、ぼくなりに一生懸命考えてみました。
人それぞれいろんな答えがあると思うけど、ぼくは『自分が持っている可能性を形にすること』だと考えています。 ひと言でいえば『自己実現』という言葉になるのでしょうか? そして、人はその過程を経験することによって、自分自身を見出すことができるのだと思います。
たとえば、野に咲く花は、見てくれる人がいなくても、また、ほめちぎられるようなきれいな花ではなくても、そのことをひがんだり嘆き悲しんだりはしません。 天から与えられた能力(=可能性)のなかで、ただ精一杯咲くだけです。 「生きる」とはそういうことだと思います。
自分が持っている可能性が最大限に実現されている瞬間、人はもっとも美しく輝きます。 これは死ぬまで変わらない法則というか、原理というべきものではないでしょうか。 そして、この原理は、その人の社会的地位や年齢、能力によって左右されることはありません。 なぜかというと、最大限に発揮された可能性への評価というものは、自分自身のなかにおける『絶対評価』でなければならず、他人との比較による『相対評価』であってはならないからです。
さて、自己実現などという言葉を大上段に振りかざすと、「他人より優れた能力だけを伸ばすことだ」と思われがちですが、決してそうではありません。 たとえ他人より劣った能力であっても、人間として生きてゆくために必要なものであれば、伸ばしてゆかなければなりません。 たとえば、読書が苦手だからといって全く読書をしない人は、人間としての主体性を失ってしまっています。 人より劣っていたとしても、自分にはその能力しかないのです。 それさえも放棄するということは、読書によって得られる人間性(心の豊かさ)を永遠に身に着けることができないということです。 苦手であっても、自分ができる範囲で読書をすれば、必ずその分だけ自分の世界が広がるはずなのに…。 たとえがよくないかもしれないし、自分の大好きな読書を引き合いに出すこと自体が卑怯かもしれません。 けれども、「よりよく生きる」とはそういうことをいうのではないかと、ぼくは確信しています。
社会的に評価されるものを求めて生きようとするから、生きてゆくことが苦しいのです。 社会的と書くと何やら社会人の世界に限定されてしまいそうなので、学校内、学級内、仲間内とか置き換えるとよいでしょう。 他人に評価されることを考えるより先に、自分の持っている可能性を自分なりにより高いレベルで形にしてゆきましょう。 たとえバカにされようとも、一人の人間として必要なものは絶対に捨ててはいけません。 これが「生きることの基礎」になるのではないでしょうか。
では、一人の人間として必要なものとは、いったい何でしょう? それは『心』と『体』です。
哲学的な分野については無知なので、意味不明な文章になってしまいました。 ずいぶん偉そうなことを書いたけれども、ぼくはこういうふうに考えています。
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