|
2006/05/21(日)
映画「ダヴィンチ・コード」の姑息性
|
|
|
公開二日目に超話題の映画ダヴィンチコードを見てきた。 普段は話題性の先行してしまっている映画には結果が出るまで行ったりはしないのだが、 旅行から帰ってきて多少興奮気味でそのまま映画に行くことに。 よーし、ダヴィンチコードに行こう! ってなミーハー気分で行ってしまった。 さてさて、その結果は。。
私は小説は読んでなくて、映画しか見ておらず、 しかも事前の前知識が何もない状態で映画を見た。 主演がトム・ハンクスだということすら知らず、 ジャン・レノが出ていることすら知らない状態で映画を見たことをここにお断りしておきます。
映画を見終わった感想は一言で、 「何が言いたいねん」 と言いたい。
この映画は触ってはいけない宗教の、キリスト教の隠蔽されたかもしれない秘密を題材にしているが、 ある仮説を元に物語りを作っている割に、映画作者の逃げの姿勢が見られてつまらない。 イエスに妻や子供が居たなどと、そんな仮説を小説で書くだけで殺されそうな題材なのだが、 作者が何故無事で居られるかというと、 どういう立場の人間が見ても大丈夫なような物語構成になっているから。
現存のキリスト教(と言っても多種多様あるが)を信ずる者が見ても、 映画内の仮説を信ずる者が見ても、 異宗教の者が見ても、 そして無宗教の者が見ても、 どうにでも取れるように物語りが構成されている。 背徳的で危険な秘密をちらつかせながら何も言っていないのも同然なので、 どの立場の人間にも見てみたいという興味をそそらせながら、 どの立場の人間が見てもこの映画を責めることはありえない、 どうにでも取ることのできる物語なのだ。
つまり見事に商業ベースに乗った作品と言える。 もちろん、作品というよりは前宣伝と言ったところかな。 ふー、見事に宣伝に乗ってしまったよ。 よよよ。
(好みもあるでしょうが、私は何かを主張したいとき、 そして別の立場のことを主張したい時も、 一本芯の通った主張をする方が問題提起としては興奮をそそると思う。 どちらでも取れるのよ。自分の好きな方でいいのよ、というのは受け取る側が選択することで、 モノを作る側が表だって言うことではないと思うの。 ちょっと乱暴な意見かな?)
この映画の成功は、公開後、如何にはやく入場者を大量に確保するかにかかっている。 多分時間が経てば、その興業成績はがたがたと落ちていくと私は予測してしまう。
ちなみに、小説の方は、もっと緻密な仮説の積み上げがされており、 多分その課程がかなり興奮をそそるのでは、と思われる。 その部分できっと映画より数倍はおもしろみがあるのではないだろうか。 原作を読んでないので想像の範囲内だが。。
全然ジャンルが違うのだが、先日見た映画「トム・ヤム・クン」の方が 100倍お金と時間を掛けて見る価値があった、 とここに付け加えておきたい。 ダヴィンチコードの情報HP http://www.sonypictures.jp/movies/thedavincicode/
トム・ヤム・クンの情報HP http://www.tyg-movie.jp/
|
|
|