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2005/11/24(木)
◆熟年離婚 B ◆水戸黄門の四方山話 @
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秋晴れの良いお天気です。 紅葉の一番良い季節ですがみなさんはもう何処かに行かれましたか? 山奥の温泉の露天風呂で紅葉を見ながら恋人と過ごすなんて最高だよなあ。 温泉までは大層だと思うけど、紅葉見物にはまだ間に合いますので誰か一緒に京都でも行きませんか?^^;;
◆熟年離婚 B
横内正の別居の理由が「義理の両親と住むのが嫌だ。」「思い通りの仕事をしたい。」と書きましたが とてもこんな理由では離婚できないと思うよね?^^;; しかし最近の裁判所の判例では修復不可能な夫婦が 死ぬまで同じ屋根の下に住むというのは無理があるという見解をとるようです。
離婚の理由の第一番目に挙げられるのが「性格の不一致」だそうですが これは間違いなく「性の不一致」でしょう。 ベッドを共にしないセックスレスの夫婦が急増しています。 むなしい日々を送りながら暮らすよりも積極的に離婚してやりなおしを勧めることが多くなっています。
婚姻を継続しがたい重大な理由は人それぞれでしょうが、横内夫妻も泥沼に入り込むより 慰謝料の問題でもめそうですが別れてすっきりした方が良いと思うけどなあ。
81年に結婚しましたが陽子さんに言わせるとこれまでにも二人の浮気相手を掴んでいるそうです。 93年に浮気が発覚し、以来12年間セックスレスだそうです。 もったいないよなあ・・・^^;; 横内は女が居たんだろうけど陽子さんは性欲の処理をどうしていたのかが気になりますね。^^;;
夫婦という間柄ではなくビジネスのパートナーとしての付き合いだったそうです。 横内の20年来のマネージャーが死去してから事務所が分裂し、 中年女性が社長となったようですがこの女性との噂も言われていますね。 また新しいマネージャーが舞台女優だそうですがこの女性ともいろいろ囁かれています。
どう考えても女の影があるようですね。^^;;
今月17日に「婚姻費用分担請求」の調停が行われましたが、双方とも内容は語りませんでした。 夫婦は別居後も収入があるほうが生活費等を支払う義務と言うのが婚姻費用分担責任なののですが、 横内が生活費等をくれないので陽子さんが調停を申し立てていました。 娘の学校の費用などももめていましたが、通常は大学までは支払うべきとのことです。 この娘は大学院生とのことなのでどうなったのかが気になりますね。 横内は成人している娘にはその必要はないと言っていましたが、 親子間で直接親に請求すると言うのが今の考え方のようです。 離婚に向けて調整中とのことですが、 横内と陽子さんのどちらが破綻原因を作ったのかが今後の焦点となりそうですね。 陽子さんは、22日発売の婦人公論12月7日号で 「横内正の妻としてもう一度だけ言いたい」として、再度、横内の態度を非難しているそうです。
でも離婚ってすごいエネルギーがいると思います。 俺にはとても出来ないなあ。^^;;
★あまり役に立たない面白雑学
◆水戸黄門の四方山話 @
横内正はテレビドラマの水戸黄門の初代格さん役で人気を博しました。 今日はちょっと黄門様のお話をします。
★「水戸黄門」は勧善懲悪のマンネリドラマの最たるものですが、日本人の気質に合うのか、 「赤穂浪士」と共によくドラマ化されます。 毎回ワンパターンの権威主義だとインテリ層からは評判が良くないようですが 圧倒的な人気を誇る長寿番組ですね。 黄門様の役はどうしても高齢の役者が演じなければならないので 何年か演じると肉体的に限界が来て交代するようです。 現在は里見幸太郎が演じていますが、その前の石坂浩二のひげの無い黄門様はいまいちだったなあ。^^;;
「ここにおわすお方をなんとこころえおる。天下の副将軍三戸光圀公なるぞ ひかえい、ひかえいー!この紋所が目に入らぬかー!」という文句は 大人の人なら何度も聞いていると思います。
水戸黄門はもちろん実在の人物で、助さんこと佐々木助三郎、格さん、渥美格之進も実在していました。 うっかり八兵衛や飛び猿、由美かおる扮するかげろうお銀、疾風のお娟(はやての おえん)は居ませんよ。(笑) しかし二人を連れて諸国漫遊したというのは作り話です。 ほとんど旅などしていなくて湯治に熱海に行ったのと墓参りに鎌倉に行ったくらいだと言われています。
★「天下の副将軍」という肩書きを聞くと副大統領や副社長のように重要な役割を担うように思えますが 徳川幕府体勢にはこの副将軍というポストはありませんでした。 では出鱈目なのかというとそうでもなく、副将軍という役職はありませんでしたが 水戸藩主が代々副将軍と呼ばれていたのは事実のようです。 他の大名は参勤交代でときおり江戸の出てきますが、水戸藩主は領地が江戸に近く常に江戸に居たそうです。 徳川御三家であり、江戸に住んでいれば政治に関わる機会も増えます。 しかしこの御三家に向いた適当なポストがなかったのです。 実務に携わる老中や若年寄などは徳川家から見れば家臣の譜代大名のポストです。 そこでこの水戸藩主をとりあえず副将軍とでも呼んでおこうということになったようですね。 また同じ御三家でも尾張、紀伊の殿様は常に江戸に居なかったので副将軍とは呼ばなかったのです。
文字数が多くなりましたので今日はsyouの思い出話をお休みしますね。 すぐに制限オーバーです。 水戸黄門のお話も二つに分けないといけなくなりました。 では、また明日。にこにこヽ(〃^・^〃)ノ
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