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2008/11/11(火)
いつかおとずれる日
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先月、私の働いている福祉施設を利用していた方が、事故で亡くなってしまいました。利用者であるかたわら、ボランティアとしても活動していました。利用者でありながらボランティアすることに対しては、一部の他利用者から若干の反感も買っていました。 教会で行われたお別れ会に参加しました。決して弱みを見せず、「障害があることに甘えてはいけない」が持論のような人でしたが、教会の牧師さんの前では、不安や劣等感などをさらけ出していたことを初めて知りました。神様の前でだけは、そういった弱い部分を表に出すことが許される、そう考えていたのかも知れません。今はすべてを表に出して、ゆっくり休んでください、と月並みながらそう思います。
いま、筑紫哲也さんの追悼特番を見ています。自らの病気を客観的に、克明に記録していることに驚きました。ジャーナリストとしての職業意識がそうさせるのかも知れません。同じくがんで亡くなった久和ひとみさんも、本によるとやはりそうだったようです。キャスター志望の久和さんをテレビ局のプロデューサーに推薦したのが筑紫さんだったといいます。 どのような死に方をする方は選べません。人はみな死に向かってどのような生き方をするかなのだと、改めてつくづく思います。
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