ルチアこころの景色
ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2005年4月
前の月 次の月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新の絵日記ダイジェスト
2005/12/18 12月の思い
2005/10/17 3ヶ月も・・
2005/07/02 恵みの雨音を聞きつつ未来のビジョンを思う
2005/06/17 天が警察と腕を組んで
2005/06/06 目をつぶれば森の中

直接移動: 200512 10 7 6 5 4 3 2 1 月  200412 11 10 9 8 6 5 4 月 

2005/04/28(木) 経験すること
ここ数日日本ではアクシデントに関するニュースが次々に舞い込み、一体最近どうなっているの?と首をかしげる事が多い。人間の命の儚さについてつい思ってしまう。いつもと同じような朝のはずが、そうでない事になる可能性。こうして生きている方がまるで奇跡のようだ。そして生きるからにはその意味があるはずだ。その意味ってなに?

きっと何かを感じたり考えたりする必要があるから、経験をするのだろう。人間は自分で実際に経験しないと実感できない生き物なのだと思う。想像するのと実感するのでは全く違うはずだ。

いつも車ばかり乗っている自分が最近自転車に乗ってみて、やっと自転車に乗る人の気持ちが心から実感できた。私は急いでいるときなどとても傲慢になる。車で走っていて、我が道(と信じている行き先)を自転車にちょろちょろジャマされるとむっとする事がある。思っちゃいけないと思いつつ、自転車の存在がしゃーしい。(博多弁)これはかなり自己中な感覚とわかっているのだが、車という個室でひとり運転に没頭して時間と戦う小さな私にはおおらかになれない部分がある。

そしてある日自転車を続けて乗ってみた。すると自転車に乗るわたしと車に乗るわたしは同じ人間だ、という事にまず気付いた。それなのに大きな乗り物に乗れば乗るほど、わたしがどんどん変化して傲慢になっていく。自分が大きな乗り物に乗っているから、優先順位が自分にあるように錯覚してしまうのだろうか。それともこれは私だけに限った事だろうか?

本来なら歩く人間も自転車に乗る人間も車に乗る人間も平等な命をもつ同じ存在。そして優先順位をつけるならまずは、か弱き歩く人が車より何より優先であるべきなのだが・・通りでは車が歩行者よりもエラそうにしている。そして私はその一員だ。

自転車に乗った自分もやはり歩く人間よりまだ傲慢だった。歩行者が自分をよけてくれないかな〜?なんて頭のどこかで考えている。また車に関してはその運転に対して、自転車からの視線でいろんな事を感じる。こんな風につらつらと考えつつ道を通っている間「だから人間っていろんな人に生まれ変わらないと他人の気持ちを痛感できないんだろう。いろんな人生に生まれ変わる事ってやっぱり本当に大切な経験なんだろう。」とそれこそこころで感じた。このような事、随分前から想像したり本で読んだりしていたけれど、自分の経験と知識が完全に一致する時だった。

外を移動する時に、また普段の生活の中で、他人と自分を同じように扱える自分になるまでは私は何度も生まれ変わるのだろう。私たちはもともとはひとつで、それから切り離されて個々になっているという意見がある。車を運転するときに、自転車で通りを行くときに周りと完全なハーモニーで進んでいける。そういう自分にいつかはなれるだろうか。

明日は自分がどうなっているかわからない。だから毎日が貴重。出来ることならいつかは大変な時に自分の命を捧げてでも他人を助ける事のできる人になりたい。名誉とかそういうのではなく、無我夢中でそういう事ができる人に単純に惹かれる。


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.