【青春交差点】
 
いつもどんなときも。ぼくはぼくらしく。
 
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2006/01/10(火) 細胞から発する言葉
 
これまでに30篇の詩を書いてきた。
道でつまづき迷っている友を励ます詩とか、ひとりの女の子を純粋に愛する詩とか、自分自身の決意とか覚悟みたいな詩とか、いろいろ書いてきた。
時間があるときには、たまにそれらを読み返してみたりする。

そして、自分で自分を誉めてあげたいと思ったりする。
・・・けど、残念ながらできないでいる。
稚拙?拙劣?劣弱?弱竹(なよたけ)?
そういえば、小学1年生のときクラスは『竹組』だったな。
漢字で自虐な尻取りをしてみたけど、これ以上は続かない。
まあ、なんてゆうか、臆せず一言でゆうと「ヘタ」なのだ。

天才的な詩人が書いた詩と比べると、日本語とゆう言葉を使って表現するのは同じなのに、どうして雲泥の差が生じるのだろう?
語いの貧富とか、技術の巧拙によるものなのか?
もちろんそれらが原因であることは間違いない。

でも、それだけじゃないような気がする。
同じ景色を眺めてみるとき、天才詩人に見えるものと凡人に見えるものが、どうも違うんじゃないか?
それこそが根本的な違いなんじゃないか?

だとすれば、見えている世界が違うのだから、言葉で描く世界も違って当然だ。
語いや技術なら精進と経験により身に着けてゆくことが可能だけど、この瞳に映る景色を変えてしまうのは困難だ。
ショックでめまいがしそうになる。

そう考えたら、最近趣味になりつつある風景写真を撮るのがヘタなことにも納得がいく。
同じカメラを持って同じ場所に立ち、同じ夕日を眺めてみても、見えている景色が違うのだから、表現したいと感じる何かが変わり、同時にカメラアングルも変わってくる。
そして、出来上がった写真は全く違ったものになる。

きっと詩の世界もそうなんだろう。

では、なぜ言葉の天才に見えるものが凡人には見えないのか?
それは、ぼくが頭脳の知力だけで対象に接しているからだ。
だけど、天才は「からだの全存在」を駆使してぶつかってゆく。
「からだ全体」じゃなくて、「からだの全存在」であることが大事なんだ!

視・聴・嗅・味・触の五感を越える鋭い感覚、それは細胞に隠されている。
ぼくのからだ中にある細胞・・・生まれたての細胞も老いて排斥される細胞も・・・それがぼくのからだの全存在だ。
人間の知力は頭脳だけじゃない。
細胞のひとつひとつが体験して判断したものの集合体なのだ。

だから、ぼくは細胞から発する言葉を綴ることができるようになりたい。
言葉の職人ではなく、言葉の天才になりたい。

 


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