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2004/07/18(日)
肩書きがなければ生きにくいのか?
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世の中には、定年後の何年か嘱託社員として残ったり、役職定年でヒラ社員として残ったりするオヤジも多い。 彼らは、「こまっちゃうよ」「部長でなくなると、人にも会いにくいしな」と、しきりにボヤいている。 つまり、部長とゆう肩書きがなくなって、人と会うときにも肩身が狭くなると嘆いているんだ。 それが極端になると、「恥ずかしくて人にも会えない」となる。 情けないことだ。 将来落ちぶれても、卑屈なオヤジにはなりたくない。 が、こうゆう傾向にある人たちがけっこう多いのは事実。
確かに、肩書きが仕事をすることもある。 部下が重大なミスをして、ある得意先から取引停止を宣告されたけど、部長が行って頭を下げると、先方は手のひらを返したように満足して、「まあまあ部長さん、今回のことは…」と許してもらえるもんだ。 それだけ『事大主義者』が多いってことだ。 ちなみに事大主義者とは、「自分の信念をもたず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身を図ろうとする態度や考え方をする者のこと」をゆう。
2年前まで、ぼくは大企業の看板を背負って、いや、そこまでゆうとおこがましい。 人と会うときには、上場企業の名刺を持っていた。 大きな組織に所属していることが、自分の社会的地位(?)が高いことの証明であるとカン違いをしていた。 当時、ぼくは会社のホープであり、ある種スター扱いされていて、親より年上のオヤジからでもチヤホヤされたもんだ。 でも、会社を辞め、たった一人自営で生活しようとしたとき、名刺とゆう「印ろう」がまぶしい後光となっていたことに気づいた。
一匹狼で波乱万丈の人生を送る人の話は物語になりやすく、多くの人たちがあこがれを抱く。 けれども、それはあくまでドラマの観客としてのことであって、自分自身が荒波に向けてこぎ出せるかとゆうと、そうではない。 多くの人たちが組織に従属して平穏に生きたいと願い、現実にはそうゆう人生を送っている。 どっちがいいとか悪いとか、決め付けることはできない。 まさに「人生いろいろ」じゃないか。
だから、ぼくとしては、どんな結末が待っているかわからないが、とりあえず一人で行けるところまで行ってみるか…。 その程度の認識しか持たないことにしている。 まあ、今でさえ十分に落ちぶれているわけで、これ以上落ちようがない。 ぼくの場合はそうゆう気楽さがあるから、こんなに無責任なエッセイを大量生産できるんだ。 う〜ん、ちょっと自虐的すぎるか…。
さて、ただ今15時15分。 今日は、これから宅急便の仕事へ、いざ出陣! 肩書きのない“宅急便もどき”でも、受け取る人たちを喜ばせることができる。 そのことを再確認してみようと思う。
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