稽古場日記
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2005/01/12(水) 劇評■尼崎ロマンポルノ/山南純平
劇評〜親の因果が子に報い
                   
「廓の中、男子の悲しみ」
作演出/橋本匡
1月8日・9日■in→dependent theater 2nd(大阪・日本橋)


(1)廓(くるわ)の中に廓が。
 
 入場の際にもらった案内文には「廓」について「囲い」であると説明されていた。
 当初、尼崎ロマンポルノというネーミングからして「廓」をエロチックに想像をしていたのは私だけだそうだ!
 拉致・監禁・誘拐・殺人などが日常の事件として報道されている今日、「廓」から性犯罪を連想していた私は悲しい。
 どうやら「囲い」は<家族>であり<地域>であり<マスコミ>であったと感じた。
 
 今や人類は、得体の知れないものに囲まれているという不安や恐怖を感じ取っている。諸行無常だから脳天気にもなれるのだ。
 しかし、「廓」は見えない。見えないから、不安や恐怖を日常の概念で見たくなるものだ。
 それは、今にも吹き飛ばされそうな皮革工場の団結(旗)であった。団結(旗)もまた紛れも無い<廓>ではないか!
 被差別の中にも差別があるように、「廓」の中にも更なる「廓」を感じた。
 
 劇は、直球よりも変化球の方が物語りを分厚くするものである。
 尼崎ロマンポルノは変化球型劇団である。(決め付けてゴメンナサイ!)
 皮革部落に「親の因果」の思想で直球を投げると劇にならないのである。
 直球勝負は体育や運動屋さんに任せておけばいいのです。演劇はひねくれればひねくれるほど心に染みてくるのです。
 「因果」こそ胎児の首に巻きついたがんじがらめのヘソの緒です。そう簡単にほぐれるものではない。
 謎が謎を呼ぶ「廓」の中に登場人物たちの「廓」を見た。「廓」の中の「廓」。
 「廓」は人の外にも内にも、実は目には見えないところにあるのだ。

(2)流産したふたりの胎児と千切られた二本の腕は。

 皮革工場で腕が機械に挟まってもぎ取られてしまう場面と、出産の場面を重ねて見せる橋本氏の演出には度肝を抜かれた。
 何かを犠牲にしなければ新しいものは生まれて来ない。
 残酷なようだが、流産したふたりの胎児は三人目に生まれてくるフジという男のために消えてしまったとも言える。
 同時に腕を失ってしまったフジの父(信二)は胎児の「因果応報」だったのではないか。
「親の因果が子に報い」の逆説もあるものだ。「子の因果が親に報う」。
 フジの母(早紀)が<流産の苦しみ>の中で生きている一方で、
 信二は自らの失われた腕がいつか生えてくるという希望の中で生きているのだ。
 フジは、信二が愛して止まない流産した子たちの生きた肉魂でもある。
 現実と幻想の狭間にある<胎児>と<腕>は、ファミコンのように死んでも生き返ってくるのである。
 これはフィクションなのかノンフィクションなのか。現在なのか過去なのか。その中程をゆらゆらと彷徨う劇に私は勇気付けられた。
 悲しいからこそ笑ってしまうギャグが今のお笑いタレントには見当たらない。
 しかし、この劇では芸としての<お笑い>が随所に仕掛けられていた。
 大阪弁によるペーソスの底力を感じた。言葉だけの問題ではない。明らかに役者の力量を感じてしまったのである。

(3)目に見えぬ旗に立ち向かう役者にブラボー。

この工場の正体がテレビのレポーターによって暴かれた時、私は只者ではないドラマに立ち会わされたものだと一瞬たじろいだ。
 「同和利権でお金溜め込んでますよね」
 テレビのレポーター役は村里春奈。(注・彼女が熊本で中学2年生の演劇部からのお付き合いである)
 見えない団結が向こう側から怒りとなって押し寄せてくる場面である。
 「差別に差別加えてがんじがらめになってでも、この旗(団結)振ってやりますわ!」腕のない信二が旗を口にくわえて振りかざす。
 信二にとって大義はない。崩壊した親子関係を取り戻すための私闘なのだ。
 私闘は時として悲しみを深めてしまう。もがけばもがくほど「囲い」が狭くなるのだ。
 それでも、大義をもって大衆を巻き込む国家利権よりは自由が大きい。
 
 家族や地域という「廓」で生きていかざるを得ない日常生活者は、
 <組織>と<個人>の狭間にもう一つの「廓」を見い出していくのだろう。
 「廓」が目に見えないから劇として成立する。目に見えない「廓」こそが私たち(見る側)の想像力だ。
 尼崎ロマンポルノに一本の骨を見た。役者ひとりひとりに芯が通っていたのである。
 いずれこの劇団もメジャーの渦に巻き込まれていくだろう。
 私の予感は百発百中である。

(注)タイトルに「劇評」とありますが、「劇想」の誤りです。


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