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2004/09/27(月)
日常会話の劇/山南純平
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最近の劇の傾向として「わかりやすさ」「つたえること」そして「日常会話」をしばしば耳にするようになった。 これは平田オリザが「ことば」の復活を劇に見出そうとした時期があって、90年代以降の傾向と思われるが「肉体の演劇」に対する反発もあったと考えられる。 実は「ことば」と「からだ」は一体化しているものであって、どちらに比重を置くかという問題ではない。 「言葉は身体であり、身体は言葉である」から演劇が成立する。 しかし、日常会話の「わかりやすさ」と日常会話で「伝える」演劇として舞台に役者たちが立って劇を組み立てるとどういうことになってしまうのか? 私は最近の若手劇団の公演に何度か足を運んでみたが、とにかく退屈である。平田オリザの劇を見ているように退屈である。 若い頃は退屈な新劇を見らされ時は、あの手この手で「批判」をおこない自身の劇スタイルを確立しようと、この劇団ならではの<演出論と役者論>を個性化するために制作してきたつもりだ。 退屈な演劇は命取りである。
戯曲を読んで「理解」した方が良い演劇は命取りである。 それは、役者が舞台に立つ意味や観客が役者を見に来ている意味からすると、劇団としては命取りなことをしているのである。 つまり、戯曲以上のことが舞台に現れてこないと<演出も役者>も只の道具に終わってしまうものだ。 道具は人間が使うものである。 人間が道具を作るのであり、観客は道具や衣装の素晴らしさに感動するものではない。 道具で感動するとしたら、学芸会や商業演劇を見ていた方が良いではないか?
演劇はあくまでも集団的な作業を通じておこなわれる。 劇作家や演出家、あるいはひとりのスターの為に演劇があるのではない。その傾向が現れてくると集団としてはバラバラになってしまう。
日常時間の会話を切り取り、それを劇化していく構造は・・・ まるで居酒屋のひとりごとやバラバラの盛り上がりのように、焦点がボケ続けてしまう。 さびしい人々がそのさびしさをまぎらしていくような集団劇を見るのは辛い。日常の会話劇を見るたびに、日常のエネルギーの方が劇的ではないか!と思うのである。 この傾向は終末を迎えた。 「こごとのオンパレード」よ!さようならだ。
それでも、青年たちとは付き合っていかなければ・・・ カネもコネもない青年たちにあるものは無限大の<可能性>だけである。これだけは素晴らしい財産なのだ。
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